第8話 噂という名の波紋
視察官ドレイク卿が去った翌日から、空気が微妙に変わった。
誰かが直接何かを言ってくるわけではない。
けれど、視線が増えた。報告書に添えられる確認印が、以前より慎重になった。些細な決裁が、ほんの少しだけ時間を要するようになる。
――噂が、動き始めている。
「最近、中央からの問い合わせが増えました」
ハロルドが、書類を抱えたまま言った。
「内容はどれも形式的ですが……担当者が、以前と違う」
私は、頷いた。
「監視が始まった、ということでしょう」
嫌な響きではある。けれど、完全に無視されるよりは、ずっといい。
見られるということは、切り捨てられていないということでもある。
とはいえ――。
「厄介ですね」
ハロルドの言葉に、私は苦笑した。
「ええ。派手な成果は出せないのに、派手な失敗は許されなくなりました」
その言葉に、彼は苦く笑う。
この区画は、今まさに“試験台”になりつつあった。
昼過ぎ、殿下が執務室を訪れた。
「王宮で、少し面白い話を聞きました」
そう前置きしてから、殿下は言う。
「第一王子殿下が、外縁区画の施策について“視察結果が曖昧だ”と不満を漏らしているそうです」
胸の奥で、冷たいものが動いた。
「直接の介入は?」
「今のところはありません。ただ……」
殿下は、少し言葉を選ぶ。
「次の会議で、区画の管轄変更を提案する可能性がある」
管轄変更。
それはつまり、成果が出る前に、管理権限だけを奪われるということだ。
「……なるほど」
私は、机の上の帳簿に視線を落とした。
「数字が動ききる前を狙っている」
「ええ」
殿下の声には、怒りよりも警戒が滲んでいる。
「正面から止めれば、対立が表に出ます。――それは、今は避けたい」
私は、しばらく考え込んだ。
派手な成果を出せば、奪われる。
静かに続ければ、権限を奪われる。
どちらも、過去の私が味わってきた結末だ。
「……一つ、手があります」
私は、顔を上げた。
「成果を“王宮のもの”にも、“第二王子殿下のもの”にも見せない方法です」
殿下が、興味深そうに目を細める。
「聞かせてください」
「この施策を、制度として固定します。個人の裁量ではなく、区画の規定として」
私は、紙を取り、簡単な図を描いた。
「そうすれば、管轄が変わっても、簡単には覆せません。変えるには、公式な改正が必要になります」
殿下は、図を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「……奪えない成果、ですか」
「はい。目立たない代わりに、壊しにくい」
殿下は、ふっと笑った。
「本当に、あなたらしい」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
数日後。
区画内の役人と商人代表を集め、小さな会合が開かれた。
「これは、“特別措置”ではありません」
私は、全員を見渡して言った。
「この区画が、この区画として生き残るための、最低限の取り決めです」
最初は、不安そうな顔が多かった。
だが、数字と理由を示すたび、空気が変わっていく。
「……これなら、続けられるかもしれない」
誰かの呟きが、確かな手応えとして胸に残った。
会合の後、殿下が静かに言った。
「あなたは、人を動かしますね」
「いいえ」
私は首を振る。
「動いてもらえる形を、作っているだけです」
夕暮れの街を見下ろしながら、私は思う。
噂は、もう止まらない。
第一王子の耳にも、確実に届くだろう。
けれど今度は、違う。
これは、私一人の成果ではない。
奪われるための“成果”ではなく、残るための“仕組み”だ。
派手ではない。
だが、確実に波紋は広がっている。
その波が、やがて王宮に届くことを、私は静かに覚悟していた。




