11 胞子の世界
虫が出てきます
「すごいっ! すごいっ!! 胞子の海だっ!! 維管束植物じゃなくてコケ植物が文明を征服したんだ!!!」
ねるちゃは舞い踊るようにコケの上でくるくるとステップを踏む。
「おっきなゼニゴケっヒメナギゴケ! ジャゴケにギンゴケ、ホソウリゴケっ!! あの細長くて先っちょが赤いきのこはベニカノアシタケかな!? よくわかんないやつもたくさんいるっ! なんか全体的におっきいっ! 宙に浮いてるふわふわは何っ!?? なになに!? なんなの!?? 天国なの!?? ここがほんとの楽園なの〜!!??」
ねるちゃはコケの絨毯にダイブする。びちゃっといういやな音がしたが、彼女は気にしていないようだった。服や髪が泥で汚れることも気にせずに一人この世界に浸っていた。
「ねるちゃさんっ! 俺たちどうなっちゃったんですか!? 異界ってなんすか?!」
俺は倒れるねるちゃを起こして肩をゆすり頭を揺らすがねるちゃの熱を帯びた視線はコケに注がれている。
「みて〜、真っ赤な幼虫、コケの下にいた〜!」
ねるちゃはコケの下から何かを摘んで手のひらに転がすと俺に見せつけた。赤い芋虫が丸まってうぞうぞと動いている。俺は軽い悲鳴をあげて飛び上がる。
「虫はっ! 虫はやめてください!!」
「形はシリブトガガンボの幼虫に似てるけど、なんにゃろ〜? あっ、このちっちぁいのはベニイモトビムシっ、真っ赤でかわいいねぇ〜! こっちはスジベニコケガ!?? かわいい〜!! あそこでコケのさくに登っているのは赤い蟻ちゃん!? わかんないもっとよくお顔見せて〜っ!!」
「ねるちゃさん本当にやめてくださいっ!!」
俺はねるちゃを後ろから羽交い締めにする。尋常じゃない力で振り回されるし泥のついた髪の毛が頬に当たって痛い。それでもこのままねるちゃを自由にさせたら一生ここで過ごすはめになる気がしたのだ。
「やめろ〜!! ねるちゃは植物と虫に食べられて死ぬの〜!!」
「そんな死に方いやですって!!!」
数分間しがみついていると、流石に疲れたのかねるちゃが肩で息をしながら止まってくれた。俺は息絶え絶えになってその場にへたり込む。
二人の荒い息が続く。
「メルルさんと、約束したんっすよね。なら、異界か何か知りませんけど、いつまでもここにいるわけには行けないっしょ」
「……そうだね、約束は守らなきゃ」
ねるちゃはフラフラとした足取りで元々いたビルに戻る。俺は不安に思いながら後を追った。
コケに覆われたエントランスの床に二人して座る。泥まみれだったねるちゃはいつのまにか元の綺麗な状態に戻っている。ねるちゃを止める時に俺の服についた泥も綺麗に落ちていた。
「ごめんね。洗っておいたから」
「あ、あざっす」
魔法を使われたことに気付かなかったことよりも、ねるちゃが素直に謝ってきたことに驚いて挙動不審になる。
「学園都市は魔導協会の方針で虫が絶滅してるから、ついはしゃいじゃった」
「え? 虫いないんすか?」
「うん」
確かに飛雄院で生活していた時も虫は見たことがない。
「それは、……虫好きの人には辛そうっすね」
「は?」
気を遣って言葉を選んだらキレられた。
「いいところだよここは。本当に天国に見えるぐらい」
ねるちゃは何事もなかったかのようにガラスのない窓から外を見る。ビル前の小さな道路は日が差して緑を明るく浮かばせる。
「そうっすか」
俺はなんと言っていいのか分からずにそう返した。
「異界っていうのは最近流行りの謎現象のことだよ〜」
俺はねるちゃから異界についての説明を受けていた。発生条件不明の黒い渦に触れると奇妙な世界に飛ばされる。そこには変わり果てた学園都市、もしくはよく似せられた街がある。異界に侵入した後数十分経過した時に接触しようとしてくる大型の生物を倒す(殺さずとも動きを封じたりすれば倒した判定になる)とその生物が消えて行きとは逆方向に回る黒い渦が出現し、それに触れることで帰ることができる。
ずいぶんルールが知れ渡っているんだなと思ったら結構異界に行っている人がいるかららしい。
「なんかゲームみたいですね」
「ねるちゃの友達の惟神ってやつは悪魔の仕業だって嘯いてたな〜にゃん」
この女に友達がいるのかと疑問に思ったが、触れたら怖いのでスルーしておいた。
「ここにきてから絶対10分は経ってますし、もういつ生物が接触しようとしてきてもおかしくないってことっすか?」
「そうなるねっ。いや〜楽しみだけど楽しみじゃない。にゃあ〜」
ねるちゃと二人でその時を待つ。
それからさらに10分が経過した。ねるちゃはうずうずと足元のコケを触り始めた。
1時間が経過。ねるちゃは外に出て虫や植物を食べる高次消費者がいないか探している。どうやら高速で地上を走り回るエビのような外見の動物やカラスに似た赤い鳥は確認できたらしい。
太陽が真上に登る。ねるちゃは虫や植物をしっかりと目に焼き付けるためにコケの海に潜っていた。
「こないっ!!」
帰りのゲートは接触してくる大型の生物を倒す必要がある。しかしくだんの大型の生物が一向に現れない。
「うにゃにゃ〜、これは生存者バイアス……ッ! 帰還できなかった例は報告されないがために異界の危険度を見誤っていた……ッ!!」
「そ、そんなぁ……どうするんですかねるちゃさん!」
「待ち合わせの時間過ぎちゃってるにゃ……」
ねるちゃは頭を抱えてぬぬぬぬ〜と鳴いていたが、突然ある方向を一新に見つめ始めた。
「ねるちゃさん?」
「人ぐらいの大きさの反応が突然現れた。にゃん」
ねるちゃはそう言うと俺を手に持って駆け出す。俺はなされる儘に身を任せた。
ついた場所はよく日の当たる大通りだった。街路樹や信号も苔で覆われており、道路は一部がぽこんと膨れてそこに車があったことを示している。
その膨れた場所の上にそいつは立っていた。全身は長い体毛が生えているが、その上からさらに苔が生えてまるで保護色のようになっている。腕は長く、立っている状態で鋭い爪が地面に接している。どこか間抜けさを感じさせる顔は、昔動物図鑑で見たことのあるナマケモノにそっくりだった。
続く?