第1話 王宮夜会の断罪
※本作は、派手な断罪や即効性のあるざまぁを主軸とした物語ではありません。
※代わりに、制度・数字・選択の積み重ねによる「静かな逆転」を描いています。
※恋愛要素はありますが、溺愛一辺倒ではなく、
※互いに立場と責任を背負った関係性を重視しています。
※じっくり進む物語がお好きな方に、楽しんでいただければ幸いです。
王宮の大広間は、宝石箱の底のように眩しかった。
天井から垂れた無数の燭台が揺らめき、金箔の装飾に光が跳ね返る。弦楽の旋律は甘く、香の匂いは花園のように濃い。笑い声とグラスの触れ合う音が、夜会という名の祝祭を完成させていた。
私は――エリシア・フォン・ルーヴェルは、その中心に立っていた。
正確には「立たされていた」と言うべきかもしれない。未来の王妃として、第一王子殿下の隣に。
「本日はお集まりいただき感謝する。今宵は、我が国の新たな門出を祝う夜でもある」
国王陛下の言葉に、拍手が広がった。熱が渦のように膨らみ、私の頬にも赤みが差す。
視線が集まるのは慣れているはずだった。婚約発表から今日まで、私は幾度もこの場に立ってきたのだから。
けれど今夜は、妙に胸がざわついていた。
アーヴィン殿下――第一王子は、いつもより口数が少ない。
いつもなら、周囲の賛辞を軽く受け流しながら、私の耳元に短い冗談を落とす。私が硬くならないように、そうしてくれていた。……少なくとも、私はそう信じていた。
殿下の横顔は完璧だった。整った鼻梁、王家の青い瞳、隙のない微笑。
その完璧さが、今夜はひどく遠い。
「アーヴィン殿下、何か……」
小声で問いかけた私に、殿下は一度だけ視線を向け、すぐに逸らした。
答えはない。代わりに、殿下が一歩前へ出る。
弦楽が、ふっと途切れた。
指揮者が止めたわけではない。空気が、止まったのだ。ざわめきが喉の奥に引っかかり、誰もが「次」を待つ沈黙になる。
「皆に、報告がある」
殿下の声はよく通った。いつもどおり、王子としての訓練された響きだ。
だから私は、なおさら何が起きているのか理解できなかった。
「本日をもって、エリシア・フォン・ルーヴェルとの婚約を破棄する」
音が消えた世界で、その言葉だけが落ちた。
落ちて、床に砕け、粉になって舞い上がり、私の喉に刺さった。
――婚約、破棄?
意味を受け止める前に、周囲のざわめきが爆ぜた。
扇子が止まる。グラスが揺れる。貴婦人たちの目が光る。男たちは口元を隠し、政治の匂いを嗅ぎ取る。
私は、息の仕方を忘れた。
国王陛下は驚かない。
王妃陛下は表情を変えない。
つまり――これは、決まっていたことだ。
心臓が、冷たい手で握りつぶされる。
「殿下……それは、どういう――」
「理由が必要か?」
アーヴィン殿下が、冷たい声で言う。
私の言葉を遮ったことは、今まで一度もなかった。
「王妃としての器がない。国家を支えるだけの力が足りない。――それだけだ」
それだけ。
たったそれだけの言葉で、私は今まで積み上げてきたものを断ち切られた。
私は努力してきた。礼儀作法、王家の歴史、外交儀礼。税の帳簿まで読んだ。夜会の合間にも、執務室で文字を追った。
殿下の隣に立つなら、恥をかかせたくなかった。
なのに。
「そして、今後の王太子妃として相応しいのは――聖女セレナだ」
殿下が手を伸ばす先に、白い衣の少女がいた。
澄んだ瞳。祈りの仕草。今夜の光は彼女のためにあると言わんばかりの神々しさ。
聖女セレナは、驚いたように目を見開き、小さく首を振った。恐らく、彼女もこの舞台に上げられた一人なのだろう。
同情が湧きかけた。
けれど、その余裕はすぐに奪われた。
私を見つめる視線が、痛い。
同情ではない。好奇。娯楽。値踏み。今この瞬間から、私は「落ちた女」なのだと告げる刃。
「……エリシア、何か言うことは?」
殿下の声が、私の頭上から降る。
私は唇を開きかけて、閉じた。
ここで叫べば、誰が困る?
ルーヴェル公爵家だ。父だ。領地の民だ。
第一王子の顔に泥を塗れば、王家は私の家を容赦しない。――私は、ただの一人ではない。
だから。
「承知いたしました」
自分の声が、ひどく他人のもののように聞こえた。
その瞬間、何かが終わったのだと思った。
私は立っているのに、足元の床が消えていく感覚がある。
「よろしい」
殿下は私を見ない。
私の存在は、すでに過去になった。
国王陛下が、重く口を開く。
「婚約破棄を認める。……エリシア・フォン・ルーヴェルには、相応の処遇を与える」
処遇。
罪人に与える言葉だ。
「第二王子レオンハルトの補佐官として、王都外縁の監督任務に就け。これは温情である。感謝するがよい」
温情。
それは多分、世間に向けた言い訳でもある。公爵家への面目、王家の慈悲を演出するための。
第二王子。
名前だけは知っている。病弱で、社交に顔を出すことも少ない。王位継承からも遠い存在。
つまり――政治の中心から外された場所へ、私は送られる。
ざわめきが、また広がる。
「左遷」「厄介払い」「あの公爵令嬢も終わりだ」
口に出さずとも、視線がそう囁いた。
私は、そのすべてを飲み込み、背筋を伸ばす。
泣くな。取り乱すな。王宮で恥を晒すな。父の顔を守れ。ルーヴェル家を守れ。
そう言い聞かせるほど、胸の内側がひび割れていく。
夜会は、何事もなかったように再開された。
音楽が戻る。笑い声が戻る。誰かが私の肩を避けるように通り過ぎ、私の周囲だけが不自然に空白になる。
まるで、透明な檻。
父は私に近づきかけて、周囲の視線を感じたのか、止まった。
怒りも悲しみも見せられない立場。公爵であるという鎧は、時に残酷だ。
私は笑おうとした。
口角が上がらない。頬が引きつる。
そのとき。
空白の向こうから、一人の青年が歩いてきた。
派手さはない。煌びやかな笑みもない。けれど、足取りは迷わない。
夜会の中心から外れた場所を歩く人間が、こんなにも静かに空気を変えるのだと、私は初めて知った。
第二王子レオンハルト・アルヴェイン。
噂どおり、顔色は少し白い。けれど目は澄んでいて、視線はまっすぐだった。
彼は私の前で立ち止まり、他の誰とも違う調子で言った。
「……エリシア嬢」
名を呼ばれただけで、胸の奥が痛む。
私は礼を取ろうとして、動けなかった。脚が、夜会の床に縫い付けられたみたいだ。
第二王子は、ほんのわずかに眉を寄せた。
その表情が、私の心をさらに揺らした。哀れみではない。驚きでもない。
“痛みを理解しようとする顔”だった。
「突然のことで、言葉もないでしょう。……今夜のことは、あなたの責任ではありません」
私は、息を吸って、吐いた。
やっと呼吸が戻ったのに、次の瞬間、喉が震えた。
「殿下……」
「レオンハルトで構いません。補佐官として働いていただく以上、形式だけの距離は、あなたをさらに苦しめる」
その言葉は、私の胸に張り付いていた氷を、少しだけ溶かした。
苦しい、という感情を、誰かが言語化した。私の代わりに。
私は、どうしても聞いてしまう。
「……私は、役に立たなかったのでしょうか」
声がかすれる。情けない。
涙が出そうになるのを、必死で堪えた。
第二王子は、夜会の喧騒を背にしながら、私を見た。
そして、静かに首を振った。
「いいえ」
たった二文字。
その否定が、世界を少しだけ修復した。
「あなたは、派手ではない価値を持っているだけです。……そして、この国でそれを分かっている人間は、残念ながら少ない」
私は、目を見開く。
この人は、私の“価値”という言葉を、軽々しく使わない。
第二王子は、ほんの少しだけ――笑ったように見えた。
「だからこそ、私はあなたが必要です。……もしよければ、今夜はここを出ましょう。見世物の場に、あなたを置いておきたくない」
その瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
我慢していたものが、堤防を越えそうになる。
私は頷くことしかできず、唇を噛んだ。
涙が落ちる前に、礼を取らなければ。私の家のために。私自身の誇りのために。
しかし第二王子は、私が礼を取るより先に、低い声で言った。
「……お疲れさまでした、エリシア嬢」
その言葉は、誰もくれなかった。
婚約者だった人も、王も、貴族たちも。
たった一人、今目の前の人だけが――私の努力を、今夜の痛みを、ひとまず“労って”くれた。
私は、やっと笑えた気がした。
泣きそうな笑いだ。
「……はい」
答えた瞬間、遠くの中心で、アーヴィン殿下がこちらを見た気がした。
その視線が何を意味するのかは分からない。怒りか、後悔か、あるいは無関心か。
けれど私は、初めて思った。
――私は、もう彼の隣に戻らなくていいのかもしれない。
第二王子が差し出した手は、派手ではない。
けれど、私が今掴むべき“次の道”の輪郭を、確かに示していた。
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