第11話 正しさの刃
その男は、音もなく現れた。
中央監察官イザーク・ヴェルナー。
王宮直属の監察権限を持ち、財務・行政の双方に踏み込める存在。名前だけは聞いたことがあったが、第二王子の居館を訪れるのは初めてだ。
「突然の訪問をお許しください」
応接室に入ってきた彼は、丁寧に一礼した。
背筋はまっすぐで、服装は簡素。声の調子も穏やかだ。威圧する気配はなく、敵意も感じさせない。
――だからこそ、厄介だ。
「中央より、外縁区画の制度運用について確認を命じられました」
淡々とした口調で、イザークは告げる。
「視察官ドレイク卿の報告を受け、正式な監査に移行します」
私は、心の中で一つ息を吐いた。
来るとは思っていた。だが、“正式な監査”という言葉は、重い。
「ご足労ありがとうございます」
レオンハルト殿下が、穏やかに応じる。
「必要な資料は、すでに整理しております」
「ええ。事前に目を通しました」
イザークは、懐から薄い書類束を取り出した。
「実に理知的で、無駄のない制度です。……感心しました」
その言葉に、私は一瞬だけ身構えた。
褒め言葉ほど、信用できないものはない。
「ですが」
イザークは、続ける。
「人員配置が、非効率です」
はっきりと、断じられた。
「最低限の成果を出すために、過剰な労力を割いている。特に、現地役人と商人への“対話”に時間を使いすぎている」
私は、拳を膝の上で握った。
「対話は、制度を機能させるために必要です」
「理想論です」
イザークは、即座に返す。
「制度は、人に左右されるべきではない。誰が運用しても、同じ結果が出る形でなければならない」
それは、正論だった。
否定しようのない、正しさ。
「従って」
イザークは、書類を一枚、机に置く。
「区画内の臨時人員を三割削減します。業務は、規定どおり中央管理へ」
室内の空気が、凍りついた。
「……それでは、現場が回りません」
私が言うと、イザークは静かに眼鏡を押し上げる。
「回らなくなる前提で組むのが、制度です」
言葉に、感情はない。
ただ、計算だけがある。
「数字上は問題ありません。削減後も、税収と治安は維持可能です」
――数字上は。
胸の奥が、軋む。
確かに、帳簿だけを見れば成立する。だが、その“余白”を埋めているのは、人だ。
「異論は?」
イザークが、殿下を見る。
レオンハルト殿下は、しばらく沈黙した。
王族として、ここで拒否することはできる。だが、それは“感情で制度を歪めた”と記録される。
「……中央の判断として、受け入れます」
その言葉に、胸が締め付けられた。
殿下は、私を見ない。見られないのだ。
「ありがとうございます」
イザークは、深く礼をした。
「これは、誰かを罰するための措置ではありません。――正しく運用するための調整です」
正しい。
その言葉が、刃のように響く。
会合が終わり、イザークが去ったあと。
応接室には、重い沈黙が残った。
「……申し訳ありません」
私が、先に口を開いた。
「私の制度が、隙を作りました」
殿下は、首を振る。
「違います。あなたの制度は、正しかった」
静かな声だった。
「ただ、正しさには、切れる場所がある」
その言葉に、私は唇を噛んだ。
正しさが、人を切る。
それを、私は初めて“現実”として突きつけられている。
数日後。
削減の通達が、区画に出された。
役人の一人が、辞令を手に立ち尽くしていた。
商人の代表が、困惑した顔で私を見る。
「……続けられると思っていたんですがね」
その言葉が、胸に刺さる。
私は、何も言えなかった。
守ったはずの仕組みが、人を守れていない。
帳簿を開く。
数字は、確かに崩れていない。
けれど――。
私は、初めて思った。
これが、“負け”なのだと。
派手ではない敗北。
誰も断罪されず、誰も拍手されない。
ただ、正しさだけが残り、
守りたかったものが、静かに削られていく。
その夜。
私は、灯りの落ちた執務室で、一人ペンを握りしめていた。
――次は、選び直さなければならない。
正しいだけでは、足りないと知ってしまったから。




