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ロストガールと魔女  作者: ヌププ
第五章 『小学校の七不思議』 斎藤風樹
32/40

31 トイレの花子さん テケテケ

 

 あたしは青い顔の陽毬の手を引いてトイレに駆け込んだ。

 ああ、陽毬はお手洗いに行く前に私を見つけて追いかけたのだと言っていた。ずっと我慢していたんだ。私のせいで。気づかなかった。最悪だ死ね!

 トイレには二つの入り口があり、あたしは何も考えずに右側のトイレに入る。そこは妙に狭くて、片方の壁に1メートルほどの白いオブジェが5つほど並んでいた。タイルの床を伝った奥に個室のようなものはあったが便器がなく、代わりに大きな穴が空いてカビ臭い臭いの空洞を覗かせている。トイレっぽい謎の空間。


「なにここ……あっ」

 男子トイレというやつか。興味深いけど今はそれどころじゃない。慌ててもう一方の入り口にいく。そっちは普通の個室トイレが並ぶ空間があった。3番目の個室以外は男子トイレにあったような穴が便器の代わりにあり、トイレとしては使えそうもない。さっきのタクトの話が脳裏によぎる。

 トイレの花子さんだっけ。意味わかんない。

 3番目の個室のドアを開けると少し古いタイプの水洗トイレがあった。


「陽毬ここ使える!」

 あたしがそう言うと陽毬はあたしの腕を掴んで個室に引っ張り、鍵を閉めた。あっという間の出来事に頭が真っ白になった。

「お願い、そこにいて」

 陽毬は長いスカートをたくし上げて纏めたものをあたしに手渡す。あたしが反射的に受け取るとにっこり笑ってペチコートを下げ便器に腰かけて用を足し始めた。陽毬の体が軽く震え、ジャーという陽毬のおしっこの音が人気のないトイレに響く。

 あたしの中の何かが緊張していく。心の中のそれは徐々に硬く膨らみ出す。

 あたしはこの音を誰かに聴かせるわけにはいかないと消音スイッチや擬音スイッチを探したが、そもそも操作パネル自体がこのトイレには存在しなかった。今時音消しは標準装備だろうがっ!

「ふーちゃんは動かないで!」

 陽毬からお叱りを受け固まる。アンモニアの匂いが立ちこもり、鼓動が早まる。あたしはなんでこんな、こんな状況にいるんだ。どう振る舞うのが正解なんだ。陽毬の排泄の場に立ち会うという重罪とあたしはどう向き合うべきなんだ。死にたい。


 コンコンコンッ


 個室のドアがノックされる。悪戯が見つかった子供のように驚いてしまった。水を注されたと怒ればいいのか、よくやったと喜べばいいのかわからなくて混乱する。そんな自分が恥ずかしくて、そんな感情もよくわからない興奮に呑まれる。


「花子さん、遊びましょ」


 ドアの向こう側から幼い子供の声が聞こえた。人違いですと応えようとして、陽毬に強く引っ張られる。

「……陽毬?」

「ふーちゃんは陽毬を見てて。絶対に答えちゃダメ」

 陽毬の綺麗な瞳があたしを見上げる。そんな目で見つめられたら断れる人間はいない。


 コンコンコンッ


 さっきよりも少し強くノックされる。

 そんなことよりも陽毬とあたしの距離が近い。お互いの息が臭いと混ざり合う。本来はきつい臭いのはずなのに、陽毬の価値とシチュエーションの価値が付与されて神聖なものになる。なのにあたしは、ああここにいることすら大罪なのにあまつさえ……たぶんあたしはなんらかの禁忌を犯しそうになっている。犯す前に死ななくては。


「はーなこさん。あっそびっましょ」


 うるさい。あたしは今生きるか死ぬかの瀬戸際に立っているんだ。意味わかんないこと言わないで。ああ陽毬の顔が近くにある。光球の淡い光の下で、その瞳は憂いと恐れを帯びつつも迷いがなく凛としている。やっぱり陽毬はすごいんだ。


 ドンドンドンッ!!


 はっ!

 ドアが殴るように叩かれて、あたしは正気に戻った。ドアに向けられた視線は陽毬の手によってすぐ見つめ合いに戻される。


『はーなこさん。ああっそびっましょ。はーなっこさん。はっなこさん。花子さん。遊びましょう。遊びましょう。あっそびっまっしょ。遊びまっしょ』


 何人もの子供の声が重なって聞こえる。中には大人の男の声も混じっているようだ。


 ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンッ!!!!


 ドアが強く叩かれる。あと少しで壊れてしまうんじゃないか。そんな妄想をする時間が一秒また一秒と長くなる。死ぬ。死んでしまう。あっ──

 陽毬があたしを抱きしめる。母親が子供を落ち着かせるように。陽毬の匂いが胸いっぱいに飛び込んできて、生の欲動と死の欲動が同時に発生する。こうやって陽毬に掻き乱される心も全て意味のないものなんだと思いたくない。でも世界の全ては無意味だから、きっと陽毬だけは特別なんだと思うことで、自分の中の理屈を説明している。


 ああ死にたい。でももう少し、この匂いを、この体温を、この柔らかさを感じていたい。



 陽毬の匂いを嗅いでいたらいつのまにか音は止んでいた。陽毬がトイレットペーパーで拭う様は必死にそっぽを向いて見ないようにした。流すボタンを二人で探して、陽毬がトイレタンクの脇についていたレバーを捻ると想像以上の勢いで水が流れて、二人して死ぬほど驚いた。それがなぜかおかしくて二人で笑った。

 恐る恐る個室から出てももう誰もいなかった。ドアが何かをはねる。見ると白いワンピースを着た布人形の胴体のようなものがタイルの上に落ちていた。トイレの床なのでたぶん汚い。意を決して拾い上げ、概念的な汚れを軽く手で払う。

「これがあの子の言ってた人形なのかな」

「あー、今思い出した」

「もうふーちゃんったら! 陽毬はお手洗い我慢しながら聞いたのに!」

「うぐっ……ごめんなさい」

「えへへっ、いーよ!」

 陽毬は悪戯っぽく笑った。かわいい。


 手を洗って廊下に出ながら、七不思議とはなにか、そもそもこの場所はなんなのかについて考える。今までの自分を一新するかのような体験を乗り越えたあと特有の万能感が脳に満ちていた。お陰でネガティヴに支配されずに思考を走らせることができる。


「あっ」

 陽毬の声がして、彼女の目を追う。どうやら落ち着いて考えさせてはくれないらしい。


 テケテケテケテケテケテケテケテケテケ


 子供の足音のような、奇妙な笑い声のような、古い楽器のような、恐怖を煽る音が廊下の先の暗闇から聞こえて来る。音の発生源はゆっくりと這いずりながら暗闇から姿を見せる。上半身だけの豚の皮を被ったような皮膚の体を緩急をつけて揺らし、髪のない頭部には無数の黒い穴が空いていた。音はそこから出ているようだ。


「女の子じゃないじゃん!」

 陽毬が叫ぶと同時にテケテケはこちらに向かってスローペースで走り出した。あたしたちも逃げるために走り出したが、陽毬が転んでしまった。

「あだっ!」

「陽毬!」

 どうやらヒールが折れたらしい。硬い骨の部分が折れたわけではなく根本の肉が剥がれて、皮で辛うじて繋がっていた。

「大丈夫よう! あだっ!」

 陽毬はすぐに立ち上がるが、今度はもう片方のヒールも折れて彼女は再び転んだ。


 後ろを振り向くともう目と鼻の先までテケテケは近づいていた。もう逃げられない。死ぬ。死──

 そう悟った瞬間、あたしは無意識に右手をテケテケに向けて魔法を発動しようとしていた。


 あたしは魔法が使えない。理由は二つあって、一つは学生時代に全く魔法を勉強してこなかったから。術式とか何一つ覚えていない。

 もう一つは全盛期を終えて魔力の衰退期に入り、魔導士号強制返還からの学園卒業を迎えたこの肉体には、もうほとんど魔力が残されていないからだ。それでも残り少ない魔力をかき集めれば、何か一つぐらいは発動できるかもしれない。


 どんな魔導士でも、魔導士号を返還しても、術式を一つも覚えていなくても、魔力を持っていた人間なら誰でも、使える術式が一つある。

 あたしが魔導具なしで唯一使えた魔法にして、もう二度と使わないと決めた術式。それは固有術式。

 それに少ない魔力を通して、無理やり励起させる。


 あたしのこれは風の斬撃を前方へ撒き散らす。それでいて周囲に被害をもたらさない、ターゲットだけを攻撃するという使い所のない術式。人によって固有術式は違うけど、あたしみたいな劣等生でも魔法を知らない子供でも人を殺すことができる術式を使えるなんて、危険にも程がある。魔導協会が固有術式の使用禁止を決めたのもごく当たり前の判断だ。

 形が崩れる。光が揺れる。調和の取れた完全な世界が、グラデーションを描き始める。励起してしまう。

 こぼれたミルクは戻らない。だからあたしは魔法が嫌いだ。


 嵐のような風が、一瞬だけ廊下を吹き荒れた。



 破壊の渦が晴れると、頭に大きな傷を作ったテケテケがテケテケと私を笑っていた。頭の傷から内側のセラミックのような白い骨が露出している。それは骨というより人形の芯といった方が適切なぐらいつるりとしており、傷から血は流れていない。大怪我に見えるけど、さほどダメージは与えられていないらしい。

 かなり無茶をした。残り少ない魔力を全て使った。もう魔力は残っていないし、これから増えることもない。体の毒素を全て排出し終えたような解放感と、とんでもないことをしてしまったような喪失感がお互いを喰らい合う。


 あはははは。それでも倒せなかった。ちゃんと魔法を勉強していなかったから。あたしの周囲に魔力の熾が漂い、同時に魔力不足と練度不足で魔法が不完全に発動した感覚が残される。最後の魔力をかき集めて、身から出た錆で失敗する。ああ死にたい。


 テケテケの目のようなものがあたしを見つめる。肉が溶けて、骨が見える。死が、剥き出しの死が。みんな死を抱えながら、死にながら生きている。死が内側にあることをみんな知っているはずなのに。蟻が肉を食べる。少しずつ削られる。骨が見える。ああ……死にたくない……


 ふらっと体の力が抜ける感覚とともに、あたしは廊下に倒れた。


「ふーちゃん! ふーちゃあん!!」


 涙を溜めた陽毬があたしを覗き込む。

 泣かないで。あたしなんかどうでもいいから早く逃げて。

 そう言いたいのに声が出ない。また足を引っ張った。魔法がここまで体力を消耗するなんて。死にたい。死なないで陽毬。


 テケテケがゆっくりと陽毬に迫る。やめて。嫌だ。陽毬に触るな!

 死んでしまう。あたしのせいだ。陽毬っ──


 その光景を最後に、あたしは意識を失った。


続く?

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