第15話 越えてはならない線
翌朝、区画の執務室はいつもより静まり返っていた。
人が減ったからではない。
残った者たちが、余計な言葉を発さなくなったからだ。
必要な報告だけが上がり、雑談は消えた。
それは、規律が保たれている証でもあり――余裕が失われた証でもあった。
私は机に向かい、削減後の業務配分表を見つめていた。
線で引かれた境界は、どれも正しい。合理的で、説明もつく。
それでも、その線の向こう側には、切り捨てられた現実がある。
「……これ以上は」
独り言が、口から零れた。
そのとき、扉が静かに開く。
「失礼します」
入ってきたのは、レオンハルト殿下だった。
いつもより表情が硬い。
「王宮から戻ったところです」
その言葉だけで、察しがついた。
「……追加人員の件、でしょうか」
殿下は、ゆっくりと頷く。
「ええ。結論から言えば――大規模な投入は認められませんでした」
私は、目を伏せた。
分かっていた答えだ。それでも、胸が痛む。
「ただし」
殿下は、言葉を切る。
「王族権限として、最低限の調整は可能です」
顔を上げると、殿下は私を見ていた。
その視線は、迷いを含んでいる。
「臨時の補助人員を、数名だけ。正式な増員ではありません」
数名。
現場を立て直すには、到底足りない。
「それでも……」
殿下は、続けた。
「これ以上は、越えてはならない線になります」
その言葉が、重く響く。
王族として、これ以上踏み出せば、“制度を歪めた”と記録される。
第二王子という立場が、危うくなる。
私は、しばらく黙っていた。
頭では理解している。けれど、心は納得していない。
「……お願いします」
それでも、そう言った。
「数名でも、現場は救われます」
殿下は、目を閉じ、短く息を吐いた。
「分かりました」
決断は、早かった。
「私の名で、配置します。ただし――」
「はい」
「これ以上は、ありません」
その宣言は、約束であり、限界だった。
数日後。
補助人員が区画に到着した。
人数は少ない。
だが、窓口に立つ顔が増え、詰所の空気がわずかに和らぐ。
「……助かりました」
役人の一人が、小さく言った。
その言葉に、胸が締めつけられる。
本来なら、感謝されるべきではない。必要なことだっただけだ。
夜。
殿下と二人、執務室に残っていた。
「これで、当面は持つでしょう」
殿下の言葉に、私は頷く。
「ですが……」
私は、言葉を探す。
「次に同じことが起きたら、この方法は使えません」
「ええ」
殿下は、迷いなく答えた。
「王族権限は、切り札です。一度切れば、次はありません」
沈黙が落ちる。
分かっている。だからこそ、怖い。
「……越えてはならない線、ですね」
私が呟くと、殿下は静かに言った。
「越えてはならない線があるからこそ、越える覚悟も生まれる」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「いずれ、その線を越える日が来る」
殿下は、窓の外を見つめる。
「その時は、“制度を守るために制度を壊す”選択になるでしょう」
私は、ゆっくりと頷いた。
それが、どれほど重い選択か、分かっている。
補助人員の投入で、区画は一息ついた。
だが、それは延命措置にすぎない。
正しさだけでは、守れない。
権限だけでも、足りない。
私は、机の上の非公式メモ束を見つめた。
そこには、制度の裏側で起きている“真実”が積み上がっている。
――次は、選び直す番だ。
越えてはならない線を知った上で。
それでも踏み出す覚悟を、私は静かに固め始めていた。
派手ではない戦いは、ここからさらに深くなる。
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