3 喧嘩
先輩のことは好きだが、幻覚は正直遠慮したい。
メールのやりとりをするまでは、あまりの幸運にまた幻を見ただけではないかと怯えていた。2回目の診療のときは、そのメールを拠り所として歯科医院へ足を向けた。
そんな心配を他所に、普通に先輩は現れた。何回見直しても先輩で安心する。あまりにも見つめるので、不思議そうにされた。
「どうしたの?」
「いえ、先輩だなって」
「うん。先輩ですよ?始めるよ」
2回目は、普通に治療され歯並びを褒められて終わった。片思い相手に歯の治療をされることになるとは想定していなかったけど、小学生の頃にいやいやながらも歯の矯正を受けていてよかったと思った。
問題は3回目。つまり、最後の治療に訪れた時に起こった。
最終日は、万全の状態で挑みたいと時間に余裕を持って歯科医院に行った。歯だって3回は磨いた。白いタイル張りのポーチを抜け、目指す受付に診察券と保険証を提示する。
今は開演前の舞台の上で緞帳を見つめている気分だ。上手く演奏ができるだろうかという不安とここまできたらやるしかないという覚悟がせめぎあう時間。見知らぬ人々の視線や強烈な照明があの向こうに待っていると思うと、いつまで経っても慣れずに公演の度に緊張で胃が痛くなった。私が胃を押さえているのを見ると先輩は背中をポンポンと軽く叩いて気合を入れてくれた。とちらないで演奏できたのは、そのおかげだと思っている。
診察券と保険証を返してもらったのでソファにかけて待っていようとしたら、受付さんからとんでもないことを言われた。
「すみません、春日さん。担当の先生ですけど、今日は篤弘先生になります」
「え?代わるんですか?」
篤弘先生は、先輩の叔父さんだ。
「はい。前の担当は研修医でしたので、先月でうちでの研修期間が終わって大学病院に戻りました」
そういえば、無事に歯科医師になれても1年は修行の身と聞いたことがある。
でも、まさかこのタイミングで何も言わずにいなくなるとは思っていなかった。告白しなくても、先輩にとって自分の位置がどの辺にあるか分かってしまった。
「そうなんですね」
それしか言いようがない。身体の力が抜けてへにゃりと崩れそうになる。
「春日さん!?大丈夫ですか?」
「えっ?」
「顔色が真っ青ですよ。貧血ですか?とりあえず、座りましょうか」
ささっと席を立ちカウンター向こうからこちらへやってきた受付さんは私をソファまで誘導して、温かいお茶を注いだ紙コップを持ってきてくれた。
持つには少し熱い温度が薄い紙越しに伝わってきて、これが現実であると私に教えてくれる。こんな現実は知りたくなかった。
しばらくお茶を飲んで休んでみたけど、自分でも驚くほどの体調の悪化に予約をキャンセルしてもらい帰ることにした。
「今日はすみません。予約については改めて電話します。お茶をありがとうございました」
まだふらふらするが、気をつければ帰れなくもないだろう。
「気をつけてくださいね。お大事に」
心配そうなその声に振り向いて会釈をしながら外に出ようとした時、自動扉が開いて冷たい風と共に誰かが入ってきた。前を見ていなかったのでぼすっとぶつかってしまった。
あまり力が入らない状態だったので、軽くぶつかっただけでも反動でしりもちをつきそうになったところを支えられる。
「すみません。大丈夫でしたか。あれ?春日?」
こんな時でも、いつも通りの呼び方をされると嬉しくなるものなんだな。
「先輩?」
「うん。…具合が悪そうだね?」
先輩も私の顔色の悪さに気づいたらしい。
「ちょっと…貧血が出たみたいで」
「今から帰るの?車だから送っていくよ」
近くだからと遠慮しても、心配だからと聞かない。今、先輩と一緒にいるともっとひどくなると思うのだが。それでも具合の悪い私と健康な先輩では軍配がどちらにあがるか明白で、やや強引に車に乗せられた。
「春日がそんなに具合悪くしてるの初めて…。いや、1度見たか」
エンジンが切られたばかりの車内はまだ暖かく、歯科医院の出入り口から駐車場までの短い距離で冷えてしまった身体を温めてくれる。
「きついなら椅子倒していいから」
お言葉に甘えさせてもらって少しだけ椅子を倒させてもらった。シートベルトを締めたのを確認してから先輩はゆっくり車を発進させる。
「わざわざ送ってもらってすみません」
「こんなときに気にしない。家は変わらずの場所でいいのかい?」
1度酔いつぶれて具合を悪くした私を送って来てくれた事があるので、先輩は自宅を知っている。
「はい。ここからだと、左に曲がってください。真っ直ぐ行ったらコンビニがありますから、そこで降ろしてもらえれば」
歯科医院から歩いて5分ちょっとの場所に家はある。家族に迎えに来てもらわずに、歩いて帰るとしたのはその近さからだ。左折するためのウインカー音が車内に響く。気を使ってもらっているらしくスピードはゆっくりめだ。歩道から車道に出る段差もあまり気にならない。
「いや、寒いし。家まで送ってくから」
「でも、用事があったんじゃないんですか?大学病院からわざわざ来られたんですよね?」
「あー、うん。今日は春日の予約があったから、診ようと思って。17時退勤だから、予約時間には余裕で間に合うと思ったんだ。だけど、午後にさ、難しい症例の患者さんが来られて、その処置の見学してたら遅くなった。ごめんな。診る約束だったのに遅れて」
「…私のためにですか?」
「そう。だから、春日がいないなら、そのまま帰るから気にしないで」
現金なもので、その言葉を聞いたらさっきまでの気分の悪さはなくなっていった。
「先輩、お時間ありますか?」
「時間はあるけど…。とりあえず、コンビニに停めるよ?」
先輩は目印にしていたコンビニに車を停めた。
「あの、お話したいことがあるんです」
私の言葉に先輩も向き直る。
5年もの思いを、まさか自宅から徒歩30秒のコンビニで告げることになるとは思わなかったが、今なら言える気がしたのだ。むしろ、理由をつけて延ばし延ばしにしてしまう私が言えるのは今しかない。
「あの、先輩のことが好きでした。付き合ってもらえないでしょうか?」
言えた。
畳み掛けるようにいかに好きかを語ってもいいのだが、幻覚を見る女だと知られたら引かれる気がするので、先輩の返事を待つ。しばしの沈黙のあと返ってきた答えは、まずYESかNOがくると思っていた私の予想を裏切るものだった。
「春日が僕のことを好きなのは知ってた」
知られてた!!
「ど、どうしてですか?」
「まあ、聞いて」
狭い車内で詰め寄る私に、落ち着くように言うだけで先輩は理由を話してくれない。
「続けるよ?春日が僕のことを好いてくれてるのは知ってた。たぶん、結構早い段階で。僕も嬉しかったけど、学業が忙しくて、もし付き合うとなったら春日にはかなり寂しい思いをさせることもわかってた。だから、サークルの仲がいい先輩後輩でいるのに満足するようにしてたんだ」
先輩も先輩であの関係を望んでたんだ。でも、ちょっと待ってほしい。
「ちょっと待ってください。なぜ、勝手にそんな風に決め付けちゃうんですか?私が寂しがると。私がどれだけ先輩のこと好きなのかわかりますか?好きすぎて大変なんですよ!!」
幻を見たのは先輩を拒絶しようとしたあの時だけだが、それ以降、先輩関連で自分に都合の良い光景を見ると疑う癖がついた。自分が見ているものに確信が持てないのは辛い。それもこれも先輩のことが好きすぎてなのに。
「この際なんで言っちゃいますけど、ものすっごい好きなんです。今まで、5年以上も片思い続けたことないですよ。今日だってやっと告白しようとして来たら、いないし。先輩にとって私なんてそんな程度なんだって思ったら、目の前が真っ暗になりました」
「…もしかして、貧血になったのはそのせい?」
「そうです。そのことは、とりあえずいいんです。とにかく、私のために来てくれたのが嬉しくて勢いに乗って告白したら、前から知ってた?寂しい思いをさせたくなかった?サークルで会える週2日で、私がどれだけ幸せになれたと思ってるんですか!!もっと早く言ってくれてたら!!ふざけんなー!!」
口を挟ませないように一息に言ってのけたせいで、最後はへろへろな声しかでなかった。シンとした車内にぶひゅという噴出音が聞こえた。確かに、真面目なシーンでへろへろなふざけんなーを聞かされたら笑いたくもなるだろう。私も自分で出しといて笑いたくなったけど。けど、今はダメだろう。顔を背けたのがせめてもの配慮なんだろうけど。
イラっとしたので、先輩の両頬に‘たてたてよこよこまるかいてちょん’をしてやった。
「え!?春日!?」
そんなことをされると思っていなかっただろう先輩は、呆然としている。
「私、怒りました!!帰ります!!」
徒歩30秒。隣がコンビニなんて本当にすぐソコだね~と思ってたけど、まさかこんなことで実感するとは思わなかった。今までにないくらい手早くシートベルトを外して車外へ駆け出した。