15 離さないで
ああ……
ダメだ。やってしまった。
俺は今、地面に仰向けに倒れていた。硬いアスファルトが背中に押しつけられる。太陽が高いところから俺を心配そうに見つめる。
信号のない十字交差点。俺の他には誰もいない。さっきまでいた猫もすぐにどこかに逃げてしまった。少し離れた場所にはついさっきまで乗っていた原付がガードレールにぶつかって倒れている。生きているのか死んでいるのかは定かではない。
事故った。
昨日の夜は雨が降っていたから、道路が濡れていて滑りやすかった。いつもよりも少しやんちゃな運転をしていた。よそ見をしてしまったかもしれない。
交差点に差し掛かったところで、目の前に黒猫が飛び出してきた。なんとか避けようとしてバランスを崩し、俺は地面に投げ出された。
何キロぐらい出ていただろう。かなり強い力に襲われた。俺が今も無傷でいられるのは術式が正しく働いてくれたおかげだろう。
そこまで考えて、俺は自分が生きていてよかったと思っていることに気づいた。浅ましい。愚かしい。そこまでして命が惜しいか。
お前は何やってもダメだな。
怪我はないのに立ち上がれない。太陽に照らされているのに、どうしてか生きる気力が湧いてこない。指がピクリとも動かせないのに、涙だけがいくらでも湧いてくる。こめかみを伝って地面に落ちる。
サンサンと降り注ぐ日光が身体中の水分を奪う。だというのに涙は俺を地面に縫い付けて離さなかった。
いつの間にか気を失っていた。昨日あれだけ寝たのに、寝足りなかったのか。瞼越しの光が微睡むうつつの中に差し込む。
「にゃ〜」
近くで猫の声がする。あの黒猫かな。責任を感じて現場に戻ってくれたんだ。
薄く瞼を開くと、そこは道路ではなかった。天井がある。太陽だと思っていた光は部屋の照明だった。
「にゃんこ……」
猫を求めて起き上がると、黒猫は俊敏な動きで俺の元から離れて行ってしまう。走る猫は誰かの足元に隠れて、その誰かに抱き抱えられる。足をたどって視線を上げると、予想していなかった人の顔があった。
「おはよう池田さん」
「……なんで黒野が」
「なんでって、道の真ん中で倒れてたあなたを助けてあげたのよ? 覚えてない? あなた、バイクで転んで気絶していたのだけど」
黒野環奈。風紀委員の人間で俺との相性は最悪。こいつの言動はどうしてかいちいち癇に障る。
「……ここお前の家か?」
俺は自分のいる場所を見渡す。ガーリーで可愛らしい部屋だ。アロマが焚かれていてなんかいい匂いがする。その中のフリルとクッション多めのベッドに俺は寝かされていた。ウインドブレイカーを剥がされてインナーが露わになっている。
「そうよ。あなた病院嫌いそうだったから」
「なんでだよ」
「嫌いじゃないの?」
「そうじゃない。なんで俺を連れ込んだんだ」
俺は黒野を睨みつける。
こいつ目的がわからない。俺なら嫌いな人間が道で倒れていたら無視する。きっとみんなもそうだろう。それとも、そうじゃないのか? 俺が間違っているのか?
黒野はおもむろに猫をベッドの上に置く。布団越しに猫の体重がかかる。
そしてポケットからキャンディーのケースを取り出すと一つだけ手のひらに出して口に入れる。
「レスキューレメディ、いる?」
「いらん」
「そう」
そして沈黙が訪れる。黒野がこっちをじっとみてガンを飛ばしてくるから俺も負けじと睨み返す。
「にゃ〜」
重い空気に猫が割り込む。肉球を俺のほっぺに押しつけてくる。ずいぶんと人懐っこい。
「エドワード」
「何?」
「その子、エドワードっていうの」
「ああそう」
俺はエドワードの鼻先に指を持っていく。興味津々で嗅いでくるので、そのまま指で頭を撫でる。目が細まり気持ちよさそうにしてくれる。かわいい。
「エドワードがなに猫かわかる?」
「なんだよ」
「こっちが質問しているのだけど?」
「ああもう」
エドワードの顔を見る。撫でるのをやめたので見開かれた宝石のような緑の目が俺を見つめ返した。立派なお髭にハートの形に似た顔。筋肉質な体にシルバーブルーの輝く毛並みが映えている。
「……コラットか?」
「正解、よくわかったわね」
黒野は横からエドワードを撫で始める。エドワードも俺が撫でていた時よりも気持ちよさそうにしてかわいい声を漏らしていた。黒野が撫でるのを止めると名残惜しそうに手に頭を擦り付けている。
「で、だからなに? 俺にペットの自慢をしたかったの? それとも、まさか俺と楽しくおしゃべりしたくてここに連れてきたんじゃないよなあ」
黒野はエドワードを床に下ろして、ベッドの端に腰を下ろす。
「だったら、ダメ?」
彼女はこっちを見ずに、少し頬を赤らめながらそう言った。
「だめ、じゃない、けど……」
予想外の答えにたじろぐ。
「そう、ならよかった」
黒野が俺を見る。いつもの仏頂面じゃない、不器用なはにかみ。
不意を突かれた。
「はぁ!? だって、え? お前は、俺のこと嫌いじゃなかったのかよっ!」
胸が早鐘を打つ。だって俺と黒野は犬猿の仲で、お互いにお互いが大嫌いだって思ってた。
「嫌いじゃないよ。私は風紀委員の仕事をしていただけ。ずっとあなたのこと気になってた」
「だってっ! だったらなんで俺の邪魔ばっかりッ! 一昨日だって!」
「だって見てらんないんだもんッ!!!」
強引に迫られてベッドに押し倒される。柔らかい体が当たった。
「ずっと気になってた! あなたのこと、ハラハラしてた! 危なっかしくて、周りの人に誤解されてっ。ちゃんとご飯食べてるかな。一人で寂しくて泣いてないかなって、心配だったっ!」
「じゃあ、じゃあなんで俺のこと助けてくれなかったんだよっ」
黒野が真剣にそんなこと言うから、俺の心が揺り動かされる。なんだかよくわかんない感情が涙となって溢れ出る。たぶんアロマのせいだ。感情が大きく渦を巻く。
「ずっと寂しかったよ! 誰も理解してくれないから! 気になってたならなんで手を差し伸べてくれなかったんだよっ!」
「だって私は、風紀委員だもん! 風紀委員は平等で公平なサンクションを与えなきゃいけないんだもん! じゃなきゃ一人一人の連帯が解けて学園都市という社会を維持できない……」
「俺はそんな理屈の話はしてないっ!! 俺は、ずっと、助けて欲しかった! 俺はっ……」
言っている途中で、声が出なくなる。涙がボロボロとまろび出て服の上に延々としみを作る。抑えようとしても、止まらない。目がじんじんと痛くて、頭が熱くなって、もうなにも考えられない。
黒野が俺を抱きしめる。慰めるように、落ち着かせるように。柔らかくて暖かい腕の中に、俺の魂が沈んでいく。
「ごめんなさい。もう大丈夫だから。もうあなたから逃げないから」
怖い夢を見た子供が、母親に抱きついて泣くように。暗闇の大地でようやく見つけた狭い場所に潜り込む小動物のように。
俺は黒野に抱きしめられて泣いた。
それから何時間経ったかわかんない。最後の方には涙の跡が乾いて痛かった。けど、一生分の涙を流して心は自然と落ち着いていた。
いつのまにか照明の落ちた部屋で、俺は黒野と一緒にベッドに寝転がっていた。星の光もないのに、不思議な高揚感と安心感に包まれて、俺は聞かれてもいない話をぽつりぽつりと語り出していた。
「俺の母親は愚かだった。たぶん世界で一番愚かな女だ。惚れた男娼の名前を子供につけるぐらい愚かだった。
たぶん、俺をその男の代わりにしようとしたんだと思う。馬鹿みたいだろ。どっちが母親かわかんないようなことをしてた。
中一の夏まであの人のいる家にいた。母親のせいで人生を呪われた」
黒野は静かに俺の話を聞いてくれた。時々相槌を打って、優しく撫でてくれる。
「パパの話とかも、よくしてくれた。俺みたいに背が小さくてかわいいんだって。辛いことがあっても鴨丸がいいこいいこって慰めてくれたって。……背の低さは遺伝されたのに可愛さは遺伝されなかったところを見るに、顔も言うほどじゃなかったんじゃないか。あの人は感性がおかしいから。
自己肯定感の低さからそういうお店に入り浸って。かと言って身を引き取るお金も根性も甲斐性もなくて。
俺を妊娠しても誰にも打ち明けずに一人で産んだって。妊娠したことがバレたらパパが悪い人に殴られるからって。まるで美談みたいに言ってた。
馬鹿じゃないか。なんで産んだんだ。お店に文句を言って慰謝料をふんだくればよかったんだ。そうでなくても、今どき中絶は母体になってる人間の意志だけで決定できるんだから。馬鹿だろう。本質的に愚かなんだよあの人は。俺そっくりだ。
下ろせばよかったんだ。あんな人間の劣悪遺伝子なんて後世に残すべきじゃなかったんだ。無能なブスが子供を産んじゃいけなかったのに。自分のことを客観視できないせいで、ほんとに愚かだ。あんな愚かな人間がいるから社会が疲弊する。産まれた子供が苦労する羽目になるんだ。
天国にいた時は純粋で無垢だったのに、魂がハズレの肉体に当てはめられたせいで、心が歪んじゃった。社会があの女にできることは、生殖機能をなくして新たな被害者が生まれることを阻止することだろう。それこそ適切なサンクションだろうが。ああ、あ゛ぁ……」
口から黒いモヤが吐き出される。今まで内部に溜まった煤を掻き出すように。香織にすら言えなかった汚れが曝け出される。
恐れはなかった。俺は一人じゃないから。ずっとそばに黒野がいてくれる。優しいし、俺を認めてくれる。
「メルルもいけないんだ。俺のこと好きって言っておいて勝手にいなくなって」
「メルルって、戸川メルルのこと?」
久しぶりに黒野が口を開く。それが俺ではなくメルルの話題だったことに軽く憤りを覚える。
「そうだよ。あたっ……、なんで知ってるの?」
「知っているわよ。いろんな事件に関わっている有力容疑者なのに親が魔女だから握りつぶされてる。許し難い悪党よ」
「メルルは違う。優しかったし純粋だった」
そこまで口に出しておいて、自分がなんでメルルを庇っているのかわからなかった。
たしかにあいつは可愛くて、優しくて、背も高くて、俺を救ってくれた。学校を抜け出して一緒に遊ぶようになった。ツインテールをかわいいって言ってくれた。でも、ある日から姿を見せてくれなくなった。
なんで俺は、そんな奴のこと。こんなに執着している。
黒野は俺の頭を優しく包む。髪の結び目が解けていく。
「大丈夫。私がそばにいるから」
ずっとメルルに言われたかった言葉が胸に浸透する。
「……もう、絶対に離さないで」
俺は黒野にしがみついて、もう一度静かに泣いた。
続く?