涙味のキス
センセは、あたしのお見合いに出くわしたのは偶然だったって言った。
運命的だよな。
そう言って笑った。
センセは担任の先生だから知っていたけど、本当にただ知っていただけの存在で、まともに顔を見たのはあの日が初めてだった気がする。クラス委員長だから何度も話したことがあったのに。欠片も興味なかったんだ、あたしたちを子供と見なす大人としか感じてなかったから。
だからという訳ではないけど、あたしの薬指に口づけ、上目遣いにあたしを見たセンセの顔を、1人の男の人だと感じさせたあの表情を、多分あたしは一生忘れないと思う。その位の衝撃。
お見合いの帰りにセンセからキスされた。
初めてのキスは前金で、2回目のキスは煩いあたしを黙らせるキス。驚いて避ける暇も考える暇もなかった。そんな2回のキスとは全然違うキス。
静かになった車内で見つめられて、その視線を外すことは出来なかった。あまりにも優しいその眼差しに、今まで不安だった気持ちが緩んで溶けていくのを感じた。
そっと頬に触れる手もとても優しく感じて、あたしは泣き出してしまった。涙だけが湧き出るように溢れ、センセの指を濡らした。嗚咽さえ出ない、あんな泣き方は自分でも初めてだったけど、悲しみも苦しみも全部溶け出ていった。
センセはあたしを引き寄せ、何度もキスをした。頬に瞼に額に、そして唇に。何度も、何度も。あたしを安心させるように。
涙に口づけたセンセとのキスは、少しだけしょっぱかった。
◆◆◆◆◆◆
「やっちゃん、やっちゃん」
楓菜の声にトリップしてた思考が引き戻された。
「始まったよー」
「はーい」
熱気に包まれた、というか熱気が立ち込める体育館に、息苦しさを感じながら立ち上がった。
二階のギャラリー席よりも前を陣取り、身を乗り出すクラスメートと同じようにあたしもギャラリーの柵にもたれ下を見る。
球技大会2日目。
男子バレーの準決勝が始まった。
うちのクラスで今日まで残った種目は男子バレー、男子サッカー、女子ソフト、女子バスケ。
何気に全種目に残っている。運動部多いしね。
午前はバレーとソフト、午後はバスケとサッカーの試合がある。女子ソフトは朝一で負けてしまった。だから準々決勝を勝ち進んだバレーチームを応援してるというわけ。
「うちのクラスの応援多過ぎだね」
楓菜が苦笑いしながらあたしに言った。
「だね」
見渡さなくてもそこら中女の子だらけだ。
「ケンちゃんと野田くんとハルのせいでしょ」
「だよねー。
あっ!ナイスサーブ!!」
「「キャーッッ!!ヤヒロくんナイスサーブ!!」」
女子が口々に上げる歓声があまりにも甲高くて、少し痛いかなぁくらいだった頭は完全にズキズキと痛み始めた。
最近寝不足だったからかな。
両手で柵をぎゅっと掴み、応援を続けた。
「そういえばねっ!クラスが総合優勝したらナルちゃんが焼き肉奢ってくれるらしいよ!」
心臓が鳴った。
ナルちゃん。
成美先生の愛称。
「そうなんだー。奢ってもらう為にも頑張んなきゃね!」
名前を聞いただけでドキドキするなんて、あたしはかなりの重症だと思う。
結納はもう3日後に迫っていて、あたしの緊張は既にピークに差し掛かっていた。
今からこんなんで大丈夫なんだろうか。
センセはあれからこの球技大会の仕事に終われていて、事務的なことしか喋っていない。しかもセンセは教師の仕事だけじゃなく、実家の会社にちゃんと役職を持っていたりして、そちらの仕事もこなしているのだ。
あたしが成り行きで婚約者になってから、毎週日曜は例え数時間でも会っていたのに、結納の日を教えられた週からそれすらなくなっていた。本当に忙しいんだと、センセの仕事のことをあまり知らないあたしでも分かる。
センセは電話もメールも必要最小限しかしない。
あたしはそれを真似てる。
センセの邪魔になりたくない。これ以上の迷惑なんて掛けたら、あたしはきっと潰れてしまう。罪悪感と、苦しさで。
センセのキスは、あたしの罪悪感を無くすためのキス。
まるであたしのことを本当に好きであるかのように振る舞って、あたしが感じるであろう罪悪感を打ち消すの。
それは、酷く優しくて、それでいて、酷く残酷なキス。
あたしはいつも騙された振りをする。
あたしの心の中は、希望と絶望の二重螺旋が永遠に伸び続けてる。
◆◆◆◆◆◆
我が家に結納の品が届いた頃かな。
あたしを訪ねてくる女の人と、男の人が時折現れるようになったのは。
『貴女、堤靖葉さん?』
綺麗な大人の女性はあたしにニッコリ微笑んだ。
『…はい、そうですが』
女の人に見下ろされたのは初めてで、あたしはかなり萎縮した。その女性の瞳が、微笑んだ口元とは不釣り合いなくらいに冷たかったからでもあると思うけど。
『そこのお店に入りましょ』
『え…?』
『佳人さんのことで貴女とお話したいのよ。宜しいでしょ?』
『……はい、』
センセの名前が出て、あたしは従うしかないと思った。
自分に対する嫌悪感が伝わってくるので、良い話が聞けそうにないことは頭のどこかで分かっていたけど。
『突然訪ねて申し訳ございません。私、桜田の分家の者ですの』
『……分家?』
『分家くらいお知りよね?桜田本家に嫁ぐのですからね』
『………』
『貴女、桜田本家がいつから続いているか御存知?』
『桜田の家業は?』
『家系と血脈は?』
『佳人さんのお立場は?』
『佳人さんのご経歴は?』
矢継ぎ早の質問の中にあたしの答えられるモノは一つもなく、ただ圧倒され息を呑むばかりだった。
『ハッキリと申し上げます。貴女は佳人さんに相応しくありません。潰れかけた会社など救っても桜田には何の利益も有りません。佳人さんの優しさにつけ込むのはお止めになったらいかがかしら。
佳人さんにはちゃんと許嫁の方がおられましたのよ。その方を無碍にして貴女を娶るなんて…。桜田の恥ですわ』
ガツンと殴られた気がする。
頭がガンガンする。
息苦しくて、体中の熱が頭に上っていくのが分かった。
体が震え出す。
『身の程をわきまえなさい。佳人さんは貴女を好いてなどいないわ』
完璧な女性。美人でスタイルも良く、センセの隣を歩くのにとても相応しい。明らかに年下のあたしにも、丁寧な言葉遣いを崩さない、大人な女性。
センセの実家の事も、今までの経歴の事も、何より、センセの気持ちを、考えたことなんてこれっぽっちもなかった。
その事実が、現実が、あたしを打ちのめした。