10 待ち合わせと異界行き
俺が運ばれた先はねるちゃの住まい兼研究所である工房という場所だった。こじんまりとした小さな家で、工房という名前は似合っていない。
だけど中からは全く違った印象を受けた。とにかく物が多い。変な素材、変な機械、変な置物、変なおもちゃ、脱いだまま散らかされた衣類と用途のよくわからない何かのパーツ、そしてゴミで家具が隠されている。
第一印象はゴミ屋敷、そこをねるちゃは俺を抱えたままスイスイと奥へ進んでいく。
「ちょ降ろしてっ、もう大丈夫っす!」
「いにゃ〜!」
ねるちゃは俺の訴えを無視して階段を降りる。おそらく地下室へ続くのだろう。目の前に現れたドアが勝手に開く。
中に入ると俺はぽいっと降ろされた。幸いなことに降ろされた場所はベッドだったようで痛みはなかった。
この部屋は他にも何台かベッドが並べられていて病室のようだった。そのうちの数台は人が眠っている。
「おやすみね。いい夢見てね」
ねるちゃはそう言い残すと電気を消してさっさと部屋を出て行ってしまう。
まだ脳は覚醒して目はギラギラに開いている。
だけど俺は自分が思っていた以上に疲れていたようで
「眠れるわけないだろ……」
と愚痴をこぼした数分後には意識を失っていた。
起きたら知らない天井だった。
「いい夢見れた?」
すぐ隣にめちゃくちゃ可愛い子供、ねるちゃが座っていて、昨日の出来事が夢ではなかったのだと再認識する。
「夢は見なかったっす」
「良かった。やっぱり物質生成系で作った麻酔は効くのね」
「へ?」
どうやら魔法で生み出した睡眠ガスをあの後部屋に流したらしい。他の人は大丈夫なのかと聞いたら
「他の人?」
と怪訝な反応をされた。寝る前、人が寝ていると思っていたベッドをよくよく見れば物が置かれているだけである。これを人と見間違えるほど疲れていたのなら、ガスを流されなくてもすぐに寝付いていたのではなかろうか。
ねるちゃと会話している途中で俺が入院している人が来るような患者衣を着て、体も綺麗に洗われている事に気がついた。ねるちゃは俺が寝ている間に色々とお世話してくれたらしい。少し恥ずかしかったけど、ねるちゃが優しさを見せてくれてなんだか嬉しくなったのでお礼を言うと
「うわっ」
とドン引きされた。なんでだよ。
朝食としてラングドシャとリンゴとオレンジジュースが出されたので食べる。学園都市の中の食べ物は俺の生まれた街よりも段違いで美味しかった。
「え? 本当に盗みに入ったんっすか!?」
ねるちゃからなぜ飛雄院にいて俺を助けてくれたのかと聞くと、よりいろんな種類の精子を採取するためだったらしい。そもそもなぜ精子を集めているのかは怖いので聞けなかった。
「人聞きの悪い! 中の人間を眠らせて無許可で入っただけじゃないかっ! そしてこっそり吐精してもらうだけだ! にゃ!」
ねるちゃの声で吐精という単語が紡がれる行為がとてもいけないことに思えて、それでいてねるちゃ本人は気にせずに俺だけが気にしていることが恥ずかしかった。
「それを不法侵入っていうっすよ! そして多分他のいろんな罪も背負ってますよ!?」
よく考えたら俺は誘拐されてあそこに監禁されていたので、俺を助けてくれたねるちゃに文句を言うのはお門違いかもしれない。
「そしたら起きてる人間がいて床を舐め始めたから驚いちゃった!」
「舐めてませんからね!?」
それでもねるちゃに遵法精神や道徳を知ってほしかった。
「それで、俺が変な体質だって言うのはわかりましたけど、どうしてメルルさん? と子供を作らなければいけないんですか? そもそも誰っすか」
話をしながらりんごに齧り付く。メルルという名前を出した途端、ねるちゃの目が少し優しくなった気がした。
「メルルはねっ! ねるちゃの友達の夜明の血の繋がらざる子供だよっ! メルルもね〜変な性質を持っているの! 夜明もまだ気づいていないけど、だから二人には子供を作って結婚してもらうの! 夫婦になった二人は二人だけで暮らし初めて、ねるちゃは自由に二人で実験できるようになれて、さらに子供まで……っ!!」
ねるちゃの非道徳的な瞳がキラキラと輝く。その発言は倫理というものが欠如しており、とてもまともな思考ではないように思えた。
ねるちゃいわく友達である夜明という人は娘が巻き込まれるというのにねるちゃの非道を許すだろうか。そもそもメルルとねるちゃはどういう関係なのか。
「そううまくいくっすかね」
「あれれ!? やる気になってくれたのか!! にゃ?!」
「やっ、そうじゃなくて、そもそもメルルさんはどう考えてるんすか?」
「ふっふーっ! 実はもう夜明には許可を取ってるの! メルルとも約束しちゃったし♪」
どうやら思った以上に話は進んでいたらしい。俺は口の中のりんごの塊を噛まずにごくんと飲み込んでしまった。
「一応助けてもらいましたし、会うだけっすからね!」
「うん!」
元気よく返事を返すねるちゃはるんるんと浮き足立った足取りで道を進む。
あれから何度もねるちゃに懇願された俺は、ついにメルルと会うことを断りきれなくて今に至る。待ち合わせの場所の手前まで運転手のいないタクシーで移動して、時間まで近くの廃ビルで過ごすこととなった。ビルのエントランスに入ると外からの音がほとんど遮断される。
「あの、俺顔とか隠さなくて大丈夫なんすか?」
俺は一応脱走したんだから、今頃捜索が行われていると考えていた。しかしねるちゃは特に意識していないようだ。
「こわがっているの? いぇ〜いびびってる〜!」
「そうじゃ……いやそうです! だって脱走したんっすよ! ねるちゃさんのしたことって襲撃とか強盗とかそういう類じゃないっすか!」
「ん〜にゃっ! ねるちゃは魔女だから何しても許されるんだよ〜」
「そ、そうなんすか」
ねるちゃがあまりにも臆面もなくいうので、そういう物なのかと考え直す。
魔女ってなんなんだろう。歳をとった魔導士で偉い人だって認識はあるけど、ねるちゃはとてもそうは見えない。たしかに入学したばかりの龍之介よりもベテラン(?)のねるちゃの方が地位は高いだろうけど、そこまで強い権力を持っているのだろうか。
床にしゃがみ込んでぶつぶつと何かを呟いているねるちゃを放っておいて、好奇心から一人離れる。僅かに開いた非常階段への扉を隙間から覗くと、薄暗い空間に不気味な階段が僅かに輪郭を浮き上がらせる。
怖くなったので扉を閉める。ねるちゃの元に一度帰ろうと方向転換した際に、誰かとぶつかった気がした。
「え?」
と思う暇もなく、体が何かに吸い込まれていく感覚に襲われる。視界が歪み、思考が引き伸ばされていく。光速を超えて加速する。負荷に耐えきれなかった脳は意識を失った。
暗い暗い、海の底を漂っていた。太陽の光は遥か上空、ここは何も見えない暗闇の世界。
俺はクラゲのように、水の流れに従って海に揉まれる。
鋭利な物に体を切り裂かれる。
大きな海洋生物に咀嚼される。
揉まれて、切って、食べられて、最後は海の藻屑になって消える。
「タクト」
龍之介の声が聞こえた。目を開くと、彼が俺に向かって手を伸ばしている。
いつの間にか周囲は日の光が差し込み天使のカーテンに包まれている。
色とりどりの小さな命が自由に泳いでいる。
水面はすぐ近くにあった。
「タクト、ほら」
波の境界を破った龍之介の腕が、俺の首に回される。水の中で、彼の顔がすぐ近くにあって。
「リュウっ!!」
「ぐぎゃにゃッ!?」
「お゛ぅ!?」
勢いよく起き上がって頭が固い何かとぶつかった。再び寝転んで暗めく視界を抑えながら見ると、同じようにおでこを抑えるねるちゃがいた。
「お……おでことおでこがごっつんこ」
「わっ、すみませんっす!」
「ふざけんなよ……いやなアブストラクトを見たにゃ」
慌ててふらふら揺れるねるちゃを肩を持って支える。そのあたりで違和感に気がついた。
ビルの中が濃い緑色に染まっていたのだ。よく見ればそれは塗料ではなく、苔だった
「ねるちゃさん……あの……」
「お前、もしかして黒い渦とか触っちゃった経験ない?」
「え? いや、ありませんけど」
「ふにゅ〜」
ねるちゃはそう鳴くと、俺を置いてビルの外に走り出した。コケの絨毯はねるちゃの小さな足跡をはっきりと記録する。
俺も慌てて追いかけてビルの外に出た。
外の様子はそれまでとは一変していた。一面が緑に染まっていたのだ。
人がいなくなって100年ぐらい経ったような、植物に侵食された街が広がっていた。
道路も建造物も全て緑のヴェールに覆われてしまって見る影もない。見たことのない大きな植物がいろんなところに自生しており、まるでジャングルに迷い込んでしまったように思える。
湿っぽい粘性のある風が喉にまとわりついてくる。空気中にはふわふわと光る綿毛のような何かがいくつも浮かんでいた。
ポストアポカリプス物の映画やゲームでしか見たことのない光景。それは非現実的で、人間界を超越した自然の美しさがあった。
「ねるちゃこれ知ってる。異界だ〜っ!!!」
廃墟の街に似つかわしくない、舌足らずで甲高いねるちゃの声が響いた。
続く?