「魔法が使えない令嬢は不要だ」と婚約破棄されましたが、私が去った公爵領の水車が全部止まったのは私のせいではありませんよね? ~前世で工学部だった私、粉挽き小屋でスローライフしますわ~
「魔力測定ゼロ。魔法一つ使えないお前など、公爵夫人にふさわしくない。婚約は破棄だ」
きらびやかなシャンデリアの下、ルクレツィオ・アルドレードの声が社交界の広間に響き渡りました。
くすくす、と嘲笑が波紋のように広がります。
私、アイリーン・ヴァルトは、深緑の瞳をわずかに伏せただけでした。
(ああ、ようやくこの日が来たのね)
彼の隣には、ピンクブロンドの巻き髪を勝ち誇らせた新興男爵令嬢、セラフィーナ・メルヴィルが寄り添っています。
「まあ、可哀想なアイリーン様。魔法も使えないなんて、生きていて恥ずかしくありませんの?」
扇の陰でくすりと笑う彼女に、私は静かに微笑み返しました。
この国――エルデン王国では、魔力量こそが人の価値を決めます。水車を回すのも、製粉も、鍛冶の送風も、揚水も、すべて風魔法か水魔法を使える人間の労働頼み。
魔力ゼロの私は、八年間ずっと『出来損ない令嬢』と蔑まれてきました。
ですが。
(魔法なんて、属人的で脆いインフラですのに)
前世――現代日本で機械工学を専攻していた私には、この国の産業がどれほど非効率で危ういか、痛いほど見えていました。
魔法使いが一人休めば、村の粉挽きが止まる。そんな綱渡りの上で、この国は成り立っているのです。
「かしこまりました。それでは、失礼いたしますわ」
喚かず、泣かず。私は淡々とドレスの裾をつまみ、一礼しました。
それだけ。
背後で「あっさりしすぎて張り合いがないな」とルクレツィオが鼻を鳴らすのが聞こえます。
(あの機械たち、私がメンテナンスしないと三ヶ月で全部止まりますけれど……)
コツ、コツ、と靴音を鳴らして広間を出ながら、私は心の中でそっと付け加えました。
(教えていませんから、まあ、頑張ってくださいませ)
扉が閉まる。
嘲笑の渦を背に、私はこの八年間で初めて、ほんの少しだけ、口の端を上げたのでした。
◆
誰も、知りませんでした。
この八年間、公爵領の生産量の実に六割を支えていたのが――魔法ではなく、私の作った『機械仕掛け』だったことを。
話は八年前に遡ります。
事故で命を落とし、この世界に転生した私は、幼い頃からこの国の欠陥に気づいていました。
(歯車を作ればいいだけなのに、誰も作ろうとしないのよね)
魔力ゼロと蔑まれ、辺境の離れに追いやられた私は、逆にそれを好機と捉えました。
誰も見向きもしない場所で、私はこつこつと積み上げたのです。
水流だけで回る大型水車。
歯車で連動する製粉装置。
人力に頼らない送風機。
揚水機。
領民たちは「なぜか最近、魔法使いが少なくても粉が挽ける」と首を傾げていました。
ですが、その仕組みを理解しようとした者は、誰一人いませんでした。
「魔力ゼロの令嬢が、何かこそこそやっているらしい」
そんな噂は、嘲笑と共に消えていきました。
──それでいい。私はそう思っていました。
理解されなくていい。評価されなくていい。
ただ、いつか。
(木漏れ日の差す水車小屋で、穏やかな昼下がりを過ごせたら)
前世、睡眠不足で研究室に泊まり込んでいた私の、ささやかな夢。
それだけが、私の心をこの世界に繋ぎ止めていたのです。
◇
婚約破棄の夜。
私は自室で、たった一つの旅行鞄に工具と設計図をまとめました。
ドレスも宝石も、ほとんど置いていきます。
必要なのは、この頭の中にあるものだけ。
窓の外、遠くで水車が静かに回る音が聞こえます。
「さようなら」
私はその音に向かって、小さく呟きました。
三ヶ月後、あなたたちは止まる。
でも、それは私のせいではありませんわ。
メンテナンスの仕方を、誰も私に尋ねなかっただけ。
夜が明ける前に、私は公爵領を後にしました。
◆
「ここですわね」
辿り着いたのは、隣接する辺境伯領のはずれ。
さびれた古い水車小屋が、清流のほとりにぽつんと佇んでいました。
前世の知識で目星をつけていた場所です。
(この水量なら、大型水車がいける)
辺境伯領は魔法使いの数が少なく、産業が細っていました。
ですが私にとっては、むしろ理想の土地。
魔法に頼らない技術を、素直に受け入れてくれる土壌がある。
私は袖をまくり、さっそく作業に取りかかりました。
朽ちた水車を修復し、歯車を削り出し、製粉機を組み上げる。
昼下がりの木漏れ日が、粉塵をきらきらと照らします。
「……ずっと、こういう昼下がりが欲しかったんですのよね」
回る水車の音。粉の匂い。窓辺で丸くなる野良猫。
初めて手に入れた、自分だけの時間でした。
数日後。
私が焼き上げたパンの匂いに誘われてか、水車小屋の戸口に、巨大な影が立ちました。
黒に近い深紅の髪。褐色の肌には、鱗の名残がうっすらと浮かんでいます。
見上げるほどの長身に、獣のような眼光。
(……竜人?)
「冷酷無比の竜将」と噂される、辺境伯領の領主代行――ガイウス・ドラクレアでした。
その眼光だけで、並の兵は震え上がると言います。
ですが私は、粉まみれのエプロンのまま、焼きたてのパンを差し出しました。
「いかがです? できたてですわよ」
ガイウスは無言でパンを受け取り、一口かじり――
ぴたり、と動きを止めました。
その双眸が、みるみる潤んでいきます。
「……もう一つ、もらってもいいか」
「三つ目ですけれど、まあ、どうぞ」
冷酷無比の竜将が、パンを頬張って涙目になっている。
(この方、噂と全然違いますわね)
以後、ガイウスはこっそりと水車小屋に通う常連になりました。
窓辺でパンを頬張り、いつのまにか膝の上には猫が乗っている。
そんな穏やかな図が、私の日常に加わったのです。
◆
「アイリーン様! 新しい水車、もう回りましたよ!」
下町育ちの快活な少女、ミラが駆け込んできました。
十五歳。魔力を持たない平民ゆえに、公爵領では見向きもされなかった娘です。
私が「魔力に価値なんて置いていませんわ」と言った時、彼女は涙をこぼして弟子入りを願い出ました。
手先が器用で、歯車の組み立ても小麦挽きも、みるみる覚えていきます。
「上出来ですわ、ミラ。あなた、才能がありますのよ」
「えへへ、アイリーン様に褒められると照れちゃいます」
半年後。
辺境伯領の生産量は、なんと三倍になっていました。
魔法使い不足という弱点が、逆に『機械技術を素直に受け入れる土壌』となったのです。
村々には私の作った水車が並び、粉挽きも揚水も、魔法なしで回るようになりました。
領民たちは私を「機械の令嬢様」と慕い、身分でも魔力でもなく、私が『作るもの』そのもので評価してくれます。
ガイウスは相変わらず寡黙でしたが、報告書の隅に不器用な字で「よくやった」とだけ書いて寄越すのが常でした。
(この方なりの、精一杯の言葉なのでしょうね)
私はそれを、そっと引き出しにしまっていました。
◇
そんなある昼下がりのことです。
水車小屋の前に、見覚えのある紋章をつけた馬車が停まりました。
公爵家の使者です。
「アイリーン様! どうか、どうか公爵領へお戻りを――」
膝をついて懇願する使者の前に、ミラが仁王立ちで割って入りました。
「アイリーン様はどこにも行きません! 帰ってください!」
啖呵を切る彼女の背後で、ガイウスがゆらりと立ち上がります。
無言のまま、使者を睨みつける竜将の圧に、男は真っ青になって後ずさりました。
私は粉まみれのエプロンを軽くはたき、静かに歩み出ました。
「あら。何か、御用でしょうか」
さて――一体、公爵領で何が起きたのでしょう。
(三ヶ月……いいえ、もう半年ですものね)
私は、答えを知っていました。
◆
「なぜだ! あの出来損ないがいた頃は、こんなことにはならなかった……!」
同じ頃、公爵領。
ルクレツィオの怒声が、公爵邸に虚しく響いていました。
アイリーンが去って三ヶ月。
領地の機械群が、次々と停止していったのです。
まず製粉が止まりました。
次に揚水が止まり、畑が干上がりました。
送風機が止まり、鍛冶場の火が落ちました。
領地の食糧生産は、音を立てて崩壊していきました。
「セラフィーナ! お前、魔法で全部解決できると言っていただろう!?」
「そ、それは……」
ピンクブロンドの令嬢は、青ざめて水車の前に立ち尽くしていました。
魔力は豊富です。ですが。
「歯車が……この歯車が、どう噛み合っているのか、全然わかりませんの……!」
魔法の理屈は、機械には一切通用しませんでした。
止まった歯車一つ、彼女には直せなかったのです。
魔法使いを大量に動員して補おうとすれば、今度は人件費で財政が傾く。
公爵家は、水車一つ直せずに窮地へと転落していきました。
◇
書斎で、老公爵ヴァルトは膨大な帳簿を睨んでいました。
「おかしい……この八年、なぜ我が領地は、これほど少ない魔法使いで生産を維持できていたのだ?」
調査を重ねるうち、彼はある事実に行き着きます。
辺境の離れ。
『出来損ない』と蔑み、追いやった娘の作業場。
そこに残されていた、無数の設計図。
水車、歯車、送風機、揚水機――領地を支えていたすべての仕組みが、そこにありました。
老公爵の手から、帳簿がすべり落ちました。
「……この八年、領地を支えていたのは」
声が震えます。
「魔力ゼロと蔑んだ、あの子だったのか」
魔力至上主義。
この国の誰もが信じて疑わなかった価値観こそが、真に領地を支えた才能を見誤らせた元凶でした。
失って、初めて気づく。
老公爵は、しばらくその場から動けませんでした。
◆
「どうか、どうかお戻りください! 公爵家は、あなた様を必要としております!」
水車小屋の前で、使者は地に額をこすりつけんばかりに懇願しました。
私は粉まみれのエプロン姿のまま、静かにその言葉を聞いていました。
春の陽射しが、木漏れ日となって降り注ぎます。
背後では回る水車が、ことこと、ことこと、と穏やかな音を立てています。
屋根の上では、猫があくびをしました。
ガイウスが、私を守るように一歩前へ出ます。
ミラが、心配そうに私を見上げます。
私は、ゆっくりと口を開きました。
「あら、おかしなことをおっしゃいますのね」
深緑の瞳で、まっすぐに使者を見据えます。
「私、魔法が使えないので不要なのでしょう?」
使者が、びくりと肩を震わせました。
「ならば――魔法が使えないままの私を、必要としてくださる場所にいますわ」
静かに、けれど、はっきりと。
喚くこともなく、罵ることもなく。
ただ、事実だけを。
「水車が止まったのは、私のせいではありませんもの。私はただ、公爵家を去っただけ。メンテナンスの仕方を、どなたも私にお尋ねになりませんでしたわ」
「そ、それは……」
「因果、というものですわね」
私は、そっと微笑みました。
使者は、返す言葉もなく、うなだれて馬車へと戻っていきました。
馬車が去っていくのを見送りながら、ガイウスがぽつりと呟きます。
「……行かないのか」
不安そうな、けれど確かめずにはいられないという声色でした。
私は、笑いました。
「当たり前でしょう。ここが、私の居場所ですもの」
ガイウスの表情が、ふっと和らぎました。
──冷酷無比の竜将が、耳まで赤くなっていたことは、内緒にしておきましょう。
ミラが「やったー!」と飛び跳ね、猫が驚いて屋根から飛び降りました。
穏やかな、いつもの昼下がりが、そこにありました。
◆
「――『魔導に頼らぬ産業技術官』として、国家規模でのご登用を打診いたしたく」
公爵家の崩壊は、瞬く間に王家の耳に届きました。
魔法使い不足の辺境伯領が、わずか半年で生産量を三倍にした――その噂もまた。
王都から遣わされた高官が、水車小屋を訪れ、恭しく頭を垂れたのです。
「あなた様の技術は、この国の未来を変えます。どうか、王国のために」
私は、しばし考えました。
そして、一つの条件を出しました。
「お受けいたしますわ。ただし――この水車小屋を離れないこと。それが条件です」
高官は目を丸くしましたが、やがて深く頷きました。
こうして辺境伯領は、魔法後進国から、技術先進地へと変貌を遂げていきます。
各地から技術を学びに人が集まり、ミラのような『魔力を持たない者たち』が、手に職を得て生きていけるようになりました。
魔力がなくても。歯車一つ削れれば、人は生きていける。
私が証明したかったのは、たったそれだけのことでした。
◇
そんなある日の昼下がり。
いつものように窓辺でパンを頬張るガイウスの膝には、やはり猫が乗っています。
「……アイリーン」
「なんですの?」
「その、なんだ。ずっと、ここにいてくれ」
ぼそり、と。
不器用な竜将の、精一杯の言葉でした。
私は、思わず吹き出してしまいました。
「ええ。喜んで」
木漏れ日の中、ようやく手に入れた、穏やかな時間。
これ以上、望むものなど――
と、思っていた矢先のこと。
ミラが一通の手紙を持って駆け込んできました。
「アイリーン様! 王都から、変わったお手紙が」
差出人の名を見て、私は息を呑みました。
差出人――アルベール。
(まさか……この名前)
手紙にはこう記されていました。
『王都にて、魔力測定器を作った天才の噂を聞いた。――君も、あちら側から来た人間だろう?』
魔力測定器。
この世界の魔法を、数値として『測る』装置。
そんなもの、この世界の技術では作れるはずがない。
つまり。
(前世で、同じ研究室にいた……もう一人の転生者)
私は、しばし手紙を見つめました。
回る水車の音が、遠く聞こえます。
穏やかな昼下がりに、新たな風が吹き込もうとしていました。
(さて――この国の魔力至上主義、次はどこまで揺らぐのかしら)
私はそっと、手紙を胸に抱きました。
物語は、まだ終わりません。




