24 赤ちゃんの声
百華は詰め寄ってきた桜花を押し返す。おそらく想像していなかったであろう百華からの反撃に、桜花はたじろぎ尻餅をつく。その隙に百華はボクの腕に力強く絡みついた。百華の荒い息と、決死の覚悟がすぐ横から伝わってくる。
「なんで……? 今なんで私を押したの?」
「……まだわからないの? 私が、今までどれだけこうしたかったかッ!!」
心が張り裂けてしまいそうなほど強い声で、百華が叫んだ。
「ずっとずっとずっとずっとッ!!! 桜花の元から逃げたかった。小学校を転校したのも、一緒に帰る約束を何度も破ったのも、親と先生以外誰にも知らせずに学園都市に入ったのもっ、桜花から逃げたかったから!!
私を縛り付けてくる桜花が嫌いだったッ。桜花がやったこと、バレてないと思ってたの? 陰口も、噂も、布知奈のことも、全部知ってんだからっ!!!
これ以上私の人生に関わらせない。私の人生は私のものだから!! 私は桜花のおもちゃじゃない!!」
百華はそこまで言い切ると、肩で息をして酸素を取り込み血が上った頭を冷ます。感情の熱を冷ますための涙の跡を袖でぬぐい、真っ直ぐに桜花を見つめる。
桜花はしばらく尻餅をついた格好のまま百華を眺めていたが、すこし遅れて自分が拒絶されたことを理解したのか、まるで外敵から少しでも身を守る哀れな子供のように顔を伏せ腕で頭を覆う。隠された顔はグスグスと溢れる泣き声で簡単に想像できた。
「わ、私そんな……つもりじゃ……違うっ、違うの……泣かないで……」
細々とした声で弁明する桜花に対して、声が聞こえているのかいないのか、百華はどこかすっきりとしたような快活な笑みを浮かべる。
「アはッ! ははははッッ!!? なんだ、こんな簡単なことだったんだ。殺すとか、思い詰めてた私が馬鹿みたいっ! ねっ!」
百華はボクと腕を組んだままボクに笑いかける。今のボクはどんな顔をしているんだろう。
「桜花さんは存分に泣いてどうぞ? もう私には新しい友達がいるからっ!!」
百華は体を丸めて泣く桜花に捨て台詞を吐くと、「戻ろっ」とボクを引っ張った。
でもボクの体は動かなかった。
「……茜?」
きっと、これはボクが桜花のことを全然知らないから抱く感情なんだと思う。
「ボクはまだ二人に出会ったばっかだし、二人の間で何があったとか知らない」
「うん、でもこいつは……もしかして同情してるの? ダメ、ダメだよ。桜花は最悪の人間だよ。こいつが何してきたか教えようかっ!? 茜っ?」
ボクは前に進む。百華の腕は想像以上に力なく、するりと解けた。
「あ、茜……行っちゃダメ……なんで」
ボクは桜花の姿を自分の体で隠すように、百華の前に立ちはだかる。
「それでも、ごめん。泣いている女の子を放っては置けないんだ」
新歓祭の喧騒と、桜花の泣き声が近くと遠くで混ざり合う。
「……知らないから」
百華はそう言い残すとスタスタと一人去っていった。
彼女の姿が見えなくなるまで、後悔と罪悪感の混ざった心境が揺らぐ。
「なんで、なんでなの」
桜花がか細く言葉を紡ぐ。
「桜花が心配で、見てらんなかったから」
桜花が顔をあげる。目元は赤く腫れて、涙の跡がテカテカと目立つ。しかしその目は鋭くボクを睨んでいた。
「馬鹿にしないでよ」
「え?」
想像していなかった言葉に固まる。
「茜も思ったでしょ? このまま桜花さんが入院したまま戻って来なければいいなって。だからあんなに楽しそうにしていたんでしょ? 私を一人にしておいて」
「違うよ! そんなこと思ってない」
「じゃあなんで会いにきてくれなかったの?」
「それは……っ! 鏑木さん……大人の人に止められていたから……」
「そんなの関係ない!!!」
桜花の声に胸を刺される。感情のこもった言葉に削られる。
「どうせ私なんかいらないんでしょ! いない方がいいんでしょ!? 私がいなきゃみんな幸せだったもんね?」
「そんなわけないッ!」
「嘘つき!!!」
一瞬世界が止まった気がした。
桜花は気力が切れたのかスイッチが落ちたようにガクンと項垂れると、両手で耳を押さえる。
「あの日から、あの時からずっと聴こえるの。サイレンみたいな、黒板を引っ掻くみたいな、気持ち悪い赤ちゃんの声が。今、今も、今も聴こえてる。頭が割れそうなの。ずっと呼ばれているの。全部お前のせいだ、そこにお前の居場所はないから、早くこっちに来いって。もう、もう、もう嫌、嫌なの。つらいの。限界なの。怖い……誰か……」
「桜花……っ、大丈夫? 落ち着いて」
「お前が私を憐れまないで」
前にかざした桜花の指先から光が溢れる。光はぼんやりとしたものから徐々に光量を強め、術式の励起に失敗した時特有の嫌な感覚が、そこから何度も発せられる。
攻撃系術式を魔導具なしで励起させようとしている。そう直感できても、ボクにはもはやどうすることもできずに目を伏せ、その時が来るのを待っていた。
「危ないよ」
こんな展開二度目だなとか、そんな思考は片隅に追いやって目を開くと、桜花の手を誰かが握っている。光は消え、ほんの少しの熾もすぐに空気に溶けた。
「……誰。関係ない人が挟まらないでくれますか」
「そうは言っても、今こっちの子殺す気だったでしょ?」
桜花の手を掴んでいる人にボクは見覚えがあった。確か彼女は、あの時トイレでボクを落ち着かせてくれた人だ。綺麗な顔立ちで、妙に印象に残っていた。今は隣にもう一人背の高い大人の人を連れている。
「だから誰ですかって! 離してっ!」
「見たところ中等部に入ったばかりだし、わかんないかな? 私は中等部三年の戸川メルル、ほら、先輩にはどう接するのがいいんだっけ?」
「離せっ!」
「あれ、ほんとに知らない。りんの話だと私って有名人なんじゃなかったっけ」
「当たり前です。学園で、そして学園都市でお姉さまのことを知らない人は余程の情弱かモグリです」
りんと呼ばれた背の高い女の人は意外にもメルルをお姉さまと呼んだ。ああ見えてボクとそう歳は変わらないのだろうか。
「あなたのことなんか知らないわよ!!」
桜花は叫び、メルルを弱々しく蹴りつける。しかし桜花の足はメルルの衣服に当たる前に空中で弾かれた。なんの魔法かまるでわからない。
「いたっ!」
「わぁ、りんの話は信用できないじゃん」
「申し訳ございません。ここまで啓蒙が足らないとは……」
抵抗する桜花を無視してメルルはマイペースにりんと不思議な会話を続ける。ボクはその展開に置いてけぼりになっていた。
「いやっ! 嫌だ! 来ないで! 泣かないで、殺してごめんなさい。でも私も限界だったの。泣かないで。うるさい。ごめんなさい。仕方なかったのよぉ、だって死ぬなんて、思ってなかった。わかってたら外に出さずに相手していたから! もう泣かないで!! 気持ち悪いのぉぉぉおおおんぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
「うるさっ!?」
「きゃあ!?」
突然桜花は見えない誰かに向かって謝り始め、そして頭が割れるような泣き声を上げる。桜花は肺の中にある空気を限界まで使い叫んで、そしてガクッと倒れてしまった。ボクは慌てて桜花に駆け寄るが、息をしていることを確認して安心する。
「……なんなんですかこの子どもは」
「精神病かなぁ。ねえ、君」
メルルは初めてボクに目をくれる。そこでボクの顔を見て、何かに気付いたように眉を顰めた。
「あれ? 前にも会ったっけ」
「あ、あの……一度公衆トイレで」
「あー、あの時の子か」
「あの時?」
「ほら、りんがどうしても出なきゃならない実習行ってた日あったでしょ。あの時にこの子ふらふらしてたから抗不安術式打ったの」
「まあ、人助けですか。さすがお姉さまです」
「うん。それで、君はこの子のなんなの?」
「友達です」
いきなりかけられた質問に戸惑うよりも、自分がスッと友達だと答えたことに驚いた。
友達……、ボクはそう思っていたのか。
「友達ねえ……」
メルルは怪訝そうにボクと倒れた桜花の顔を見比べる。その時バタバタとこちらに近づく多くの足音が聞こえた。
「風紀委員です。……喧嘩という話でしたが、どうやら違うようですね。戸川メルルに餅伽りん。今すぐその二人から離れなさい」
腕に腕章をつけた風紀委員たちが杖を構えながらそう命じる。
「その対応はちょっと傷つくけど、ちょうどいいや。後は風紀に任せたからね」
メルルは後ろ足で軽く地面を蹴って、メルルとりんが入れるだけのマゼンダのサークルを作ると、どこからか細長いカードのような、確か赤札という名称の魔導具を取り出してサークルの中に落とした。
赤い熾の光が発せられると同時に、二人の姿は瞬時にして掻き消える。たぶん、転移の魔法だ。かなり難しい術式で、実際に発動する瞬間を見るのは初めてだった。
二人が消えてから風紀委員たちがボクたちにかけつける。
「君たち、何か変なことをされなかったか?」
「こっちの気絶してる子の服、もしかして保健センターから抜け出してきたの?」
「まったくもう、どうして今日に限ってG級どもが活発なんですか! 手が回りませんよ!」
慌ただしくいろんな人がやってくる。まるであの異界から戻ってきた時みたいに。桜花とボクは保健センターに車で運ばれることになった。
「あの、さっきの人たちは」
「知らないのか? あ、新入生か。なら気をつけてね。さっきの二人組、背の高い方は餅伽りんで高くない方は戸川メルルっていうんだけどさ。餅伽は最近戸川と連むようになった戸川の狂信者なだけだけど、戸川メルルは何度も暴力沙汰を起こしてて、初等部の時に人を殺したことがあるって噂だから」
車に乗り込む前に風紀委員の人がサラッとこぼしたあの二人のこと。メルルの言葉と、百華の言葉と、桜花の言葉が、何度も頭と胸を掻き撫でた。
ボクは何かを間違えちゃったのかもしれない。
「ごめんなさい」
そんな言葉が口から溢れた。
続く?