第4話 数字が示す現実
それからの日々は、静かで、忙しかった。
第二王子の居館に設けられた小さな執務室は、朝から晩まで紙の擦れる音とペン先の走る音で満たされるようになった。訪れる人間は少ない。けれど、その分、誰にも邪魔されずに仕事ができた。
「……やはり、ここが歪んでいます」
私は帳簿の一部を指で叩いた。
ハロルドと向かい合い、税収一覧と人口記録を並べている。年代は揃っているのに、数字が噛み合っていない。
「この地区は、人口が減っているはずなのに、徴税額だけが横ばいです」
「……確かに。だが、それは中央からの割り当てが――」
「ええ。割り当てが現状を反映していない。だから、現場は無理をして帳尻を合わせている」
私は、息を吐いた。
これは怠慢ではない。むしろ逆だ。破綻しないよう、誰かが必死に支えてきた結果だ。
「結果として、何が起きているかというと……」
別の紙を差し出す。
「税を払えない層が、さらに地下に潜っています。記録上は存在しない人間が増えている」
ハロルドが、苦い顔で頷いた。
「治安が悪化する理由ですな」
「はい。捕まえられないのではなく、“存在しない”から捕まらない」
私の言葉に、室内が重く沈む。
これは、派手な改革で解決する問題ではない。剣でも、奇跡でも。
「まずは、正確な現状把握が必要です」
そう言って、私は一枚の白紙を取り出した。
「税の再調査。帳簿上ではなく、現地で。役人だけでなく、商人と住民から直接話を聞きたい」
「……正気ですか」
ハロルドが思わず漏らす。
その反応は、当然だ。現地は“問題地区”と呼ばれて久しい。
「中央がやらないなら、こちらでやるしかありません。数字は嘘をつきませんが、嘘をつかせているのは人です」
そのとき、扉がノックされた。
「失礼します」
低く、落ち着いた声。
振り向くと、レオンハルト殿下が立っていた。今日は王宮へ顔を出す予定だったはずだ。
「話は聞こえていました」
殿下はそう言って、私たちの前に立つ。
「現地調査、ですね」
「はい。危険は承知しています」
私は、視線を逸らさずに答えた。
三ヶ月という期限を切ったのは私だ。覚悟はある。
殿下は少し考え、それから頷いた。
「同行は最小限にしましょう。大勢で行けば、構えられる」
「殿下も……?」
「ええ。補佐官だけを行かせるわけにはいきません」
その言葉に、胸の奥がじんとする。
責任を取ると言った言葉が、形になっている。
数日後。
私たちは王都外縁の地区を歩いていた。
石畳は欠け、建物の壁には修繕の跡が雑に残る。市場はあるが活気はなく、人々の目は警戒に満ちている。
王家の紋章を隠した簡素な装いでも、私たちが“中央の人間”だと分かるのだろう。
「……話を聞いてくれるでしょうか」
私が小声で言うと、殿下は静かに答えた。
「聞かせる場を、作りましょう」
殿下は、近くの商店に声をかけた。
威圧も命令もない。ただ、丁寧な自己紹介と、目的の説明。
最初は警戒され、追い払われかけた。
けれど、殿下が最後にこう言った。
「今日は、罰を与えに来たのではありません。――困っている理由を、聞きに来ました」
その一言で、空気が変わった。
ぽつり、ぽつりと声が集まる。
税が重いこと。役人に相談しても改善されないこと。仕事が減り、若者が去ったこと。
帳簿には載らない、けれど確かに存在する現実。
私は、必死に書き留めた。
数字と、言葉と、人の顔を。
夕暮れ時。
居館に戻った私は、椅子に深く腰掛け、息を吐いた。
「……ようやく、繋がりました」
広げた紙の上で、数字が一本の線になる。
人口減少、税収停滞、治安悪化。それらは別々ではなく、同じ原因から派生していた。
「一つ、試したいことがあります」
私は、殿下を見る。
「税の一部猶予と引き換えに、商人に物流の再開を約束させる。中央を通さず、区画内で回す形です」
「中央は反発します」
「ええ。でも、成果が出れば黙らせられる」
殿下は、しばらく私を見つめていた。
夜会の光の中ではなく、執務室の静かな灯りの下で。
「……やってみましょう」
その一言が、合図だった。
数週間後。
小さな変化が、数字に現れ始める。
未納だった税の一部が動き、商人の往来が増え、治安報告の件数が減る。
派手な成功ではない。誰も称賛しない。
けれど、私はその帳簿を見て、確信した。
――間違っていない。
夜、執務室に一人残り、私はペンを置いた。
窓の外には、静かな街の灯り。
婚約を破棄された夜、私はすべてを失ったと思った。
けれど今は、違う。
私は、数字の中に、確かな“手応え”を見つけていた。
それは、派手ではない。
だが、確実に世界を動かし始めている。




