17 処女と妄想
いつのまにか草原には俺と父しかいなかった。煙は相変わらず美味しくて、月は相変わらず冷たい笑顔で見つめてくる。
「……お前が、俺の父親?」
背の低い男だ。男という生き物は写真で何人か見たことあるけど、いずれも女より大きかった。でも目の前の父親を名乗る男は俺と同じかちょっと大きいぐらいの身長しかない。
太い眉と、大きな口。全体的に見れば確かに可愛らしいと言えなくもないが、よくわからない。でも俺の顔は母親の遺伝子が強く現れた結果だということは分かった。眉と目元ぐらいしかあまり似ていない。
「そうだよ。鴨丸、ずっと会いたかった」
父は両手を広げて近づく。俺は何もできずに、ただ抱きしめられた。父の胸の中で顔を見上げる。優しい目が、俺を見下ろす。
「愛おしいぼくの娘。鴨丸。大好きだよ」
父が俺の頭を撫でる。それが限界だった。
俺は大声で泣き出していた。わんわんと声をあげて、奇声を叫んで、喉が潰れるまで泣いた。
父は俺を優しく撫でてくれた。背中を優しくさすってくれた。俺を気遣って、俺を求めてくれた。大好きだと言ってくれた。
ダムが決壊するように、落ちたガラスが割れるように、俺は父の胸の中で泣いた。
ずっと泣いていた。それでもいつか泣き止む時が来る。
いつのまにか小さな狭い部屋に俺たちはいた。大きな窓から外の草原が見える。
「お父さん、お願いがあるんだけど」
「なんだい? なんでも言ってごらん」
柔和に微笑む父に向かって、背中に腕を回して囁く。
「やろうよ」
父を軽く押すと、彼は抵抗せずに床に倒れた。その顔には変わらない笑みが貼り付けられている。
窓の外の夜空には、星と月と太陽が並んで俺を見つめている。
見てろよお前ら。見せてやる。
バスローブを脱ぐ。暗闇の中で、布擦れの音がやけに大きい。
星明かりに映された俺の裸はお世辞にも綺麗とは言えない。皮膚には歪な赤い発疹が浮かび出て、掻いたら更にひどくなった。胸は膨らまないし、体は丸みを帯びない。初経は来なかった。体は子供のまま歳をとってしまった。
「なぁ、男は女の裸に興奮するんだろ?」
父は俺の腕を引っ張り、お互いの上下が逆転する。背中に硬くて冷たい床の感触がある。その時に頭をぶつけないように手を添えられて、ドキドキした。
父はなにも言わない。ただその目の優しさの中に加害的なニュアンスが含まれ始める。
メルル、ねえメルル。お前は今どこにいるんだ。
中等部初めての夏、図書館で出会ったのは運命だった。お前に本を探しているって言われて、それがたまたま悪魔襲来以前の旧世紀に関する本で。歴史が好きだった俺はテンションが上がって、ついうっかり自分のことを俺って言っちゃって。
なのにメルルは肯定してくれて。優しい言葉をかけてくれて。そんなこと言われたの初めてだったから、泣いちゃって。死ぬほど心配してくれたよな。メルルの方が年下だったのにカッコ悪いところ見せちゃったよな。
それから学園の外に遊びに連れて行ってくれるようになった。原付もその時に買ったんだ。授業中に抜け出して原付に二人乗りして。ゲームセンターで遊んだり一緒に知らないカフェに入ってみたりして。思い切ってツインテールにしちゃったり。本当に楽しかった。
母と決別できたのも、メルルがそうした方がいいって後押ししてくれたから。一緒に住もうって言ってくれたから家を出ることができたんだよ。
館長から「明日から来なくていいよ」ってクビを宣言された時も、俺メルルがいてくれたなら全然気にならなかったんだよ。
なんでいなくなっちゃったんだよ。急にいなくなるなよ。見捨てないでよ。ふざけんな。
助けてよ。怖い。一人は嫌なんだ。さみしい。置いていくなよ。
メルル……
熱が離れる。違う、誰かによって引き剥がされる。
「鴨丸ッ!! 大丈夫ッ!?」
近くに黒野の顔があった。血相を変えて俺の体を見る。
白い煙の中に赤い魔力の熾が混ざる。なんらかの術式が励起されたのだ。少し離れた場所に、父だったものが倒れていた。
それは渦を巻いて消失し、代わりにあの黒い渦が出現する。
そんなことより、床に赤い血が流れていた。父のものと混ざっていたけど、一部は俺から流れている。
破瓜の血だ。俺はそれを触る。熱くて、手が汚れる。
窓の外の星々が俺を見下ろす。感情を感じさせない光で。俺は奴らに向かって汚れた手を見せびらかした。
「見ろよお前ら。神聖な血だ。ここで最も価値のあるものだッ! 俺は女だ。いっぱしの女だ! もう誰にも文句は言わせないぞ。残念だったな、お前らの護っていたものはもうないぞ!」
星はなにも言わない。ただ光を届けるだけ。
「ごめんね。一人にしてごめんね。守ってあげられなくてごめんね。そばにいられなくてごめんね。私、ずっと変な夢を見てて。違う、違うの。そうじゃなくて、ごめんなさい……ごめんなさい……」
黒野はなぜかごめんなさいを繰り返す。俺は黒野の背中を血で汚れてない手で撫でて宥める。それでも黒野は泣き止まない。
黒野は血で汚れた方の手を両手で掴むと、おでこから頭を押し付けてくる。
「ごめんね、私ずっと見てたのに。知ってたのに。私に勇気がなかったから。知っていたのに」
「黒野……?」
「逃げられなかったんでしょう? ごめんね、助けてあげられなくて。私は怖くて、あなたから逃げ出した。後悔してた。ごめんなさい。あなたは女の子でいいんだからっ。そのままのあなたでいいんだからっ!
あなたが不幸なのは、全部私のせいだから」
黒野は何度もごめんなさいを繰り返す。私に抱きついて、背中を撫で、涙を滝のようにこぼしながら、ごめんなさいごめんなさいと。
なんで。やめてよ。俺が惨めみたいだろうが。
俺は必死に腕を伸ばす。あの黒い渦へ。そこが、この夢を終わらせる出口だと本能で理解していた。
渦に指先が吸い込まれる。そこから腕へ、全身へ、捩れる感覚が伝わり黒野ごと巻き込まれる。
「久しぶり。鴨丸」
「あっ……メルルぅ!」
眩しい太陽が降り注ぐ。生命が喜び祝福を受ける夏の日だった。久しぶりに会うメルルはあの時から全然変わらずに俺の前に立っている。
名前を呼ばれただけで嬉しくなる。声が上擦ったのが恥ずかしい。やっぱりこいつ、ずるいやつだ。
「ほら、口開けて?」
あーんとメルルが言うから、俺は口を開いた。そこにメルルの指が忍び込む。舌圧子されている時みたいな感覚。でもメルルの指の方が何万倍もドキドキする。
「……舌ピつけるって言ってたのにつけてないじゃん」
「え、あっ……ごめっ……」
俺も忘れていた口約束、覚えていてくれたんだ。
「いいよ。だって私、そのままの鴨丸が大好きだから」
メルルはそう言って俺を抱きしめる。
「あっ……メルル……」
ベッドの上に押し倒される。メルルが優しく俺を見つめる。メルルが俺を求めている。
何か言おうとした口をメルルの口で塞がれた。
……でもこれって全部俺の妄想じゃない?
いつのまにか黒野の家に帰ってきていた。さっきまでいた部屋に似ている。一瞬、全部夢だったんだと納得しかけたけど、ジンジン痛い股座から止まらずに流れ続ける破瓜の血が現実だったと囁く。
隣には黒野が倒れている。まだ目を覚ませていない。
「俺はメルルとセックスしたい」
自分の口で言葉にして、俺は初めて自分の欲望に気づいた。一目惚れだったことにようやく気づいた。きっと果たされることのない欲望。そんなの虚しいだけなのに。
黒野を起こさないように起き上がり、電子タバコを持って窓を開けた。
煙を吸うと全てが蠢き、命を持つ。暗い世界の天上で星たちは自由気ままにダンスを始める。キラキラと瞬く光が地上に降り注ぐ。
その世界の隅っこの、小さな穴蔵の中で、俺は震えて息を潜める。朝を待つ小動物のように。星を見上げて孤独を紛らわす。
ゆらゆら揺れる世界でも、星は変わらずに祝福を与えていた。
続く?