4 異界
(あれ、メルル? ……りん君? ねえ、え? どこに行ったの?
メルル……っ! りん君……っ!)
くぐもった声が聞こえる。気泡が無数に生み出され水面を求めて浮上する。使い物にならない耳からゴボゴボと音がする。茹だるほど熱い、色に濡れた世界に閉じ込められた。
ここだよ! 夜明、私はここにいる!
お湯の中で必死に口を開き助けを求める。体内にお湯が入り込み鼻と喉に激痛が走る。息ができなくなる。泣くことすらできずに。助けて。まま。
「お姉さま! 気をしっかり持ってください!」
肩を揺すられ、起き上がる。酩酊からぶちぶちと体を引き剥がす感覚が頭の中をぐるぐる巡る。
「げゔぉ」
うずくまって口から粘液混じりの液体の塊を吐き出す。とっさに口元に当てた手が濡れる。鼻の奥がジンジン痛い。ようやく息の仕方を思い出して、浅く空気を吸って吐く。ぜーはーぜーはーと床に手をついて涙を溢しながら息を整えてる私の背中を、横に膝立ちになっているりんが優しく撫でてくれていた。私は一度りんを見上げて、床に吐き出された液体に目を戻す。手にかかったそれはお湯のように熱かった。
初めて夜明と一緒にお風呂に入った時を思い出した。私は足を滑らしてお風呂に沈み、お湯の中で必死に助けを求めた。その状況で有効な魔法を私はまだ覚えてなくて、そして激痛と死の恐怖を前にして魔法を使うという発想も出てこなかったから。助けを求めた時に浮かび上がったのは何故か分からないけど、あって間もない夜明の顔だった。そして実際に夜明に助けられた。
私と夜明の関係に重大な影響を与えた事件だった。
「落ち着かれましたか?」
りんの不安混じりの声で意識がはっきりとしてくる。
「うん、大丈夫だよりん」
「本当ですか? 私お姉さまが変なことを呟くから、気が触れたのかと思って」
りんが目尻に涙を滲ませて私の顔色を伺ってくる。
「私何か言ってた?」
「はい。まま〜まま〜って」
「忘れてね」
「言わずもがなです!」
なぜか基底状態になっている装備の術式に魔力を流して起動させる。りんから差し出されたハンカチで顔を拭う。濡れた袖を嗅いでみても異臭はしない。鼻がおかしくなっているだけかもしれないけど。
私が倒れていた場所は元の階段のところだった。壁に表記されている階数も同じだけど壁に穴は空いていない。さまざまな術式を励起させて確認したが周囲には私とりん以外の人の気配はない。夜明の存在も感じ取れない。スマホを出すと圏外と表示されて画面も文字化けしている。ロックを解除しても黒と赤の変な画像ばかり表示される。たまに人の顔に見える画像があって怖い。
「りんは何があったかわかる?」
「わかりません。お姉さまがいきなりあの変な黒い渦を触ろうとしたから止めようとして、目が覚めた時には私とお姉さまは二人ともここに倒れていました」
「……夜明は?」
「わかりません。どこに行かれたのか」
『あの時の夜明の姿を見ていないの?』という意味で言った言葉をりんは『今夜明はどこにいるの?』と受け取ったらしい。だけど素振りを見る限り、りんには私がブラックホールに自分から触れたように見えていたということか。
幻覚の類いも魔導具が弾いてくれるはずなんだけどな。あの髪の長い女も実物かどうか怪しくなってきた。
「とりあえず夜明を探そう」
立ち上がり廊下に出ると新たな違和感に気づく。窓から差し込む光が夕焼けのように赤い。外を見ると先ほどまでと変わらない見た目の町が広がっている。だけど地平線の先に異常に大きな夕陽が沈みかけていた。
意識を失っている間に数時間経過した。そんな考えが頭によぎるが、倒れた私を夜明が放って帰るはずないので違う。
まさか夜明も失踪した? それは嫌だ。
「屋上に行ってみよう」
「はい、お姉さま」
不安を声に乗せるりんの手を握って屋上に上がる。大きな夕焼けが照らす街は一見何もおかしなところがないように見える。だけどすぐに異常性に気づくことができた。
まず音がしない。車の音、人の足音、お店の音、鳥などの生き物の声。そう言った音が一切消えて静寂の帷に包まれていた。あれだけ強かった風も吹いていない。大きな夕陽を受けて影を強める街は不気味だった。
次にディティールがおかしい。看板の文字が読めない。中国語と日本語とハングルが混ざったみたいな変な文字で書かれている。車がとんでもない位置に停められていたり、信号機や標識がやたらと多かったりやたらと奇妙だ。道を走る車がいない上に人もいない。なのに所々の建物は明かりが灯っている。
最後に、魔力の気配が全くない。学園のある方面からも何も感じない。私は解放感と喪失感を同時に味わうことができた。
「お姉さま、これ、どう言うことでしょう。どうしたらいいんですか。私」
「……」
手からりんの恐怖が伝わってくる。私はその手を握りしめ、呆然と街を見つめていた。
太陽は沈みかけのまま動かない。こんなに太陽が明るいのに空には満天の星が広がっている。
この世界の星は元の世界の星とは全く違う星図を描くらしい。夜明が星の話をよくしてくれたから星については知っているつもりだけど、見知った星座を見つけることはできなかった。様々な等級の星が均等に散りばめられたそれは星に全く詳しくない人が思い描く星空のようで、人工的で無機質な印象を与える。
『現実世界とは違う世界に来てしまった』
それが結論である。消えてしまったのは夜明ではなく私たちの方だったのだ。ここがどこなのかはわからない。この世界に来る原因となった髪の長い女や偽夜明の正体も目的も不明だ。だけどこれで一つわかったことがある。
「つまりねるちゃはなんらかの原因でこの世界に入って抜け出せなくなっているってことじゃないかな」
「その可能性は高そうですね。実際私たちが抜け出せていないのですから」
私たちがここに来た原因はどう考えてもあのブラックホールだ。あれをねるちゃが作ったのか持ってきたのか見つけたのかは知らないけど、あのクソ魔女のことだ。どうせ碌でもないことをしようとしていたに違いない。いざとなったら夜明が助けてくれると言う確信がなければあんなアバズレと誰が交流したがるものか。
私たちはしばらく二人で寄り添って座っていた。りんがずっと下を向いて座り込んでしまったからだ。
「お姉さま……私、本当にもう、こう言うホラー系ダメで。ごめんなさい……」
「よしよし、りんは強い子だよ」
「やめてください寒気がする」
「なんでよ」
私の片腕を掴んで引っ付いてくるりんの頭を撫でたら罵倒された。この女やっぱ私のこと嫌いだろ。
それだけ精神的に参っていると言うことか。もはや半泣きで顔を青ざめさており、時々こちらに向ける視線も挙動不審でおぼつかない。
「まだ立てない?」
「すみません、腰が抜けて」
私は立ち上がり、りんの手を取り引き上げるが、りんはすぐにへたり込んでしまった。
「お姉さまは私に構わずに、ご自分のやりたいことをなさってください」
「そう言われてもねぇ」
やりたいことではなくやるべきことは、恐らくこの世界にいるねるちゃと一緒に現実世界に帰ることだ。ねるちゃが帰る方法を知っているのかは知らないけど、夜明はねるちゃを心配していたし。
私はりんの側を離れて屋上の端に立つ。赤と黒に染まる街はどこまでも続くように広がっている。夕陽が左側にあるから私は北を向いている筈だ。
このビルの高さが30メートルとしたら地平線は大体20キロ先になるので、学園都市は少なくともそこまで続いていることになる。学園のある中央区とそこを取り巻く東西南北の区を含んだ中央5区から出たことのない私にとって学園都市はあまりにも広い。相対的に私がとても小さく、惨めなもののように思える。
「メルル」
本当に唐突だった。
幼い頃から聴き慣れた母の声が私の名前を呼ぶ。弾かれたように声の方に振り返る。
「夜明!」
「メルル。助けに来たよ」
穏やかな目の夜明がそこに立っていた。
続く?