21 異界
「早いけど、ホテルに戻ろっか。まだあの人たちがどこかにいるかもしれないし」
ボクは桜花の頭を撫でてそう言った。桜花も軽く頷く。
「ところで、あれなんだと思う?」
唐突に百華がボクに向かってそう尋ねる。
「あれ?」
「ほら、奥にあるやつ」
百華の指は路地裏のさらに奥、薄暗い細道を指しており、そこに宙に浮かぶ黒雲のようなものが漂っていた。うまく立体感を掴めないそれはゆっくりと歪みながら回転しているようだった。
「なにあれ、いつからあったの」
「いつのまにかあった。最初はなかったんだけど」
百華はスタスタと黒雲に近づき、そして黒雲に吸い込まれるように消えた。
ボクと桜花はその光景を、何もできずに見つめていた。
「……え、百華? 百華!?」
数秒の呆然から回復して、ボクは慌てて黒雲に近づく。しかし桜花が腰に腕を回して妨害する。
「桜花っ!? やめて!」
「やだっ! 茜は行っちゃだめ。私を置いていかないで」
ボクの視線は桜花と黒雲を行き来し彷徨う。黒雲は次第に小さくなっているように感じた。
「でも百華がっ!!」
「百華よりも茜の方がいいっ!!」
一瞬、頭が真っ白になった。でも今は1秒が惜しいから、考える間もなく体が動く。
「ごめんなさい」
ボクは桜花の手の甲を叩く。握力が緩んだ隙に桜花の元から抜け出すと、黒雲の元へ駆け出した。
「待ってっ!」
後ろから桜花が追いかけてくる。ボクは満足に思考もできないまま、もうだいぶ縮んでしまった黒雲に指先で触れた。
ガバッと体を起こす。どうやらボクは気絶していたようだ。路地裏に仰向けに倒れていた。隣には桜花も倒れていた。揺すってみても目を覚さない。
薄暗い路地裏は日の光も差し込まず、ゴミと埃で汚れている。立ち上がって服を払ったところで、大通りから誰かが近づいてきた。
「茜……茜もきたんだ」
「百華っ!!」
百華は特に怪我をした様子もなく、しかし緊張を隠しきれていない面持ちで現れた。
「よかった! 無事? 怪我してない?」
「無事だけど、桜花は?」
「眠ってる。目を覚さなくて」
「じゃあすぐ起きるしれないのね。場所を変えましょう」
「え、待ってよ」
百華はスタスタと早足で大通りに進む。ボクは桜花を気がかりに思いながらも百華について行った。
あれだけ多くの人がいた大通りには誰もいなかった。街の咽せそうな臭いも消えてなくなって、まるで全ての人がいなくなってしまったみたいだ。たまに男の人をモチーフにしたボクの背よりも高い銅像が道路や広場などいろんなところに数多く設置されていた。これはさっきまでなかったはずだ。
早足で歩く百華に追いつき、路地裏からだいぶ離れた地点でボクは百華に話しかける。
「ねえ、ここはどこなの?」
「わからない。高度な術式の亜空間かもしれないし位相空間に迷い込んだのかもしれない。結界に閉じ込められたのかも夢を見ているのかもしれない」
百華は立ち止まりボクを振り返る。その瞳には確かな熱が籠っていた。
「ねえ、茜」
「なに……?」
「一緒に、桜花を殺さない?」
風も吹いていないのに、嫌な空気が頬を撫でた。
いつのまにか自分の立っている地面が底なし沼になってしまったかのような、不安定な感覚。
「お願い。桜花を殺すのを手伝って」
ボクは何も言えなくなってしまった。
「……ごめんなさい」
決死の想いで、口から声を絞り出す。本当に何かを言わないと殺されそうな気がした。
「そう」
百華は顔を伏せる。その声が可哀想に聞こえてならなかった。
「どうして……、どうしてボクに言ったの?」
「え?」
「ボクが、桜花に言っちゃうかもよ。その……殺す……とか」
「そこは大丈夫よ。だって茜は正義のために行動できる人だから」
百華はボクの目を見つめる。彼女の瞳に曇りはなく、純粋なガラスのように透き通って見えた。
「茜ー!! 百華ー!!?」
遠くから桜花の声が響いてくる。この世界は静かだから、離れているはずの呼び声もよく通った。
「桜花も起きちゃった。……今は殺さない。でも気が変わったらお願い。桜花にバレないように教えて。……私はおかしくない。あいつは死んだほうがいい人間だから」
「待って!」
ボクは桜花の元に向かっていた百華を呼び止める。
「気が変わった?」
「ううん。でも、言っておきたいことがあって」
百華の視線で身がすくむ。だけど必死に言葉を出した。
「たとえ、たとえどんな理由があったとしても、人が人を殺していいわけない、と思う。ボクはっ! ……そう思うってだけです」
「……そう」
桜花は冷たい目をボクに向けた。
「もうっ! 桜花さんを置いていかないでよ! 今回ばかりは本気で怒ってるからね!!」
「ごめん桜花! ボク頭が真っ白になっちゃって」
「私が最初に吸い込まれたからよね。触らなきゃよかった」
ボクたちはさっきまで目の前の人物を殺す殺さないと話していたことが嘘みたいに平然を装って桜花と接した。
「もー! 二人とも桜花ポイントマイナス10点だからね!」
「桜花ポイント?」
「桜花さんを喜ばせたら増えて怒らせたら減るポイント! 茜は私の手を殴ったから追加でマイナス30点だから!! マイナス100点で土下座だからっ!!」
桜花は本気で怒っているようだ。ボクは頭に血が上った桜花を宥めるのに苦心した。実際ボクも冷静じゃなかったから反省している。
「で、なんか街がおかしくなってるんだけど、どういうこと?」
「わかんない。私が起きたときからこうなってたから」
桜花は街を見渡し、近くにあった銅像に触れる。
「これ男かな」
「男性器があるし髭もあるし、そうだと思う」
銅像は全裸の男で、一つ一つ個性がある。目につく範囲で女性の銅像はいない。ちんこ丸出しなのでボクは目のやり場に困っていたが、二人は特に気にしていないようだ。元々の世界にはなかった唯一の要素なだけにボクたちは銅像を調べることにした。
銅像は大体30メートルほどの間隔で点在していた。しかし密集しているところもあれば全くないところもあり、そう一概には言い切れない。
「どうする? 壊してみる?」
「茜に壊せるの?」
「いけると思う」
ボクは烈断術式を励起させて、触れた銅像を横に斬る。銅像は特に抵抗することもなく二つに分かれ、切り離された部分がずれて下に落ちた。大きな音がして地面に倒れ、中の空洞が覗き見える。
「茜でもそんなことできるんだね」
「お師匠さまからはダメ出しされたけどね。術式が綺麗じゃないって」
「へぇ」
落ちた銅像を調べても、特に変わったところはない。そのままいくつかの銅像を調べていたところで、ある銅像の裏に全裸の赤ちゃんを見つけた。女の子の赤ちゃんだ。
「赤ちゃん?」
ボクは指で赤ちゃんのお腹に触れる。熱いほど暖かくて、心臓が動いていた。手に指を持っていくと、反射的に握り締められる。
「かわいい」
赤ちゃんを抱き上げて二人の元に向かう。二人も赤ちゃんがいたことに驚いていた。
「なんでこんなところに赤ちゃんがいるの?」
「わかんないけど、私たちと同じで迷い込んだんじゃ」
「一人で? そんなわけないでしょ」
「でもあの黒い雲がなんだったのかわかんないわけだし」
「ともかく、早くお母さんの元に返してあげなきゃ!」
その声に起きてしまったのかもしれない。突然赤ちゃんが泣き出す。
「おぎゃああああああああああ!!!!」
その泣き声は衝撃波のように重い衝撃を持って頭に届くと。頭蓋骨の中で音が乱反射してガンガン響く。クラクラして考えが霧散する。ボクは慌てて体を揺らしあやして泣き止まそうとしたが、泣き止まない。
「……頭が痛い」
「うるさい! 茜早くっ!」
「やってるけどっ、全然」
ボクの腕の中で赤ちゃんは暴れる。思ったよりも力が強く、落としそうになって思わずしゃがみこんだ。
音響兵器のような泣き声を真近で浴びせられていると、脳細胞が一つ一つ潰されるような不快な感覚に襲われる。絵本で知ったマンドラゴラを引き抜いたときの鳴き声のような、一刻も早く泣き止ませなければ命に関わるものだと直感で理解できた。
「なに、なんなの、トイレ……じゃなさそうだけどおっぱいは無理だし。ああもう君のお母さんはいないんだよ」
なんて言っても赤ちゃんはわかってくれない。
「貸してっ!!」
桜花が赤ちゃんを引ったくるように奪うと、口を手で押さえつける。やっと赤ちゃんの泣き声が途切れた。霧散していた思考が再び纏まって、桜花が今とんでもないことをしていると判断できた。
「何やってんの! 死んじゃう!」
「こんな普通の赤ちゃんじゃないって! ずっと聞いてたらこっちが死んじゃう!」
「でも死んじゃうからっ!!」
「はぁ!? 茜はこれと私の命どっちが大せっ……」
話している途中で、桜花の言葉が歪む。言葉だけじゃない、顔も髪も体も、全てが渦を巻いて歪み出す。
「桜花っ!?」
桜花に伸ばしたボクの腕も渦に巻き込まれる。瞬きのうちに引き伸ばされ、黒の中に飛び込まされる。
海の中に引き摺り込まれるように、下に沈んでしまう。
ガバッと体を起こす。周囲がざわざわと騒がしい。多くの人が大通りを行き交い、ボクたちを見つめていた。ボクの周りには倒れた桜花と頭を抱えながらボクと同じように起き上がる百華がいて、周りの人たちはボクたちから数メートル距離を空けていた。
帰ってきた。そう感じ取れた。
「茜。今日はもうホテルに帰りましょう」
百華は立ち上がり、裾を払いながらそう言った。ボクはそれに同意した。
続く?