第12話 遅れて嘘をつく数字
削減の通達が出てから、三日が過ぎた。
数字の上では、何も起きていない。
帳簿は静かで、報告書の行間も整っている。税収は横ばい、治安指数も基準内。中央が好む「問題なし」という文字が、いくつも並ぶ。
けれど――現場は、確実に軋み始めていた。
「次の相談は、三日後になります」
窓口の役人が、申し訳なさそうに頭を下げる。
以前なら、その場で対応できていた案件だ。だが、削減で人手が足りない。列は伸び、苛立ちが空気に混じる。
「三日……」
相談に来ていた商人は、唇を噛んだ。
「それまで、倉庫は止めておけと?」
答えは、ない。
役人は、ただ目を伏せるしかできなかった。
私は、その様子を少し離れた場所から見ていた。
声をかけたい衝動を、必死に抑える。今ここで介入すれば、制度外の動きになる。監察の目が、確実に光る。
――分かっている。
正しい運用だ。中央の基準では。
それでも、胸の奥が重く沈む。
執務室に戻り、私は帳簿を開いた。
削減後の人員配置表、対応件数、処理時間。数字は、想定の範囲内に収まっている。
「……まだ、出ない」
思わず呟いた声が、静かな室内に落ちる。
数字は、嘘をつかない。
けれど、すぐに真実を語るわけでもない。
人が疲弊し、信頼が削られ、諦めが広がるまで――
その間の“遅れ”を、数字は沈黙で隠す。
「エリシア嬢」
ハロルドが、控えめに声をかけてきた。
「治安詰所から報告です。軽微な揉め事が増えています。件数としては、まだ“問題なし”ですが……」
「現場の感触は?」
私の問いに、彼は少し言い淀ってから答えた。
「……皆、余裕がありません」
それが、すべてだった。
午後、商人代表の一人が訪ねてきた。
以前は、施策に協力的だった男だ。
「お忙しいところ、失礼します」
彼は丁寧に礼をしたが、目元に疲れが滲んでいる。
「制度は、守ります。約束ですから」
前置きの言葉に、胸が痛む。
「ただ……現場が、回らなくなっています」
私は、言葉を選びながら答えた。
「承知しています。今は、過渡期です。もう少し――」
「“もう少し”が、どれくらいか分からないのが、一番きついんです」
彼の声は、責める調子ではなかった。
ただ、現実を置いていく声音だった。
「以前は、あなたが直接話を聞いてくれた。だから、我慢できた」
その一言が、胸に刺さる。
「今は……誰に言えばいいのか、分からない」
私は、何も返せなかった。
制度を守るために、人から距離を取った。その結果が、これだ。
商人が去ったあと、私は机に手をついた。
視界の端で、帳簿の数字が整然と並んでいる。
――正しい。
けれど、足りない。
夕方、レオンハルト殿下が執務室を訪れた。
私の表情を見て、すぐに察したのだろう。
「現場、ですね」
私は、静かに頷いた。
「数字は、まだ持ちこたえています」
「“まだ”」
殿下が、その言葉を繰り返す。
「はい」
私は、帳簿を閉じた。
「数字は、遅れて嘘をつきます。今は静かでも、限界を越えた瞬間、一気に崩れる」
殿下は、深く息を吐いた。
「イザークの言うとおりにすれば、数字は守れる。しかし――」
「人が、離れます」
私が、言葉を継ぐ。
「信頼がなくなれば、制度は“動かされるもの”になります。支えられるものではなく」
沈黙が落ちる。
答えは、分かっている。けれど、選択肢はどれも痛い。
「……今は、耐えるしかありません」
殿下の声は、苦かった。
「ここで正面から抗えば、全面的に切られる」
私は、ゆっくりと頷いた。
理解している。だからこそ、苦しい。
夜。
灯りの落ちた執務室で、私は一人、報告書を書いていた。
形式的な文言。問題なし。想定内。
ペンを置いた瞬間、手が止まる。
――本当に、それでいいのか。
帳簿の隅に、小さな走り書きをした。
数字には出ない、現場の変化。声の温度。沈黙の増え方。
正式な報告には載せられない。
けれど、消してはいけない記録だ。
私は、その紙を別の束に挟み込んだ。
非公式のメモ。今は、ただの紙切れ。
それでも。
いつか、数字が嘘をついたとき。
この“遅れ”が、真実として必要になる。
私は、窓の外の街を見下ろした。
今日も、派手な変化はない。
けれど、静かな歪みが、確かに積み重なっている。
――次に選ぶときは、もっと厳しい。
その予感だけが、夜の底で、はっきりと形を持ち始めていた。
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