第13話 想定内という言葉
イザーク・ヴェルナーが再び居館を訪れたのは、削減実施から一週間後だった。
前回と同じ、穏やかな態度。
前回と同じ、丁寧な物腰。
そして――前回よりも、状況を“把握している”目。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
応接室に通されたイザークは、ゆっくりと腰を下ろし、懐から報告書を取り出した。
「削減後の推移を確認しました。……概ね、想定内です」
その一言が、空気を冷やした。
私は、思わず背筋を正した。
殿下は、表情を変えずに頷く。
「問題はありませんか」
「数字上は、ありません」
イザークは、きっぱりと言い切る。
「税収は維持。治安指数も基準内。窓口対応時間の遅延はありますが、許容範囲です」
淡々と読み上げられる言葉。
その一つ一つが、正しい。
「現場からの不満は?」
私が問いかけると、イザークは一瞬だけこちらを見た。
「感情的な反発は、どの改革にも付き物です」
それで終わりだと言わんばかりの口調。
「制度は、感情に引きずられるべきではありません。――あなたも、そう設計したはずだ」
胸の奥で、何かがきしむ。
否定できない。確かに私は、そう考えていた。
「ですが」
私は、声を抑えて続けた。
「感情が限界に達したとき、制度は“守られなくなる”」
イザークは、眼鏡の奥で目を細める。
「それは仮定です」
「現場では、すでに兆候が出ています」
「兆候、ですか」
イザークは、書類を一枚めくった。
「離職率は、基準内です。協力拒否も、記録上はありません」
私は、言葉を詰まらせた。
“記録上”。その四文字が、重い。
「あなたは、数字に出ないものを見ている」
イザークが、静かに言う。
「それ自体は否定しません。しかし、監査は“見えないもの”を根拠に判断できない」
正論だった。
あまりにも正しく、あまりにも冷たい。
「従って」
イザークは、結論を告げる。
「現行措置は継続します。追加の人員投入は、認められません」
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「……このままでは」
言いかけた私を、殿下の低い声が制した。
「分かりました」
その一言に、私ははっとする。
殿下は、イザークをまっすぐ見据えていた。
「中央の判断として、受け入れます」
イザークは、満足そうに頷いた。
「ご理解いただけて何よりです。第二王子殿下」
立ち上がり、礼をする。
それは、勝者の余裕に見えた。
イザークが去ったあと。
応接室には、張り詰めた沈黙が残った。
「……なぜ、止めてくださらなかったのですか」
思わず、声が漏れた。
感情を抑えきれなかった。
殿下は、しばらく私を見つめてから、静かに答える。
「今、正面から否定すれば、あなたの“見ているもの”自体が否定される」
その言葉に、唇を噛む。
「“感情的な反発”として処理されるでしょう」
私は、目を伏せた。
イザークの言葉が、頭の中で反響する。
――想定内。
その夜。
区画の一角で、小さな揉め事が起きた。
税の相談が後回しにされた商人と、役人との口論。
暴力には至らなかったが、周囲の空気は荒れていた。
「……もう、話しても無駄だな」
誰かのその一言が、胸に突き刺さる。
私は、物陰からその光景を見ていた。
介入できない。介入してはいけない。
帳簿には、載らない。
報告書にも、書かれない。
それでも、確かに存在する“変化”。
執務室に戻り、私は机に向かった。
非公式のメモ束を取り出し、今日の出来事を書き足す。
「感情的な反発――」
ペンを止め、文字を見つめる。
それは、ただの感情ではない。
制度に居場所を失い始めた人間の、最後の声だ。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
このまま耐えれば、数字は守られる。
だが、その先に残るのは――制度だけだ。
人のいない、空洞の仕組み。
イザークは、それを“正しい”と言った。
そして、それは確かに、想定内なのだろう。
だが私は、初めてはっきりと思った。
――この正しさとは、戦わなければならない。
まだ方法は見えない。
だが、選び直す時が近づいている。
その確信だけが、胸の奥で、静かに燃えていた。




