Act7-2_中央市場で一悶着
/朝霞日夏
8月20日 09:30 ミスティア王国王都アルムクヴィスト屋敷
眼の前に存在しているのは、写真やテレビの中でしか見たことの無いような豪邸。高さ2mほどの鉄柵の奥、玄関までの庭だけでサッカーができそうな2階建ての屋敷が鎮座している。
「とうちゃーく。ここが王都のアルムクヴィスト公爵家のお屋敷だよ」
ゼファーがそう言いながら、馬から《《飛翔》》する。
突然のことに驚く間もなく、俺の身体も空へと浮かび上がった。
「うわ!?」
上空3mで静止した身体が、幼子を抱えるような優しさで地面へと降ろされる。次いでゼファーも降り立った。
「びっくりした。いまのはなんだ?」
「あはは。ごめんごめん。いまのが私の《《力》》だよ。私の種族は半戦乙女なんだ。私たちに与えられた権能は、"戦乙女の翼"と呼ばれていてね。まあざっくりと話せば、自身や他の物体をある程度浮遊させることのできる能力かな」
ゼファーは、屈託のない笑顔を浮かべながら説明をしてくれる。
ゼファーの見た目は普通の人間と変わらないため、勝手に人間だと思い込んでいた。
そうで無かったことも驚きだが、それ以上にワルキューレだと言うことに驚く。
ワルキューレ。英語ではヴァルキリー。
北北欧神話では、戦死者をヴァルハラへ導く存在だったはずだ。
兵士にとっては、死神でもあり救世主でもある。
まあこの世界で北欧神話とそのまま同じ存在という訳ではないだろう。だが少なくとも、俺の様なただの人間と違って異能を持っていることに間違いはない。
「色々と驚くことばかりで少し混乱しているよ。ゼファーの事は人間だと思っていた」
「ハハハ。まあ只人でも間違いはないかな。神代の頃、戦乙女が、戦場で出会った只人に一目惚れをして求婚したんだって。只人はそれを受け入れて、二人はたくさんの子宝に恵まれた。そんな存在の子孫が私たちってわけ。だから、お母さんは半戦乙女だけど、お父さんは只人だよ。それに、私はただの農民の娘だしね」
「そうだとしても、こちらからすれば驚きだよ。俺の世界には、人間以外、言語を持つ霊長は存在しないからな」
「私からすると、そっちの世界のほうが想像つかないんだよなー」
そんな話をしていると、オイフェミアの屋敷の玄関が開き、一人の執事が現れたのを視界の端で捉えた。
歳は20代前半程度。丹精な顔立ちの、長めの灰髪の男性だ。何よりも目を引くのは、その男性の耳。俺の様な人間の耳とは異なり、尖った笹耳をしている。
あれはもしや、エルフだろうか。
「おっと。出迎えが来たね」
ゼファーが門を開き、馬の手綱を引いて敷地内へと入っていく。俺もそれに続いた。
こちらが玄関前までやって来れば、執事服のエルフ(仮)が口を開く。
「無事のご帰還、大変喜ばしく思います。おかえりなさい、ゼファー騎士補」
「長い付き合いなのに、相変わらず固いなぁ。そちらも変わりなかった?エインヒル」
執事服のエルフ(暫定)の男性、改めエインヒルは、深々と一礼をした。
高級レストランのウエイターの様な、格式を感じる所作だ。俺の育ちからは、その例えが限界である。
遠目からも感じていたことだが、かなりの美男子である。柔和な印象を与える、爽やかな美形だ。やはりエルフというのは美男美女揃いなのだろうか。
というか、この世界に来て関わりを持つ人物たちが皆美形だ。
別にこの世界に特別美形が多いという訳ではないだろう。先程の市街の人々や、ベネディクテ達の前哨拠点にいた兵士たちの容姿は千差万別でった。
ただたまたま、縁を持つ人物たちが美形だらけなのだろう。
別にルッキズムの信奉者である訳ではないが、この状況は正直にいって幸せである。男女関係なく、美しいものは心を癒やしてくれる。
「そちらが、アサカ様でございますね?オイフェミア様から、お話は伺っております。私の名前はエインヒル。森を飛び出した森人でございます。このアルムクヴィスト公爵様のお屋敷の管理を預からせて頂いております。もし何かお困りごとがございますれば、お申し付けくださいませ」
「私は朝霞日夏です。どうぞよろしく、エインヒルさん」
努めて柔和な笑顔を作りながら、手を差し出す。
冷静に考えれば、この世界に飛ばされてから初めてまともに会話をする同性なのだ。なるべくなら仲良くしておきたい。
別に女性と話すのが苦痛という訳でもないが、馬鹿話ができる同性の友人は欲しいものだ。
エインヒルは少し驚いた様子であったが、握手に応じてくれた。
「あら、森人が初見の相手と握手するなんて珍しいじゃん」
ゼファーの発言にぎょっとする。もしや、エルフの文化や礼儀作法的にまずいことだったのか?
「いえ。オイフェミア様のお客様であれば、私たち使用人にとっても同様でございます」
エインヒルはそう言ってくれたが、それは彼の言う通りオイフェミアの客というフィルターがかかっているだけに過ぎないだろう。
「後顧の為にご教授願いたいのですが、エルフの方に握手を求めるのは不味いのでしょうか?」
「いえ、決して不味いという事は」
「まあ、森人の里だったら無礼者と思われるかもね~」
ゼファーが笑いながら言った。
「これはとんだ無礼を。お許しください」
「いえいえ、どうか頭をお上げください。只人の文化が優先されるのは当然です」
二人して頭を下げ合う様子が可笑しかったのか、ゼファーはカラカラと笑っていた。
「二人ともまじめだな~。あ、そうだ。多分ないと思うけど、一応教えておくよ、アサカさん。私たちが戦った相手、フェリザリア王国は森人と只人の同君国家だから、向こうに行く機会があったら気をつけたほうが良いよ」
「その話が先に聞けたことに、心底安堵しているよ。もし機会があったら忠告を活かさせてもらうわ」
ただでさえ、俺は交戦時にフェリザリアの将兵を殺している。それに対して後悔も、殺人に対する罪悪感も今更ないが、戦場でない場であれば、相手から一線を越えてこない限り礼は尽くすべきだろう。礼を失せれば、余計な諍いを起こしかねない。
それで面倒事になるのは、地球の至る所で見てきた。民族対立がいい例だ。
はじめは小さないざこざであったとしても、いずれ民族同士の憎悪のぶつけ合いに発展しかねない。
敵となる者を殺すことになんの躊躇いも迷いも無いが、自分が原因となって国家間戦争など笑えない。
まあゼファーの言った通り、現状フェリザリアに向かう予定も用事も無いが、心構えは大切だろう。
「ところで、エインヒルはどこまで聞いているの?」
「アサカ様についてでございますか?仔細については伺っておりませんが、少々特異な事情のお客様だとは伺っております。合わせて、"大切なお客様"だと」
オイフェミアには色々と手を回してもらって頭が上がらない。それはベネディクテにも言えることだが。
仕事以外でも何か返したいが、アラサーの男が10代の少女に——考えるだけ無駄か。後でゼファーに相談しよう。
「とりあえずアサカさん。その大きい銃……ライフルだっけ?それは置いていくでしょ?」
「ああ、目立つだろうしな」
「ほかはどうする?謁見の場には武器の持ち込みは厳禁だけど、街中で丸腰だと不安でしょ。まあ何かあれば私が護るけどさ。って、アサカよりも全然弱い私がいっても格好つかないか」
少し照れたように笑うゼファーの顔は、大変可愛らしい。
だが彼女は重大な勘違いをしている。
銃がなければ、俺はただの一般人である。格闘術の心得はあるとはいえそれだけだ。
魔術や異能を扱えるゼファーの方が、俺よりも圧倒的に強いに決まっているのだ。
エインヒルもゼファーの発言受けて、驚きと感心を持った表情でこちらを見ている。ややこしくなる前に訂正しておこう。
「勘違いを訂正させてもらえば、俺は別に強くもなんとも無い。身体能力は只の人間だ。銃がなければほとんど無力だよ」
「謙遜しちゃって~。私はアサカさんに命を救われたんだ。もっと胸を張ってよ。それに、オイフェミア様から聞いたよ?ベネディクテ殿下から、格闘術で一本取ったんでしょ?それだけでもとんでもない強さじゃないか!」
「あれは運が良かっただけで……本当に謙遜でもなんでも無いんだよなぁ……」
ベネディクテの格闘戦の強さは相当に有名らしい。
まあそれはそうか。徒手空拳で、熊を殺せるらしい女が弱いわけがない。
だがベネディクテとの組手も、まともに打ち合っていれば骨がへし折られていただろう。
あれは向こうが手加減してくれていたのと、運よくいなせただけなのだ。
「まあじゃあ、今はそういうことにしておくよ。それはそれとして、今度私とも組手してくれない?私、格闘術がめっきり苦手でさー。色々教えて欲しいんだよね」
技術を伝える事は嫌いではないし、自身の成長にも繋がる。それにゼファーには色々と世話になっている。その程度ならお安い御用だ。ご期待に添えるかはわからないが。
「構わないよ。ただあまり期待はしないでくれ」
「やったね~!」
飛び跳ねて喜ぶゼファーの姿に、自然と表情が緩む。接していて気が楽だ。心地が良い。
もしベネディクテとオイフェミアが、世話役としてゼファーを選んだのなら——見事な采配だ。彼女には人を絆す才能がある。
「じゃあとりあえずオイフェミア様の私室に荷物を置きに行こう。時間もあまりないしね」
「畏まりました。オイフェミア様からも同様に申し付けられておりますので、ご案内いたします」
「すいません、ありがとうございます」
エインヒルに先導され、屋敷の中へと足を踏み入れる。
ゼファーは馬を表の水飲み場へと誘導した後に、足早に追いついてきた。
瀟洒な装飾の施された本物の貴族の館。
だが、そんな初めての空間よりも、道中のゼファーとエインヒルとの会話の方に集中することにした。
/朝霞日夏
8月20日 09:45 ミスティア王国貴賓街→中央広場
レミントンACRをオイフェミアの私室に保管してもらい、ゼファーの馬に再びタンデムさせてもらい市街の中央へと向かう。
王都の地理に関しての知識は一切持ち合わせていない為、ゼファーの案内に頼ることになるだろう。
俺達を乗せた馬は、行きはゆっくりと通った貴賓街を駆け抜け、あっという間にベネディクテ達と別れた場所まで戻ってきた。
「ここらへんは王都中央広場って呼ばれているよ。毎日市場が開かれている、王都でも一番賑わう場所かな。食品以外は結構ぼったくりも多いんだけど、たまに掘り出し物とかもあるよ。見ていく~?」
ゼファーの言葉を受けしばし思考する。恐らく迎えが来るまであと2時間半程度。色んなところを見て回る余裕はないだろう。ならばこの市場だけに絞って見て回るのが良いか。
「ああ、そうしよう。馬はどうする?」
「駅があるからそこに預けるよ。盗まれたらたまらないからね」
駅と聞いて鉄道駅を想像してしまうが、恐らくは本来の語源である馬舎の方だろう。
馬が盗まれるとなると、現代地球では大事であるが、日本でも歓楽街で自転車を置いておけば数分で無くなる事もある。そんなものか。
ゼファーが馬を誘導し、駅の前へとやってくる。牧場の近くを通った時の様な、濃厚な匂いが鼻についた。
ゼファーはそこで職員に馬と代金を引き渡し、代わりとして割符を受け取った。
「よし、じゃあ色々見て回ろう。アサカさんはどんなものを見たいの?」
「ミスティア特産の食べ物とか、工芸品。それと——」
「煙草?」
「大正解」
「アハハ! OK。そういえば、アサカさんはミスティア語わかるの?」
ミスティア語。恐らくドイツ語のことだろう。俺にわかるのはダンケ程度だ。
「いや全くわからん」
「ハハハ、だよね~。でも綺麗な連合女王国訛りの共通語を喋るよね? それなんでか気になっていたんだ」
俺の英語はイギリス訛りの英語である。大学の教授が帰化したイギリス人だったことと、英国紳士であるエアロン大尉の影響だ。
度々話には上がっていた連合女王国というのは、地球でいうところのイギリスなのだろうか。
ミスティアがドイツとして、西側の海峡の先の島国ともなれば納得ができる。
国名もほぼほぼ同じだ。
「こっちの世界にも同じ言語があるんだ。俺の母語ではないんだが、仕事柄よく使ってね。訛りは関わっていたネイティブ・スピーカー達の影響かな」
「なるほどねぇ。色々違う事も多いけど、私たちの世界とアサカさんの世界って共通点もあるんだね」
「ああ。俺もそこは気になっている。いずれ元の世界には戻りたいし、時間があれば調べてみようかな」
「その時は頼ってね!……といいたい所だけど、私は学が無くてねぇ。オイフェミア様なら、そういうことにも詳しいと思うけど。あとは、深淵にまつわることなら、レティシア侯爵閣下かな。あのお方は、深淵との戦いで最前線を務めていらっしゃるから」
いい事を聞いた。レティシアさんとはもう少し色々話してみたかったし、いい機会だろう。
「了解、教えてくれてありがとう」
「どういたしまして!というほどでもないけど。気にしなくていいよ~」
ゼファーと並んで市場を進む。トマトや見慣れた野菜の隣に、人の頭ほどの青紫色の果実などが山積みだ。香辛料の出店では、鼻を突く刺激臭と甘い芳香が混ざり合う。
鍛冶屋の店先では、刃渡り1mを超える両手剣が無造作に並べられている。装飾の廃された、明らかに実用本位の武骨な造形だ。
それにやはり目立つのだろうか。ドイツ語のためなんと言っているかは理解できないが、明らかに俺達を見ながら話している人々が多い。
「やっぱり目立つんだろうな」
「まあそりゃね。自分で言うのもなんだけど、私はアルムクヴィスト公爵家の近衛だからね~。それにさっきも話したけど、色々あって有名になっちゃったし」
そんなことを話ながら歩いていると、ゼファーが一つの出店の前で足を止める。
気になってその出店を見てみれば、新鮮そうなブロック肉が山積みになって売られていた。随分人気店なようで人がごった返している。
ただの生の肉であるが、随分と食べ応えがあって美味しそうだ。昼前ということもあり腹が減ってくる。
「わ~!こんなに出回るの珍しいなぁ。アサカさん、これなんの肉かわかる?」
ゼファーに質問され、ブロック肉を見る。30cm四方のブロックが100近く山積みだ。新鮮な霜降り肉である。
「大型の鹿とか?」
「残念ハズレ。正解はドラゴ・シミラ。最下級の竜種だよ」
「竜!?」
驚きのあまり大きめの声が出た。とはいえ人混みの喧騒に紛れる程度だが。
「そうそう。単独討伐には英傑者以上の実力が必要だから、ほとんど流通しない高級食材なんだ。ステーキにすると、肉汁が口の中で溢れて舌の上で溶けちゃうくらい柔らかいんだよ」
想像して更に腹が減る。地球で言えば、A5ランクの和牛ステーキのようなものだろうか。にんにくと合わせて食べたら最高そうだ。
「Zepyer!―――」
店員がドイツ語で声をかけてくる。どうやら顔見知りのようだ。
内容が理解できないのがもどかしい。これを気にドイツ語の学習もするべきだろう。幸いにして、言語学習は得意な方だ。
しばし店員と会話した後、ゼファーがこちらに対して口を開いた。
「あの肉、私の友人が狩ってきたものなんだって」
「凄いな。やっぱ強者の下には強者が集まるんだな」
「私なんてまだまだだよ。オイフェミア様と比べることも烏滸がましいけど、上には上がいるんだ」
「そりゃ上澄みというか、人類の最強格だろうに」
「アハハ!違いない!」
話をしながら市場を進む。様々な見た事もない品に加え、数は多くないものの異種族の姿もあり全く飽きない。
到底この2時間程度では満足できないだろう。色々と終わった後に時間があれば、またゼファーに頼んで回ってみたい。
この世界の飲食店なども気になるし、夜の酒場めぐりも楽しそうだ。一人でそれを行うにも、まずドイツ語を学ばねばならないが。
「―――!?―!」
前方から、何やら男性の怒号が聞こえてくる。
同時に目に入ってくるのは、逃げるようにこちらへ走ってくる、口に肉を咥えた痩せぎすの女の姿。 随分と露出の多い格好で、腰には短刀が見える。手入れの施されていない尻尾を揺らしながら、その女は更に加速して突っ込んでくる。
人間基準で考えれば異常な加速だ。片足飛びで走り幅跳びをするかのように一気に加速し、自動車並の速度で突撃してくる。
頭からは獣耳が生えていることから、人間ではない種族なのは間違いないだろう。
前哨基地で話しかけてきた人狼と同じ種族だろうか。
道行く人々をなぎ倒しながら、その女は一直線にこちらへと向かってきた。穏やかな状況でない事だけは理解できる。
「食い逃げ!?アサカさん避けて!人狼の膂力は尋常じゃない!轢かれるよ!」
その速度から、タックルでもされればどうなるかは一目瞭然だった。
ゼファーの忠告通り、動線を開けようとする。だがその瞬間、背後の存在が視界の端に映った。
「子供ッ!?」
6歳程度の少女が、呆然と立ち尽くしている。付近に親の姿はない。抱えて逃げる時間もない。
「ゼファーッ!その子を安全な場所へッ!」
「はぁッ!?ちょ!アサカさん!?」
向こうの速度を考えれば、接触まで1秒もない。
逆に食い逃げ犯へ目掛け地面を蹴り上げる。
身体性能の差は歴然だが、相手は人型。それ故に弱点も人間と同様のはずだ。
正面から《《男》》が向かってきたことに怯んだのか、人狼が減速する。狙い通りだ。
「――ッ!」
人狼が叫びながら短刀を抜き、腰に構えて突撃してくる。ヤクザの突撃姿勢だ。
恐らく完全な素人ではない。戦闘経験がある。膂力の差は圧倒的、さらに刃物。正面から受けられない。
衝突の瞬間、肩甲骨を捻って上半身を右回転。身体全体を相手の右手側へ滑り込ませ、すれ違う。
その瞬間、肩甲骨で生み出された遠心力のまま、項を左手で掴み地面へ叩きつけた。
人狼が自身の膂力と変えられたベクトル、重力によって顔から石畳に突っ込む。
歯の折れる嫌な音と、いくらかの血しぶきが舞った。
普通の人間であれば少なくとも戦意喪失している衝撃だったはずだが、人狼の戦闘力がわからない。
熊などの野生動物は、心臓を貫かれても数十秒の活動はできるという。まだ気を抜かない。
地面に転がった短刀を蹴り、遠くへと飛ばす。
そのままうつ伏せで倒れた人狼の項に左膝を押し当て、右手首を掴み関節を決める。苦悶の声が聞こえてくることから、少なくとも意識はあるようだ。
膂力差の問題から、そのまま振り払われる可能性もあった。
だが少なくとも頚椎の圧迫と関節のロックは有効のようだ。下手な動きを見せれば、その前に圧し折る事ができるだろう。
気がつけば周囲から何やら歓声が上がっている。
言葉は理解できないが、恐らくは称賛だろう。人々の表情を見ればわかる。
目立ちすぎた。軽率だったとは思うが、後悔はない。
「アサカッ!」
上空に飛翔していたゼファーが直ぐ側に降り立ってくる。先程彼女に任せた少女も、ゼファーの能力で空中退避させられていたのか、共に地上へと降りてきた。
「大丈夫!?怪我は!?」
「問題ない。それよりも警察……衛視を呼んでくれ!」
「上からこっちに向かってくるのが見えた。すぐに来るはずだよ。……さて、人狼。動かないでよ、動けばあんたの頭にナイフ叩き込むからね」
人狼から聞こえるのは僅かな苦悶の声のみ。どうせ言葉は理解できないため、今はその方が良い。
しばしの後、衛視達が到着し、人狼の身柄を引き渡す。
顔を上げた人狼は、鼻血と前歯の欠損程度の傷しか負っていなかった。あの衝撃で顔の骨が砕けないとは、どれだけ丈夫なんだ。
衛視たちは俺達に感謝の言葉(恐らく)を述べ、人狼を連行していく。
ひとまず一件落着だろう。
子供が巻き込まれないで良かった。
そう思った瞬間、スラックスの裾を引っ張られる。
「|あ、あの!《Entschuldigen sie...! 》|助けてくれて、ありがとうございます!《Vielen Dank für die Hilfe!》」
視線を向ければ、助けた少女が俯きがちにこちらを見上げている。言葉は理解できないが、ダンケと聞こえたので感謝だろう。
「|気にしないで、お嬢さん。《Please don't worry, young lady. 》|君が無事で良かった。《I'm just glad you're safe.》」
少女の目が見開かれ、頬が赤くなる。唇を震わせ、今にも泣き出しそうだ。
怖かったのだろう。この幼さで生命の危機に晒されたのだから当然だ。
《……誑し》
少女は何かを続けて口にしようとしていたが、母親らしき人物が飛び出してきて中断された。
何度も頭を下げられたが、相変わらず何を言っているのかわからない。
その親子は最後に深々とこちらへと頭を下げ、この場から去っていった。
「あー、肝が冷えたよ。ともかく、アサカに怪我が無くて本当に良かった。何かあれば、オイフェミア様に顔向けできないからねぇ。というかやっぱり強いじゃないか!人狼を格闘で拘束できるのなんて、そうそういないよ!」
「すまん。軽率だった。あれは向こうの実戦不足だっただけさ。ひとまず子供が無事で何よりだ」
「ふーん。まあ、いいよ。子供を助ける事は間違っていないだろうからね。それにしても、罪な事をしたねぇ」
「なんのことだよ?」
「アサカ、あの女の子に対して共通語で返答したでしょ。共通語は貴族階級が主に使う言葉なんだ。つまり、あの子にとって、アサカは"自分を助けてくれた男貴族さま"ってわけさ。私があの歳でそんな目あったら、間違い無く脳が焼かれるね~」
「まじかよ」
周囲には人だかりができ始めていた。目立ちすぎた事は否めないが、少女が怪我を負うことを避けられたのだから良いだろう。
ひとまずこのまま市場を散策することなどできそうもない。時間まで、オイフェミアの屋敷で休ませてもらうことにしよう。




