27 記憶の固執
陽毬があたしの元を離れてから我に返るまで数分かかった。
そしてようやく、あたしは目の前の死体、いや死にかけの人を意識することができた。よく見れば彼女は血を流し手足を歪に折りながらも、わずかに目を開いて真上を見つめていた。
「あっ、だ、大丈夫ですか!」
返事はない。しかしわずかに目があたしを追う。息もしているし、脈もある。熱を持った彼女の体が霧雨に打たれる。
彼女の頬を小さな生き物が這う。確か蟻という虫の一種だ。学園都市に虫はいないはずなのに。
蟻を手で払う。
「い、今助けが来ます。それまで耐えてください。あっ屋根のあるところに運びましょうか」
彼女の手を握り必死に呼びかける。彼女は私と似た服を着ており、この春に学園を卒業したあたしと大体同じ年齢っぽい。血に濡れた顔立ちもあたしにかなり似ている。きっとあたしと同じような理由で、苦しんでいて、彼女は自殺する選択をしたんだ。
……自殺? なんで自殺だと思った。それにこの顔、私に似過ぎているような。
とっさに四阿の上を見る。四阿の屋根には大きな凹みがあり、あそこに落下したのだと一眼で分かった。
でもその上には何もない。ぼんやりとした幻想的な空間が広がっている。
きっと、手足の骨折は咄嗟に下に突き出してしまったことによるもの。でも手足がクッションになって助かったのか。ああ違う。こんなことではない。頭が纏まらない。
その時耳が微かに少女の声を拾う。
「え?」
「お…のこ……おとこのこが……」
「オトコノコ……男の子供?」
「し……」
そこまで言って彼女は目を瞑る。
「ねえ! 待って! 男が何!?」
頬を叩くが返事はない。息はしているし脈も弱々しいけどあるので、気絶しただけのようだ。死んでなくてよかった。彼女の髪を登っていた蟻を手で払う。
とりあえず彼女を雨の当たらない場所に移動させようとしたが、手足が千切れそうになったので断念する。死にかけの彼女を前に、再びどうしていいか分からなくなった。
「あ、傘」
陽毬は傘も刺さずに飛び出していったので、ここにはあたしと陽毬の2本傘がある。咄嗟に二つとも持ち出して一本を開いて彼女のそばに置き、もう一本を屈んだあたしが持って雨から彼女を守った。彼女の服の上に乗っていた蟻を手で払う。
「ああ死ぬ……死にそう……いやだ……」
心細さと不安で死にそうになりながら、陽毬がたくさんの人を連れて帰ってくるのを待った。1秒が溶けて、時計が溶けて、時間の後ろにある硬い骨が、露出して、痛い。
怖い。人は死ぬ。そんな本質を、時間という曖昧なもので覆い隠して、曖昧な夢を見ながら、あたしは生きている。みんなみんなみんな、目を背けている。
蟻を払う。
ダリ、あんたも死んでしまったのか。
時間が溶ける。目が覚めてしまう。
目が覚めたら、死んでしまう。死にたくない。
いつも死ぬ死ぬ妄想ばかり。自分が情けない。不甲斐ない。馬鹿みたい。死んでしまいたい。
どうせ人は死ぬのに、黙って死を待つことができなかったから。こんなこと考えても無意味なのに。
蟻が集る蟻が集る蟻が集る蟻が集る蟻が集る蟻が集る。
死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない死ぬ死にたくない死ぬ。死にたくない。死ぬ死にたくない。死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない死ぬ死にたくない死ぬ。死にたくない死ぬ死にたくない。死ぬ死にたくない死ぬ死にたくない死ぬ死ぬ死ぬ死ね
死ね
「ふーちゃん!!!」
陽毬の声がする。救いの声、光が闇を照らす。
ああなんで、あなたはこんなにも尊く、輝いているの。元気で、おばかで、明るくて、何度陽毬に救われたか分からない。
だからこそ、陽毬にあたしは似合わない。
だって、あたしみたいな売れない画家と友達でいていい人じゃない。もっと明るい人で、明るい場所で、笑っていてほしい。死を感じさせない、曖昧で、明るくて、暖かい、揺らぐことのない世界で。
ああ、あたしは死
パァン!!
と音が響いて、左頬が熱を持つ。
「しっかりしてふーちゃん!」
「え、ちょっ! やめい!」
陽毬はあたしをビンタした後ガクガクと肩を揺らす。お陰で脳みそがいい具合に回ってきた。そしてガクガクはやめさせた。すると彼女はほっと息を吐き頬を緩ませる。
「よかったなんかさっきふーちゃんが変な顔でガクガク揺れてたからもうダメかと」
「いやいや、ガクガクは陽毬のせいでしょ」
「? 陽毬はガクガクしてるふーちゃんを止めたんだよ!」
陽毬が言うにはあたしが地面に座りながら頭を前後に凄い勢いで振っていたのだとか。陽毬は嘘をつくのが下手だから、多分本当のことなんだと思う。
あはは、死ぬのは怖いけど頭がおかしくなるのも怖い。そして首が痛い。
「そういえば助けは」
「それがね、なんかホールがなくなってて、霧が深くてよくわかんなくて、気づいたら目の前にふーちゃんがいたの!」
よくわからないけど、だんだん自分が特異な状況に巻き込まれていることに気づいてきた。
怖い。陽毬がいなきゃ、死んでたレベルで怖い。
「ふーちゃんこそ、あの子はどうしたの!?」
「え?」
慌てて彼女の方を向いても、傘の下には誰もいなかった。
嘘、さっきまでいたのに。
「違う。あたしは何もしてない」
「傘」
「あたしは」
「雨から守ろうとしてくれてたんだよね。ふーちゃんは優しいね」
「あっ、……」
また失敗した。死ぬ。死にたい。死にたくない。死んでしまえ。
霧雨に全て溶けていく。溶けてくれたらいいのに。その霧雨も、いつのまにか止んでいた。
キーンコーンカーンコーン
世界を作り替えるような鐘の音が響く。少し音の割れた、古いスピーカーから出ているようなチャイム。
「なんの音?」
「……こっち! 人がいるかも!」
優秀な耳を持つ陽毬が進む方に、傘を回収したあたしもおずおずとついていく。
あの人、どこにいったんだろ。大丈夫かな。死んでないかな。あたしがちゃんと見ておかないから。消えてしまったんじゃ。
ああ死にたい。情けで与えられた最低限の仕事すらまともにこなせない社会不適合者。生きる価値のない人間。死んでしまえ。
嫌だ、死にたくない。死ね。死にたくない。死ね。死にたく……
「ふーちゃん、見て」
陽毬に従い見つめた先、そこにあったのは三階建ての、それにしてはこじんまりとした印象を受ける古びた建物だった。ディティールが曖昧で、古臭いのにどこかぼんやりと明るい。
「入ってみようか」
いつもの悪戯っぽい笑顔じゃない、少し真剣な顔で陽毬は指を指し、建物に向かって歩き出す。建物は少し面白い構造になっており、二つの主要な棟の間を二つの渡り廊下がつなぎ、渡り廊下の一階部分は壁がなく土足のまま中庭に入れるようになっている。一階部分の渡り廊下の真ん中に大量の靴箱のある建物が設置されていた。全ての靴は初等部の子供たちみたいな小さなサイズで、どうやらこの建物は靴を履き替える必要があるらしい。
「たくさんの子供の声がする」
陽毬の言う通り、この建物からは子供達の明るい声が溢れている。それに伴いどこか食欲を誘う美味しい匂いも漂ってきた。
ああ、お腹減ってきた。こんな時に。あの人が今も助けを求めているかもしれないのに。死にたい。
「らーいおっんさんっ きりーんさんっ ばなーなさんっ るばーぶさんっ ごっまだっれさんっ あっらぃぐっまさんっ」
情緒を破壊するような甲高い子供の声、と言うよりもアニメ声の歌声が響く。いつのまにか中庭で、変な服を着た子供が小さな池の周りをけんけんぱの要領で飛び回っていた。その子の目を引くプラチナブロンドの髪は陽光に照らされてキラキラと輝き、その姿はまるで楽園で戯れる妖精のようで。
「綺麗……」
そんな言葉が思わず漏れた。
「すみませーん! ちょっと聞きたいことがあるんだけどね」
陽毬がその子に近寄る。あたしも行こうとしたけど、また足が動かなくなった。中庭はあたしが入らないことで美しいものの聖域となる。それを前にして、その美しい絵画に泥を塗ってやろうと思う人間がいるだろうか。反語。
「ケガをしたお姉ちゃんを見なかった? それと、大人の人がどこにいるかわかるかな。お姉ちゃんたちに教えてくれる?」
「きゃふふ、ふふふふふ。きゃはっ!」
女の子は何がおかしいのか人をバカにしたような笑みを浮かべ、どこかにいってしまった。
陽毬は頭にはてなを浮かべて帰ってくる。
その時ドタドタと大量の足音が聞こえ、いくばくもしないうちに何十人もの子供たちが建物から出てきた。驚くまもなく、彼女たちはあたしたちを避けて通ると靴箱に群がり、あっという間に外に行ってしまった。
「ふーちゃん、さっきの」
「うん」
少ししか見れなかったけど、あの子供達は陽の光をぼんやりと帯びていた。そして、優しく包めばボーイッシュな、簡単に言えば汚い子が多かった。
もしかしてあれが、男の子ってやつなのか。
霧雨は止み、暖かな陽が乱反射して世界を照らす。不可解な状況で、陽毬と二人。暖かな陽だまりの世界に迷い込んだ。
続く?