第2話 静かな左遷
王宮を出る夜風は、思ったより冷たかった。
夜会の熱に火照っていた肌から、急速に温度が奪われていく。けれど、それが不思議と心地よかった。あの大広間に漂っていた甘い香りと視線の粘つきが、ようやく背後に遠ざかったからだ。
「馬車は、こちらです」
第二王子――レオンハルト殿下が、控えめに指し示す。
王子自らが案内するという事実に、周囲の従者が一瞬だけ目を見開いたが、誰も何も言わなかった。言えなかった、のだと思う。
私はスカートの裾を整え、黙って馬車に乗り込む。
内装は質素だ。第一王子の豪奢な馬車とは比べるまでもない。それでも、座席はきちんと手入れされ、香も控えめで落ち着く。
扉が閉まり、車輪が回り出す。
その瞬間、張りつめていた糸が、ぷつりと切れた。
「……申し訳、ありません」
自分でも意外な言葉が口から零れた。
何に対する謝罪なのか、うまく説明できない。ただ、この人の前では、取り繕う力が残っていなかった。
レオンハルト殿下は、すぐには答えなかった。
窓の外を一瞬だけ見てから、こちらに視線を戻す。
「何についての謝罪ですか」
「……ご迷惑を。私のことで、殿下まで奇異の目で見られるかと」
第二王子の補佐官。
その肩書きが、今夜の王宮でどんな意味を持つか、私には痛いほど分かっている。
“使い道のなくなった女を押し付けられた、存在感の薄い王子”。
それが、周囲の描く絵だ。
殿下は、ほんの少しだけ口角を上げた。
「奇異の目で見られることには、慣れています。今さら一つ増えても、大差ありません」
冗談とも本気とも取れる口調。
けれど、その声音には自嘲がなく、ただ事実を述べている静けさがあった。
「それに――」
殿下は続ける。
「あなたは“迷惑”ではありません。今夜の件で、私が得をした側だと考える人間は、少ないでしょうが」
私は言葉を失った。
得をした、という発想がなかった。誰もが、失ったものの話しかしない夜だったから。
「補佐官としての正式な辞令は、明日出ます。王都外縁の行政区画……率直に言えば、放置されて久しい場所です」
殿下の説明は、淡々としている。
「税も治安も滞っている。中央は成果を期待していない。――つまり、失敗しても誰も困らない」
それは、左遷の定義そのものだった。
私は、膝の上で拳を握る。
「……失敗前提、なのですね」
「はい」
殿下は、否定しなかった。
「だからこそ、自由があります。注目されない場所では、派手な成果より“続く形”を作れる」
その言葉に、私は顔を上げた。
“続く形”。その表現が、胸に引っかかる。
夜会で言われた言葉を思い出す。
――派手ではない価値。
まるで、あの続きのようだ。
「あなたには、帳簿と制度を見てほしい。人の配置も。形式に縛られずに」
第二王子は、私を“元婚約者”としてではなく、“能力のある人材”として扱っている。
それが、痛いほど伝わる。
「……私で、よろしいのですか」
確認せずにはいられなかった。
ここで期待を抱いて、また切り捨てられるのが怖かった。
殿下は、迷わず頷いた。
「ええ。あなたでなければ困ります」
その断言は、夜会のどんな宣言よりも、私の心を揺らした。
馬車が王宮の外縁を抜け、静かな通りに入る。
街灯の光が、一定のリズムで車内を照らす。影と光が交互に流れ、まるで新しい時間に足を踏み入れているみたいだった。
「……正直に申し上げますと」
殿下が、少しだけ声を落とす。
「あなたが補佐に回されると聞いたとき、私は安堵しました」
安堵。
その言葉に、また胸が詰まる。
「誰も期待していない場所に、誰にも理解されなかった能力が来る。――それは、悲劇にもなり得ますが、希望にもなり得る」
私は、知らず息を止めていた。
この人は、私の過去だけでなく、これから起こり得る未来まで見ている。
「私は、王になる器ではないと言われ続けてきました」
殿下は、窓の外に視線を向けたまま言った。
「だからこそ、“王であるとは何か”を考える時間だけは、誰よりも長かった」
その横顔は、夜会で見たときよりもずっと近く、ずっと人間的だった。
派手な光の中では埋もれていた輪郭が、暗がりの中でくっきりと浮かび上がる。
「あなたとなら、その答えを探せる気がしています」
その言葉に、私は胸の奥で小さく何かが灯るのを感じた。
まだ希望と呼ぶには弱い。けれど、完全な絶望ではない。
馬車が止まる。
第二王子の居館は、王宮から少し離れた、控えめな建物だった。装飾は少ないが、整然としていて、無駄がない。
「ここが、これからあなたが働く場所です」
殿下が言う。
私は、深く息を吸った。
婚約者としての未来は、今夜、確かに終わった。
けれど――すべてが終わったわけではない。
見上げた空には、夜会の天井よりも遥かに多くの星が瞬いていた。
その静かな光の下で、私は初めて思う。
ここからなら、もう一度始めてもいいのかもしれない。
派手ではない場所で。
派手ではない価値を、信じてくれる人と一緒に。




