第16話 制度の盲点
補助人員が入ってから、区画はかろうじて息を吹き返していた。
窓口の列は短くなり、詰所の空気も張りつめすぎなくなる。
役人たちの表情に、わずかだが余裕が戻った。
――だが、それは「良くなった」のではない。
「崩れきっていない」だけだ。
私は机に向かい、非公式のメモ束を改めて広げていた。
削減前、削減後、補助人員投入後。
同じ指標を、同じ基準で並べる。
「……おかしい」
数字ではない。
制度の形、そのものに、違和感がある。
私は、紙の上に一本の線を引いた。
「責任主体」
小さく書き込む。
それが、どうしても見当たらない。
現場で問題が起きたとき、誰が判断し、誰が責任を負うのか。
中央は「基準を示しただけ」。
区画は「規定どおりに運用しただけ」。
――責任は、どこにも存在しない。
「だから、人が削られる……」
呟いた瞬間、胸の奥で何かが噛み合った。
制度は、誰かが決断しなくても動くように設計されている。
それは一見、理想的だ。
だが同時に、失敗したとき、誰も痛みを引き受けない構造でもある。
痛むのは、現場だけ。
辞めていった役人や、距離を取った商人たち。
私は、ペンを強く握った。
「……制度が、人を守らない理由は」
そこに、責任がないからだ。
昼過ぎ。
ハロルドが、控えめに声をかけてきた。
「最近、現場の判断が鈍っています」
「鈍っている?」
「ええ。誰も、決断したがらない。規定を確認し、中央に照会し……その間に、機会が過ぎる」
私は、深く息を吐いた。
責任を負わない制度は、決断を奪う。
「……なるほど」
私は、ゆっくりと立ち上がった。
「制度の問題は、人員数でも、効率でもありません」
「では……?」
「“誰が決めていいのか”が、決まっていない」
ハロルドは、目を見開いた。
「それは……中央の領分では?」
「いいえ」
私は、首を振る。
「中央は基準を示す。けれど、現場で起きることは、現場でしか判断できない」
それは、危うい考えでもある。
だからこそ、中央は嫌う。
だが、今の区画には、それが必要だ。
夕方、レオンハルト殿下に時間をいただいた。
執務室で向かい合い、私は率直に話す。
「問題は、制度そのものではありません」
「……責任、ですか」
殿下は、すぐに理解した。
「はい。誰も“決めていない”。だから、誰も守られない」
殿下は、しばらく黙り込み、やがて言った。
「それは、中央が最も嫌う形ですね」
「承知しています」
私は、頷く。
「現場に裁量を戻すことは、中央から見れば“危険”です」
殿下は、静かに息を吐いた。
「だが、今のままでは、いずれ崩れる」
「はい」
沈黙が落ちる。
選択肢は、どれも厳しい。
「……一つだけ、方法があります」
私は、言葉を選びながら続けた。
「制度を壊さずに、責任を生む方法です」
殿下が、顔を上げる。
「聞かせてください」
「公式ではない形で、“判断の場”を作る」
私は、メモ束を示した。
「規定外ですが、違反ではありません。相談、共有、合意形成。――記録は残さない」
殿下は、すぐには答えなかった。
それが、どれほど危うい橋か、分かっている。
「……グレーですね」
「はい。ですが、黒ではありません」
私は、目を逸らさずに言った。
「このまま正しさを守れば、人が消えます。――それこそ、制度の敗北です」
殿下は、しばらく私を見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「それは、あなた一人が背負うものではありません」
私は、息を呑む。
「私も、その“場”に関わります」
殿下の声は、低く、はっきりとしていた。
「王族としてではなく、一人の判断者として」
胸の奥で、何かが動いた。
恐怖と、覚悟が、同時に芽生える。
「……ありがとうございます」
私は、深く頭を下げた。
夜。
非公式のメモ束の一枚に、新しい項目を書き足す。
「判断の場(非公式)」
それは、制度の盲点に生まれる、小さな光だ。
正しくないかもしれない。
だが、人を守るための、唯一の道。
私は、その文字を見つめながら思う。
――ここから先は、戻れない。
正しさだけでは、進めない場所に、
私は、確かに足を踏み入れようとしていた。
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