第3話 派手ではない価値
翌朝、第二王子の居館は驚くほど静かだった。
王宮に隣接する第一王子の宮とは違い、廊下を行き交う人影も少ない。装飾は簡素で、調度品も実用重視。けれど、どこもきちんと磨かれていて、埃ひとつない。
――管理が行き届いている。
それが、最初に浮かんだ感想だった。
誰も誇らない場所ほど、誰かが黙って支えている。昨夜、殿下が語った「続く形」という言葉が、頭の中で反響する。
「おはようございます、エリシア嬢」
声をかけてきたのは、年配の文官だった。
名をハロルドという。第二王子付きの書記官で、長年ここに仕えているらしい。
「本日から補佐官として着任されると伺っています。……率直に申し上げて、久しぶりです。新しい方が来られるのは」
それは歓迎というより、事実確認に近い声音だった。
私は軽く一礼する。
「エリシア・フォン・ルーヴェルです。至らぬ点も多いと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」
ハロルドは一瞬だけ目を見張り、次いで小さく息を吐いた。
「丁寧な方だ。……それだけで、ここでは貴重ですよ」
皮肉とも本音とも取れる言葉。
私は苦笑しつつ、案内されるまま執務室へ向かった。
扉を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは――書類の山だった。
机の上、棚の中、床際まで積まれた帳簿と報告書。
分類はされているが、更新日はまちまちで、赤字の修正も多い。長年、最低限の人手で回してきた痕跡が、そのまま形になっている。
「……これは」
「王都外縁区画の行政資料です」
淡々と説明するハロルドの声には、諦めが混じっている。
「税の滞納、人口流出、治安悪化。中央に報告は上げていますが、返答はいつも同じです。――“予算がない”“優先度が低い”」
私は、自然と帳簿に手を伸ばしていた。
紙の質、筆跡、数字の癖。公爵家で見てきたものと、決定的に違う。
「……数字が、正直ですね」
思わず口をついて出た言葉に、ハロルドが眉を上げる。
「正直、ですか?」
「はい。ごまかしが少ない。だからこそ、中央から見れば“扱いづらい”」
綺麗な数字は、成果を誇るために作られる。
けれど、ここにあるのは現実だ。都合の悪い赤字も、未回収の税も、隠されていない。
私は、胸の奥で小さく息を吸った。
――この場所は、嫌いではない。
「優先順位を整理すれば、改善の余地はあります」
気づけば、そう口にしていた。
ハロルドが、はっとしたようにこちらを見る。
「本気で……言っておられますか」
「ええ。派手な改革は無理でも、“止血”はできます。まずは、人と物の流れを把握し直しましょう」
自分の声が、少しだけ強くなっているのが分かる。
昨夜まで、私は自分の価値を疑っていた。けれど、今この帳簿を前にすると、迷いが薄れる。
――私は、これを読むために生きてきたのかもしれない。
「エリシア嬢」
背後から、穏やかな声がした。
振り向くと、レオンハルト殿下が立っている。いつの間に来たのだろう。
「おはようございます。早速ですが、どう見えますか」
試すようでもあり、信じているようでもある問いかけ。
私は一瞬だけ考え、正直に答えた。
「……厳しいですが、救いはあります。この区画は“死んで”はいません」
殿下は、驚いたように目を細め、それから小さく笑った。
「同じ意見です」
その笑みは、昨夜よりも少しだけ柔らかい。
「だから、あなたをお迎えしました。ここは、期待されていない場所です。――けれど、期待されていないからこそ、失敗を恐れずに済む」
私は、胸の内で何かが定まるのを感じた。
王妃にはなれなかった。選ばれなかった。
けれど、“必要とされる場所”は、確かにここにある。
「殿下」
私は、帳簿から顔を上げる。
「お時間をいただけるなら、三ヶ月ください。結果は、数字でお見せします」
一瞬、室内が静まり返った。
ハロルドが息を呑むのが分かる。
レオンハルト殿下は、すぐには答えなかった。
だが、その沈黙は拒絶ではない。考えるための間だった。
やがて、ゆっくりと頷く。
「三ヶ月、ですか。……いいでしょう」
そして、はっきりと言った。
「その間、あなたの判断には口出ししません。責任は、私が取ります」
その言葉に、胸が熱くなる。
責任を取る、というのは、信じるということだ。
「ありがとうございます」
私は、深く頭を下げた。
それは形式的な礼ではない。心からのものだった。
窓の外では、朝の光が静かに街を照らしている。
夜会の眩しさとは違う、現実の光。
派手ではない。
けれど、確かに世界を照らす光だ。
私は、もう一度帳簿に視線を落とした。
ここから始まる。誰も拍手しない場所で、誰も見ていないところから。
――選ばれなかった者たちの、静かな反撃が。
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