25 自分の気持ち
消毒液の匂いが鼻に馴染む。どんな香水よりも心地良い。ここに来るたびに味わうこの別世界に入った感覚は、異界での出来事を思い出させる。
保健センターの個室には桜花が眠っていた。ボクの足音で目が覚めたようだ。力なく瞼が開く。
「憐れみに来たの」
「お見舞いに来たんだよ」
桜花の体に異常はない。ただ心に病を患っていると診断された。赤ちゃんの泣き声が幻聴として聞こえる他にもPTSDや総合失調症などの症状があり、異界という未知の部分が多い現象に巻き込まれた患者として慎重に観察するために面会謝絶にしていたと鏑木さんから聞いた。だけど今回の桜花の脱走を重く見たのか、もう逃げられないよう監視を厳重にすると共に制限付きで面会を許可してくれたのだ。
部屋の隅から椅子を持ってきてベッドの横に座る。真っ白なシーツに落ちる彼女の髪は病室の少しくらい照明に照らされて傷んで見えた。
「……今も、泣き声は聴こえるの?」
返事はない。彼女はそっぽを向いて背中を見せる。お布団を手繰り寄せて赤ちゃんみたいに手足を丸める。
「魔導協会もあの世界について調べてるんだって。最近出てきたばかりの現象で、まだわからないことが多いって聞いたよ。でもすぐに調査されると思う。だって学園都市は日本中の魔導士が集まる場所だもん。桜花の病気もきっと良くなるよ」
あの世界がなんだったのか、桜花が何に苦しめられているのかは、ここに集まる優秀な魔導士や科学者さんたちがすぐに調べてくれる。治療法や治癒術式もきっとすぐにできるはず。
「だからね、桜花にこれだけは伝えたいことがあるんだ。桜花は自分を責めていたけど、あんなのに巻き込まれてこんなことになるなんて誰にもわからなかった。だから、桜花は悪くない。絶対に」
ピクッと、桜花が反応する。
「むしろボクが責められるべきだよね。ボクがあの時あそこに逃げ込んだから、百華が呑み込まれて……。ごめん」
「今、何に対して謝った」
桜花がお布団を固く握りしめてボクを見上げる。無表情の顔から放たれる冷たく強い声がボクに刺さる。
「なにに対して謝ったの?」
「……ボクが桜花よりも百華を優先したから。だから」
「それがわかってるならなんでッ!!!」
怒声のような叫びは最後まで紡がれない。ボクが起き上がった桜花に抱きついたからだ。
「ごめん……」
耳元でそう囁く。彼女の体温からぐるぐるの心情が伝わってくる。外から切り離された部屋の中で、ボクたちは二人っきりだった。
ずっとそのままでいると、彼女の緊張もほぐれてボクは緩やかに受け入れられる。
「茜は」
朝露の雫が落ちるように、桜花が言葉をこぼす。
「茜はなんで私に構うの。嫌いだから意地悪してるの? 私のことが、嫌いだから」
「違うよ。桜花のことを、友達だと思っているから。大好きだからだよ」
「なんで」
「桜花がそうさせたんじゃん」
ボクは自分の気持ちを赤裸々に語る。
「初めて会った日。バスを降りて、試験会場に行く時。死ぬほど不安だったんだ。自分はお呼びではないんじゃないかとか、これから先やっていけるのかとか。泣きたくなるようなことも直前にあって、いろんなものに押しつぶされそうだった。でも自分で選んだ道だからって必死に虚勢を張ってたら、後ろから桜花が来て、ボクのいろんな物を吹き飛ばしてくれた。ボクを引っ張って側に居させてくれた。桜花が居場所を作ってくれたから前を向くことができた。だから、ありがとう桜花。自分の気持ちに気付くのが遅くてごめん」
ぽつぽつと口から言葉を吐き出すうちに感情が高まって、目元が焼けるような熱を持つ。自分も知らない涙が流れる。
「ごめん、ごめんなさい。……今度は桜花のこと絶対に護るから」
桜花がお布団から手を離す。ボクが桜花を離すと、外された手はボクの服の裾をちょびっと摘んだ。
「もう一度……もう一度言って」
「え?」
「私の、桜花さんのこと大好きって」
予想してなかった答えに少し戸惑うも、すぐに彼女の要望に応える。
「……大好きだよ桜花」
「もっと」
「桜花がいてくれたからボクがいる。桜花がいなかったら今頃どうなってたかわかんない」
「もっと好きって言って」
「……恥ずかしいんだけど」
「ダメ。じゃあ私の好きなところ10個言って」
「10個? えっと、ボクを救ってくれたところ。居場所をくれたところ。いつも笑顔でボクを振り回すところ。いろんなことを知ってるところ…………、怖い人にも毅然とした対応ができるところ。悪いところを指摘できるところ。それにボクを巻き込まないためにボクのスマホ自分のだって嘘ついたでしょ? そういうところ。行動力があって、かわいくておしゃれで、でも実は弱いところがあって護りたーー」
「あー、やめっ! やめて!」
火照った顔で桜花が体の前で小さく手を振る。小さくいたずら心が芽生えた。
「えーやだ。もっと言おうか? 一緒にいると温か」
「やめろー!!」
桜花は顔を布団にうずめる。それが可愛くて笑ったら、もうなんなんって桜花も笑い返した。空気が軽くなって、部屋の照明もさっきより明るくなった気がした。
「ねえ、茜?」
「なにー?」
「さっき言ったこと、嘘だったら許さないから」
彼女は満面の笑みでそう言った。その笑顔が愛おしかった。
だいたい一週間後。あれだけ厳重に監視していたくせに、退院が認められるのは早かった。通院しながら学園に通えるようになった頃には赤ちゃんの泣き声もだいぶ大人しくなっていた。
それからは桜花の一週間の遅れを取り戻すために彼女に付きっきりだった。オリエンテーションや少し進んでいた授業の内容、先生のことを教えたり、ボク自身も新しい発見に出会ったり。そして桜花と接するうちに彼女の魅力をより深く知ることができて、どんどん好きになっていった。小さくて可愛くて、元気いっぱいでボクを引っ張ってくれる。それでもふとした瞬間に弱いところが見えるから護りたくなる。彼女が泣いていると不安になって、笑っていると嬉しくなる。男としてじゃなくて、もっともっと深いところで、ボクは桜花が大好きなんだ。
摩耶と栞……百華とも、あまり話さなくなっちゃったけど、もういいんだ。
ボクは本当に大切にするべき人を知ってしまったから。
続く?