第14話 離れていくもの
それは、突然の出来事ではなかった。
むしろ、静かに、予測どおりに起きた。
だからこそ、止められなかった。
「……辞表です」
執務室に入ってきた若い役人は、そう言って紙を差し出した。
声は落ち着いているが、指先がわずかに震えている。
「理由を、聞いても?」
私は、できるだけ平静を保って尋ねた。
「制度が悪いとは思っていません」
彼は、はっきりと言った。
「けれど……このままでは、現場に責任を押しつけるだけです。判断は中央、結果の矢面に立つのは、ここに残る人間だ」
それは、誰もが薄々感じていたことだった。
「自分は、優秀ではありません。けれど、住民の顔は覚えています」
彼は、少しだけ目を伏せる。
「それを、役に立たないと言われる前に……離れます」
私は、引き留める言葉を見つけられなかった。
正しい制度を守るために、人を失う。
それが“想定内”だと言われたことを、思い出す。
「……今まで、ありがとうございました」
それだけを言うのが、精一杯だった。
彼が去ったあと、机の上には辞表だけが残った。
紙一枚。だが、その重さは、帳簿のどんな数字よりも重い。
同じ日の午後。
商人ギルドから、代表が訪れた。
「協力体制について、見直したい」
率直な言葉だった。
「我々も、限界です。窓口は遅れ、相談は先送り。あなた方を信じて動いてきましたが……」
彼は、言葉を切る。
「この先も、信じ続けられるかは、分かりません」
私は、何も言えなかった。
約束できることが、何一つなかったからだ。
夜。
帳簿を開いても、数字は変わらない。
税収も、治安指数も、“問題なし”のまま。
――だから、余計に苦しい。
「……エリシア嬢」
ハロルドが、静かに声をかけてきた。
「辞めた彼の代わりは、すぐには入りません」
「分かっています」
分かっている。
分かっているから、苦しい。
「現場は、回りますか」
「……回るでしょう。回さねばなりません」
その言葉が、答えだった。
回る、というのは、無理をするということだ。
その晩。
私は、一人で区画を歩いた。
以前より、灯りの数が少ない。
閉まった店が、目につく。
商人の一人が、私に気づいて、軽く頭を下げた。
その目には、以前のような期待はなかった。
――信頼を、失った。
それを、はっきりと自覚する。
怒りではない。失望でもない。
ただ、距離ができた。
それが、一番きつい。
居館に戻ると、レオンハルト殿下が待っていた。
「……辞表が出たそうですね」
「はい」
短く答える。
「止めなかったのですか」
「止められませんでした」
殿下は、しばらく黙ってから言った。
「あなたのせいではありません」
私は、首を振った。
「私が作った制度です。私が選んだ道です」
声が、少しだけ震える。
「守るために選んだはずなのに……失っています」
殿下は、私の言葉を遮らなかった。
それが、どれほど救いになるかを、私は知っている。
「……これ以上、失えば」
言葉の先が、続かなかった。
殿下は、静かに言った。
「いずれ、選択の時が来ます」
「はい」
「その時は、あなた一人に背負わせません」
その言葉に、胸の奥が、少しだけ温かくなる。
けれど同時に、分かっていた。
このままでは、守れない。
耐えるだけでは、失うものが増える。
その夜。
私は、非公式のメモ束を机に広げた。
辞めた役人の名前。
離れ始めた商人たち。
遅れて現れる歪み。
それらを一つずつ見つめながら、私は思う。
――次は、守るために“正しくない”選択をする。
まだ形は見えない。
けれど、選ばなければならない時が、確実に近づいている。
離れていくものを、ただ見送るために、私はここにいるわけではないのだから。




