4 猫缶
マールさんは、好みがはっきりしている猫だ。ドライキャットフード(通称カリカリ)よりも、猫缶やパウチに入っているものが好きなのはどこの猫でも一緒だと思う。しかし、猫缶の中身がマグロ味だと食べない。そこに一切妥協はない。マグロ味を食べるくらいならと、渋々カリカリを食べるくらいマールさんの味覚にマグロはあわないらしいのだ。
そんなマールさんが好きなのはカツオだ。ただ世間はマグロ味が好きな猫が多いようで、たまの贅沢にと猫缶に手を伸ばしても、それは必ずといっていいほどマグロ味だったりする。大きなスーパーやペットショップでないとカツオ味の猫缶は手に入らない。
そんな手に入りにくい猫缶の話を、母親が徒歩30秒のコンビニの店長に話したらしい。多少、誇張して。そして、それを真に受け、気の毒に思った店長は言ってくれた。
「じゃあ、ウチの猫缶はカツオ味取り扱うようにしますよ」
そんなこと言われたら、買わないわけにはいかない。猫缶はマールさんが我が家に来た記念日の贅沢と決めていてもだ。
猫缶を毎食分買うほどの予算はなく、かといって餌ランクが上下する理由なんてマールさんにわかるはずもなく ―― 試しに、猫缶1食、カリカリ2食にしたら、うなうな唸って猫缶が出てくるまで猛抗議だった ―― しかたがなく間を取って、1缶を分割して少量ずつカリカリと混ぜたものがマールさんの食卓にあがることとなった。
そして、食い意地が張っているのは、飼い主も一緒で…。
「お姉ちゃん、私が買ってきた蕩けるチョコ158円勝手に食べたでしょー!!」
妹がそんな雄叫びを上げて自室に入ってきた時、私は該当するものを噛み砕いていた。飴でもソフトクリームでも噛んで食べる癖があるので、蕩けようがなんだろうが、食べ物はまず口に入れて細かくなるまで噛まれる運命にある。失恋でやけ食いをすると決めていたので、2,3個まとめての一気食いをしていた。蕩けるチョコはもうない。
私が、バリバリとチョコを噛み砕く音だけが部屋に響く。咀嚼し終えてやっと妹の質問に答える。
「うん。今、食べ終わった。ちなみに、ポテチ(コンソメ味)もロッポもグッキーも食べた。こっちは今から食べる。ごめんね」
今から食べる分の菓子袋を掲げると、妹にはたき落とされた。あぁ、窒素封入されてるとはいえ、ポテチ(甘醤油味)にひどいことしないで。割れちゃう。
「そんな心のこもってないごめんねなんていらない。なんで勝手に食べたの!?」
「失恋したからやけ食い」
「お姉ちゃん失恋したの!?…でもさ、1人暮らしならともかく、部屋で1人やけ食いとか怖いよ?」
事実そうだと思うが、認めるのは癇に障る。
「1人じゃないもん。マールさんがいるもん」
石油ストーブの前で、餅の様に伸びて幸せそうに寝ているマールさんを示す。きっともう少ししたら体勢を変えてアンモナイトのように丸まったポーズで寝るだろう。猫を愛で、甘いものを食べ、ゴロゴロする。辛いことがあったときはこれが1番効く。
「ハッ。いい大人なのに猫にしか愚痴れないの?」
妹の腹が立つ点を挙げろと言われれば、鼻で笑うのが上手いところを挙げる。今日も綺麗に決まった。立て続けに質問してくる。
「サークルの知り合いとかは?」
「部内恋愛禁止だったから、今更、話すのも気まずい。つうか、なんでサークル?」
2,3代前の先輩方がくっついたりはなれたりを繰り返したせいで、部内の雰囲気は最悪に。それ以来、部内恋愛禁止となっていた。代を重ねるごとに、その禁止令はあってないようなものとなったが、禁止令を出した代が役持ちとなりサークルを仕切っていた時に入部した私達同期は、その影響で恋愛色薄めとなっている。言い訳がましいが、これも在学中に告白しなかった理由の1つだったりする。
「えっ?お姉ちゃんの失恋した相手ってサークルの先輩じゃないの?この間会ったとか言ってなかった?」
「なんで、話してないのにわかったのよ!?」
「かわいいメール送りたいとか言って携帯2時間ぐらい弄りまわしてるから、てっきり好きな人なんだなって思っただけだけど」
「…そんなに弄ってたっけ?」
「2時間サスペンスドラマの最初の殺人から真犯人が崖の上でなんやかんやするあたりまで弄ってた」
とんでもない時間のはかり方だった。そういえば、あの日妹が見ていたドラマは、特番時期にしかしてくれないドラマシリーズだった気がする。
さっきまで仁王立ちだった妹は、いつの間にか座り込んで、皿の上に出したピスタチオだのマカダミアだのナッツ系のつまみに手を出し始めた。憎まれ口たたきながらも、話を聞いてくれるようだ。妹相手に恥ずかしいけど、話して楽になろう。
「だからね、私としては腹が立ったわけ。わかる?私が自分を好きだと知りつつ、尚且つ、自分も私のことを好きだと言いながら放っておいたんだよ。5年も。腹が立ったけど、先輩を殴るわけにはいかないじゃん?」
「そうだねー」
既に飽き始めた様相を呈している妹に同じことを再現してみた。
「だから、こうしてやったの」
「お姉ちゃん、痛い」
痛かろう痛かろう。痛いようにしたのだ。心のうちで痛がる妹を見てほくそ笑む。ふひひ、私は、悪い姉だよ。
「でも、お姉ちゃんもさ、相手のこととやかく言える立場ではないんじゃない?」
しかし、妹も負けてはいない。反撃を繰り出してきた。
「……そうなのよ。冷静になってみれば、先輩は私に寂しい思いをさせないようにって考えてくれてたのに対して、私はもっと早く言ってくれてたら一緒にいられる時間が増えたっていうわがままのようなこと言って、プチ暴力までふるって逃げたわけよ。しかも、捨て台詞が‘怒りました’だよ。どれだけ、傲慢なんだって話だよ」
「私には、その台詞は構ってくださいとしか聞こえないわ。お姉ちゃんの話聞いてると、先輩のこと好き好き超好きーって言いながらこんなことして逃げたみたいだし。なんかどっちもどっち。優柔不断って言うかさ…」
こんなことのあたりでさっきの仕返しとばかりに頬を引っ張られた。
「痛い」
頬も痛いし妹の的確な指摘も痛い。
「私も痛かった」
「ごめん」
「分かればいい。じゃあ、お菓子の追加とマールさんの猫缶が切れてたから買ってきて」
そもそも、猫缶ストック確認をしようと棚チェックしていて、お菓子が大量に消えていたからこの部屋に突入したらしい。
「なんで私が。普通、傷心の人を使わないでしょうが」
「蕩けるチョコだけは私のこづかいで買ったお菓子だったんだよね。楽しみにしてたんだ。ねぇ、美味しかった?」
ここで蕩けるチョコの話!!
値段まで覚えていたのは、相当買うか買うまいかで迷ったのだろう。その迷いを振り切って買ってきたのなら、このねちっこい絡みも納得できる。
でも、猫缶を買うとなると、あのコンビニに行かないといけない。
「…振られた現場が、あそこのコンビニで、今、行きたくない」
「……振られたの?振ったんじゃなくて?」
「わがまま言って、プチ暴力ふるって捨て台詞つきで逃げたなんて、愛想つかされたに決まってるじゃん!!」
私に何度、事実確認をさせるのだ。
「私は、お姉ちゃんが振ったんだと思ってた。相手は、好き好き言われたけど、プチ暴力ふるわれて捨て台詞つきで逃げられて、わけわかんないって混乱してると思う」
「振ったなら、やけ食いなんかしない」
「まあ、そこらへんは本人同士で話をつめてください。問題はマールさんです。猫缶がなかったら、ごねるよ。早く買ってきて」
美味しいものは全て冷蔵庫に入っていると思っているマールさんは、自分の餌に不満がある際、慌しく食事を作る横で冷蔵庫の前に座り込んで待っている。居間と台所の動線の上にいるため、何度も足元不注意で蹴り飛ばされそうになるが、それでもやめない。
「一緒に行こうよ」
寒い思いをするなら、道連れがほしい。
「もうお風呂入ったからやだ。それに、ストーブ消していくとしたら、こんなに柔らかくのびのびしてるマールさんがかわいそう」
ビシッと指されたマールさんに視線が移ると同時に、丸まり始める。
「ほら。ニャンモナイトになったよ。耳も血行がいいからピンク色にうっすらなってるし。こんなマールさんに寒い思いをさせるつもりなの!?」
なんだか謂れのない非難を受けているけど、確かに老猫に寒さは厳禁だ。猫又になるくらい長生きしてほしいと思っている身としては、誰もいなくなり徐々に冷えていく部屋に残していきたくない。
「仕方がない…。買ってくるか。ストーブ番よろしく」
シュシュと湧き出したやかんに押されるように財布をもって立ち上がる。
「蕩けるチョコも忘れないでね。キャラメル味だったから」
しつこい。マールさんは、やはり妹似だな。