34 図工室における虚の現前性
図工室までは少し距離があった。陽毬と会話しながら図工室を目指す。雨の降る中暗い廊下を歩くのもだいぶ慣れてきた。もちろん陽毬がいなきゃ一歩も動けなかっただろうけど。
図工室が近づいて来たからか、廊下には多くの絵や作品が展示されている。アクリル絵の具の風景画、ちぎり絵の人物画、子供の好きなものをひたすら詰め込んだようなクレパス画、色鉛筆で描かれた虫、紙粘土の恐竜、版画の植物。たまに光るものはあるものの、ほとんどはヘタクソで見るに堪えない。
……例えば、紙をちぎって貼り付けて作ったあの絵の人物。あれは学園の制服じゃないか?
例えばあの風景画に映り込んでいる女の子たちは、こっちを見つめていないか?
例えば絵の下にある製作者の名前に『吉久舞』と書かれていないか?
絵の中の人が、動物が、目があたしたちを見ている。
大丈夫、ただの絵、視線に意味はない。
あたしたちは廊下を進み、ついに図工室のある一角へと辿り着いた。図工室のドアは少しだけ開き、誰かがこちらを覗いている。
繋いだ陽毬の腕から震えが伝わって来た。彼女はぎゅっとあたしの手を握る。あたしは陽毬にめくばせをし、彼女の手を握り返した。
バンッ!
一歩を踏み出すと、ドアは音を立てて閉められた。
「ここだね」
「うん」
図工室の前に立つと、中の気配が漏れ出るガスのように伝わってくる。ひそひそ、ひそひそと小さな声が聞こえる。
陽毬はもう片方の手に司書室で手に入れたハサミを構えている。あたしは取っ手に手をかけて、ドアを開けた。
中には誰もいなかった。電気はついておらず、陽毬の光球が闇を裂いて光景を映す。木と絵の具の、あたしにとっては慣れ親しんだ匂いが充満していた。
大きな木の作業台。作品を保管するラック。多種多様な画材。壁中に飾られた子供が描いたヘタクソな自画像。有名な絵画の小さな写真。場所が足りないために段ボール箱の上に置かれた石膏像。大きく膨らんだかけ布。黒板には大きなチョークのドローイングが描かれていた。モチーフは『なに』と断言することはできないが、どことなく蜘蛛に似ていた。無数に描かれた目の全てがこっちを見つめているような錯覚に囚われる。
「絵の中に隠されているんだっけ」
「どの絵か探さないと」
あたしたちは二人ともお互いの手を握り締めながら図工室を調べる。少し調べただけでは何もわからなかった。大きく膨らんだかけ布を剥がすと、ただの壊れた机が現れる。
何もない? いや、そんなはずはない。だって今も、こちらを値踏みするかのような嫌な視線がなくならない。
「こらっ! あなたたちこんな夜中に何をしているの!? 早く家に帰りなさい!」
二人して驚き声の方を振り向くと、図工室の入り口にあたしたちよりちょっと上ぐらいの年齢の女の人が立っていた。
「さあ早く! 子供はこんな時間にいちゃいけません! 帰りなさい!」
一見まともなことを言っているように思えるが、どう見ても20歳を越えているあたしたち二人に対するセリフとしては不自然だ。
陽毬は片手にハサミを構え、彼女に向ける。
「はじめまして。間違ってたら申し訳ないんですけど、お人形の一部を渡してくれませんか? それはタクトちゃんって言う男の子のものだって聞いています」
女の人は陽毬の脅迫に驚いた素振りも見せず、表情すら変えずに固まった。
ひそひそ、ひそひそと小さな声が周囲から発生する。
「はさみだ」「はさみ」「こわい」「こわいね」「どうする?」「なかまにする?」「あぶない」「こわいから」「ころす」「ころす?」「ころす」「ころす」「ころす」
その瞬間、女の人はペラペラと風に煽られる布のようになってどこかに行ってしまい、図工室のドアが勢いよく閉められた。
ざわざわと草が風に撫でられるように四方がざわめく。子供の騒ぐような声に囲まれる。図工室中のヘタクソな自画像たちが支持体からバリバリと抜け出してあたしたちに近づいてくる。
「ひっ!」
「落ち着いてふーちゃん! 風で飛ばされるただの紙だから!」
陽毬は近づいて来た一人にハサミを振ると、そいつは一瞬でバラバラに切り刻まれた。周囲の自画像たちがたじろぎ、少し距離を空ける。
「やっぱり! 攻撃系の術式が付与されてた」
「大丈夫なのそれ!」
「大丈夫! ふーちゃんは後ろから近寄ってくる奴がいたら教えて」
自画像たちはあたしたちの隙を見て近づいてくるが、陽毬がハサミを当てた途端バラバラになって床に落ちた。流石に切り刻まれると死ぬらしい。それを何度も繰り返してあたしたちの周囲に紙の輪ができると、自画像たちは一人また一人と、自分の支持体の中へ帰っていく。人物が帰った絵は綺麗に元通りになるが、人物が切り刻まれてしまった絵は人型にくり抜かれてもう元には戻らなかった。
「諦めたのかな」
「でも人形は……っ」
あたしは言葉を最後まで言い切ることができなかった。黒板に描かれたチョークのドローイング。それが線のまま黒板を抜け出そうとしていたからだ。
「あった!」
陽毬がハサミの鋒でドローイングの一部分を指す。そこに人形の手らしきものがあった。
ドローイングは平面の支持体から立体的な線で構築された肉体を引き出している。無数の目と無数の手を持ち教室の天井に上部を擦り付けるほど巨大なそれは、死の具現化と言うにふさわしかった。
「怖い?」
陽毬があたしを見る。精一杯の虚勢を張って「怖くない」と言おうとしたが、喉が枯れて言葉が出てこなかった。
「あたしが取ってくるから、ふーちゃんはここにいて。大丈夫、すぐ戻ってくるからね」
陽毬の手を強く掴む。絶対に話さないように。だけど陽毬はあたしの頭を撫でて、優しい瞳で、子供をあやすようにこう言った。
「信じて」
陽毬の手が離れる。なのにあたしの足は床に縫い付けられたかのように動かなかった。
続く?