26 霧雨
章題変えました。
誰が最後に笑ったか→小学校の七不思議
雨が降る。湿度が音を吸う梅雨の季節。
じめじめとした空気が髪に絡む。粘着性のある糸が至る所に張り巡らされている。あたしは見ることのできないそれに引っかかって、身動きが取れなくなっていく。指、腕、足、耳、喉、目。
全部無意味になる。
学園都市を覆う結界は自然からあたしたちを守ってくれない。本当に結界が張られているのかも疑わしい。悪魔から街を守るために壁があるって言うけれど、あれは中の人間を外に出さないためにあるんだと思う。部隊に入らない限り街を囲む壁からあたしたちは抜け出せない。この狭くて臭くて息苦しい鳥籠の中で、あたしは一生を終える。
死ね。政府も馬鹿も梅雨も気圧もみんな死ね。
息苦しい。死んでしまう。このあたしが、何もできずに。
雨が、音と一緒にあたしまで洗い流す。
「ふーちゃん」
誰かがあたしを呼ぶ。水に音が吸われる中、なぜかその声はよく通った。あたしのことをふーちゃんなんて呼ぶ、甘ったれた声の持ち主なんて一人しかいない。
大和陽毬。あたしの幼馴染で、才能に溢れた若き天才ピアニスト。上品なドレスにハイヒール。いつもと違う彼女は大人びていた。
今日はこの子が出るコンクールの日だった。あたしがいる公園のすぐ近くのホールで開催されている。今も、誰かが演奏している筈だ。音は防音設備と雨に遮られて四阿まで辿り着かない。
陽毬はバサバサと雨を飛ばして傘を閉じると、ベンチに座るあたしの横に腰を下ろした。彼女の高い体温を感じられるほど距離が近い。
「久しぶりだね。前にあったのいつだっけ」
「……二ヶ月前の13日。陽毬がさみしいから会おうって」
「そうだった! やっぱりふーちゃんは頭いいね。陽毬すぐ忘れちゃうから」
陽毬は笑う。屈託のないひまわりのような、何も考えていない笑顔。イラつく。
あたしが、こんなに悩んでいるのに。
「ねえ、なんでここにいるの。もうすぐ出番なんでしょ」
「陽毬も考えたんだけどね。でもねなんか。なんだろうね、ふーちゃんを追いかけちゃった。お手洗いに行こうとした時にホールから出てくふーちゃんを見つけて。今追いかけないと、もう2度と会えなくなる気がしたから」
「意味わかんない。バカ」
「えへへ……陽毬ばかだから」
「……ばか」
本当にばかだ。あんたは、幸せでなくちゃいけないのに。あたしのせいで。嬉しくて惨めで、嫌になる。
雨足は拡大と縮小を繰り返す。ざあざあと降り注ぐ雨は次第に霧雨へと移り変わる。遠くの街の風物も、近くの色鮮やかな紫陽花も、次第にぼんやりと霞んでいく。
もうだめだ。街が白い死に覆われる。死ぬ。みんな死んでしまう。
茹だるような湿気と、底冷えするような大気の狭間で、隣には陽毬がいた。陽毬の熱だけが道しるべとなった。
陽毬は楽しそうにおしゃべりをしている。さっきから静寂が続いているのに。
会話の内容が頭に入らない。それはいつものことだった。
「学園でも、ふーちゃんはこうやって陽毬の話を聞いてくれたよね。他のみんなはうざがってたのに、ふーちゃんだけが聞いてくれた」
「そんなことない。陽毬はいつも人気者だった。たくさんの人に囲まれて、光の当たる場所にいた」
「それは、みんな陽毬のピアノ目当てなのよ! 陽毬が演奏しなきゃ離れていく人たちだから。でもふーちゃんは」
「そんなことない。みんな陽毬に憧れてる」
「だーかーらー!」
陽毬は熱弁を続ける。ピアノ目当て。才能目当て。
結構なことじゃないか。
才能のない人間には羨ましい限りなのに。なんであたしは今もこの子と一緒にいるの。
劣等感で、指先が震える。
人の心を温める太陽のようなこの子の笑顔が、あたしを焼き殺そうとする。
死んでしまう。
霧雨の上から降り注ぐ陽光は刻一刻と変化する。見え方は揺れ動き、細部は混ざる。バロック的な光と空間の歪みが渦を巻き、溶けかけのアイスクリームのような自然は人の生きる余地を残さない。
疑う余地もない、あたしは死ぬ。
…………じゃあ陽毬は。
「あれ、なんかすごい! こういう雨なんていうの!?」
陽毬はようやく周囲の変化に気がついたのだろう。あたりを見渡して、珍しいものを見た時のように目を輝かせている。
陽毬にもこう見えるってことは、あたしの頭がおかしくなったわけではない……のかな。
「じゃあなにこれ」
四阿の外の景色が印象派の描く世界みたいにかすみがかっている。ただの霧雨でこうなるものなのだろうか。
わからないけど、美しい。
資料にするためにスマホを取り出して撮影しようとするも、画面がチラついてまともに起動できない。変な電波でも飛んでるの?
「陽毬、スマホは」
「持ってないよ」
「だよね」
湿気が音を吸うと言っても、ここまで静かになるものなのか。雨が降っているにもかかわらず雨音すら曖昧になる。世界は静寂に沈みゆく。
「なんかすごいけど、なんか怖いね」
陽毬があたしの腕に絡む。ヒールのぶん、彼女の方が身長が高くなる。
「ただの自然現象だから」
本当に? 違う。死ぬ。死んでしまう。違わない。死にたくない。
ぐるぐると頭の中が揺らぐ。今のあたしは、マトモなのかな。それすらわからない。
それなのにこの子は、いつもこうやって、あたしを頼って。毎日毎日、うざい。うざかった。
それなのにこの子は。必要なくなったらバイバイなの?
あたしは一人が好きだったのに。陽毬のせいでーー
ドゴン!
と、硬い何かが四阿の屋根の上に落ちる音が響いた。静寂を切り裂く霹靂に二人揃って素っ頓狂な声をあげる。びびった。
「なな、なにごと!?」
「なにかが落ちたのかな……!」
驚愕と照れ隠しで自然と声が大きくなる。
屋根の上の何かは数秒沈黙を保っていたが、思い出したようにごとごとと転がりだすと屋根から地面にどさっと落ちた。
……それは人だった。頭から血を流し、四肢の関節がありえない方向に曲がった人体が、糸の切れた人形のように地面に転がっていた。いつもは柔らかな肉に包まれているはずの硬くて白い骨が、外に突き出ている。
本来生きて動いているはずのそれは、呆れるほど静かで。恐ろしいほど静かで。
剥き出しの死がそこにあった。
「ふーちゃん!!」
陽毬の声で我に返る。思考の渦から意識が戻った時にはすでに陽毬は死体に向けて駆けていた。
「ちょっ……陽毬!」
慌ててあたしも彼女の背中を追いかける。
「大丈夫ですか! 聞こえてますか!? わかりますか!」
陽毬は傘も刺さずに飛び出して、ドレスが汚れることも厭わずに膝をつくと、それの両肩を叩き必死に呼びかける。その段階になって初めて、あたしはそれが生きているかもしれないという可能性に思い至った。
あぁ……顔から火が出るほど恥ずかしい。厨二病みたいに死に囚われて、本来やるべきことを放棄していた。そして今も、何をしていいのか分からずに立ち尽くすこの体たらくが不甲斐ない。
「ふーちゃん! まだ生きてる! 救急車!!」
生きてるなんてやめて。あたしの惨めさが浮き彫りになる。
そんな醜い考えが渦巻く脳内を無理やり回して、陽毬の声でやっと自分がやれるやるべきことを見つけた。だけどスマホがうまく起動できない。何度電源を入れてもチカチカと無機質な光が瞬くのみで、無意味に耳に当てたり諦めてスマホを下げたりする動作を繰り返してしまう。
何度もボタンをカチカチしているうちに、画面に真っ赤でグロテスクな画像が映って「ひっ」とスマホを放り投げてしまった。
シャットダウンした真っ黒な頭で光を求めて陽毬を見ると、陽毬らしくない覚悟を決めた瞳があたしを見つめた。
「陽毬が人を呼んでくる。その間この人の事見ててくれる?」
陽毬はそう言い残すとあたしの返事も待たずに一人でホールの方へ走り出していった。
行ってしまう。彼女の背中がどんどんと遠ざかる。
「まっ、……待って! あたしも、あたしぃ、いかないで、い、いや……」
あたしはこの状況で一人、いや二人で取り残されてしまった。それなのに、伸ばした手は虚しく空を切るのみで、両足は根が生えたかのように動かなかった。
「あ゛あ゛ぁ……」
光が遠ざかる。死が、死があたしを取り囲む。フクロウと、髑髏の顔をした死神が、あたしのすぐ後ろまで迫っている。振り返れない。死ぬ。死んでしまう。死ぬのは怖い。
死にたくない。
霧雨が降る。世界が歪み。後悔だけが降り積もる。臆病者、卑怯者、自分を罵る言葉が渦を巻いて、雨に溶ける。
霧雨と涙が混ざって、よくわからなくなった。
続く?