第8話 平穏を破る絶叫と、最初の来訪者
シズと名付けた、
銀月の小狐との、
奇妙な、共同生活が始まって、
数週間が、過ぎた。
俺の、一日は、
穏やかな、ルーティンで、
満たされている。
朝、目覚めると、
工房のドアの横に置いた、
『幻獣の安らぎ小屋』から、
シズが、ひょっこりと、顔を出す。
俺は、
「おはよう、シズ」
と、声をかけ、
新鮮な水と、
特製の栄養クッキーを、
皿に、置いてやる。
シズは、
嬉しそうに、尻尾を振り、
夢中で、朝食を食べる。
日中は、
俺が、工房で、
モノづくりに、没頭する傍らで、
シズは、
日当たりの良い、窓辺で、
気持ちよさそうに、
丸くなって、眠っている。
時折、
俺の作業を、
瑠璃色の、賢そうな瞳で、
じっと、見つめていることもあった。
その、静かで、
穏やかな、距離感が、
俺にとっては、
何よりも、心地よかった。
誰にも、邪魔されない。
誰にも、命令されない。
ただ、
気の置けない相棒と、
己の、探求心だけに、従って、生きる。
(……最高だ)
(これこそが、俺が、
命を懸けてでも、
手に入れたかった、
本物の、スローライフだ)
そんな、完璧な、
静寂に満ちた、
穏やかな日々が、
永遠に、続くものだと、
俺は、信じて疑わなかった。
――森の静寂を、
切り裂くような、
あの、絶叫を、
耳にするまでは。
◆ ◆ ◆
「きゃああああああっ!!」
甲高い、
悲鳴。
それは、明らかに、
若い、女の子の声だった。
工房で、
新しい研磨剤の、配合を、
試していた、俺の手が、
ぴたり、と止まる。
心臓が、
嫌な音を立てて、
大きく、跳ね上がった。
窓辺で、眠っていた、シズも、
その、ただならぬ気配に、
飛び起きていた。
銀色の毛を、逆立て、
森の、奥の方向に向かって、
「グルルル…」
と、低い唸り声を、上げている。
(嘘だろ…)
(こんな、森の奥に、
俺以外の、人間が…?)
ザザッ、と、
草木を、踏みしだく音。
ガキンッ、と、
金属同士が、
激しく、ぶつかり合う音。
そして、
「グギィッ!」という、
聞き覚えのある、
下品な、魔物の雄叫び。
(ゴブリンか…!)
俺の、脳裏に、
最悪の、シナリオが、浮かぶ。
冒険者か、誰かが、
ゴブリンの群れに、
襲われているんだ。
どうする?
どうする、俺。
(……関わるな)
(関わっちゃ、ダメだ)
俺の、内気な魂が、
警鐘を、乱打する。
俺は、
面倒ごとが、嫌いだ。
人と、関わるのが、
何よりも、苦手なんだ。
俺は、ただ、
静かに、暮らしたいだけ。
工房のドアに、
鍵をかけて、
嵐が、過ぎ去るのを、
待つべきだ。
そう、
頭では、分かっているのに。
「いやぁっ!」
さらに、近くで、
悲痛な、絶叫が、響き渡る。
もう、
工房の、すぐそこまで、
迫ってきている。
俺は、
思わず、
自作の『潜望鏡モドキ』を手に取り、
窓の、隅から、
恐る恐る、
外の様子を、覗き見た。
そこには、
絶望的な、光景が、
広がっていた。
一人の、
若い、女の子の冒険者が、
三匹の、ゴブリンに、
囲まれていた。
歳は、俺より、ずっと若そうだ。
栗色の、髪を、
無造作に、束ねている。
使い込まれてはいるが、
どこか、安っぽい、革鎧。
その、手には、
ボロボロに、刃こぼれした、
一本の、ロングソード。
彼女は、
必死に、剣を振るっているが、
その動きは、
恐怖と、疲労で、
明らかに、精彩を欠いていた。
ゴブリンたちの、
下品な笑い声が、
森に、響き渡る。
もう、
彼女が、追い詰められるのは、
時間の、問題だった。
俺は、
咄嗟に、鑑定眼を、発動させた。
【ステラ】
種族:人間
職業:冒険者(駆け出し)
状態:疲労、恐怖、軽傷
【ゴブリン】
種族:亜人
職業:雑魚
状態:極めて良好、好戦的
(ダメだ…このままじゃ、死ぬ…!)
頭の中で、
警報が、鳴り響く。
見捨てるのか?
目の前で、
人が、死ぬのを、
見過ごすのか?
(でも、どうやって…!?)
(俺には、戦う力なんて、ない!)
俺が、持っているのは、
モノづくりの、スキルだけだ。
剣も、魔法も、使えない。
俺が、外に出ても、
ゴブリンの、四匹目の、
餌食になるだけだ。
(そうだ…)
(戦う、必要なんて、ないんだ…)
俺の、脳が、
前世の、研究者のように、
高速で、回転を始める。
必要なのは、
戦闘じゃない。
状況を、打開するための、
『一瞬の、隙』だ。
(それなら、作れる…!)
(今、この場で!)
俺は、
素材棚へと、駆け寄った。
目当ては、
ギルドで、買ってきた、
『閃光石』の、かけら。
そして、
『発火性の高い、鉱物の粉末』。
俺は、
それを、
近くにあった、
硬い木の実の、殻の中に、
素早く、詰め込んでいく。
【万物再編】のスキルが、
脳内に、
即席の、閃光弾の、
最適な、配合比率と、
起爆方法の、設計図を、
瞬時に、描き出す。
殻の、隙間を、
スライムセメントで、密閉し、
最後に、
起爆信管の代わりとして、
ごく、微量の魔力を、
その、中心部に、込める。
俺が、
衝撃を与えた、三秒後に、
魔力が、発火性の粉末と、反応し、
閃光石を、暴発させる、仕組みだ。
キィン、と、
小さな、起動音が鳴る。
鑑定眼が、
その、即席の道具の、
性能を、表示した。
【即席閃光玉】
Rank:F
効果:強力な光と、衝撃音で、
対象の、視覚と聴覚を、
一時的に、麻痺させる。
「…よし!」
俺は、
工房の、ドアを、
勢いよく、開けた。
「え…?」
突然、開いたドアに、
ゴブリンに、追い詰められていた、
少女、ステラが、
驚きの、声を上げる。
俺は、
彼女と、ゴブリンたちの、
ちょうど、真ん中に向かって、
完成したばかりの、
閃光玉を、
力一杯、投げつけた!
ゴブリンの一匹が、
それを、食べ物と、勘違いしたのか、
手に取ろうとした、
その、瞬間。
――世界から、
色と、音が、消えた。
ピカァッ!と、
網膜を、焼き切るような、
純白の閃光。
そして、
キィィィィィィィン!!という、
鼓膜を、突き破るような、
耳鳴り。
「グギャアアアアッ!?」
ゴブリンたちが、
目と、耳を押さえ、
混乱し、のたうち回る。
完全に、無防備な状態だ。
ステラも、
その、閃光に、目をやられていたが、
ゴブリンよりは、
遥かに、早く、回復した。
彼女は、
これが、千載一遇の、
チャンスだと、
瞬時に、理解したのだろう。
「はぁっ!」
彼女の、剣が、
希望の光と共に、
閃いた。
混乱する、ゴブリンたちを、
一人、
また、一人と、
確実に、仕留めていく。
全ての、ゴブリンが、
地に、伏した時。
森に、
再び、静寂が、戻ってきた。
ステラは、
その場に、へたり込み、
荒い、息を、繰り返している。
そして、
やがて、
何が、起こったのかを、
理解したように、
俺が、隠れている、
工房の、ドアへと、
その、視線を向けた。
俺は、
彼女と、目が合った、その瞬間、
心臓が、跳ね上がり、
パニックになって、
バタンッ!と、
勢いよく、ドアを閉めてしまった。
(やばい、やばい、やばい!)
(関わってしまった…!)
俺が、
ドアに、背中を預け、
激しく、動悸を打つ、
心臓を、押さえていると、
ドアの、向こう側から、
トントン、と、
遠慮がちな、ノックの音がした。
そして、
「あ、あのっ…!」
「すみません…! どなたか、いらっしゃいますか…?」
「た、助けていただいて、
ありがとうございました…!」
震える、
しかし、
凛とした、
少女の、声が、
俺の、鼓膜を、
優しく、揺らした。