5 馬車
次の日は朝から忙しかった。王都から少し離れた町にある学園に向かうためだ。あまり政治と教育を近づけたくないのだとか。王都を離れるのは記憶では初めてではないだろうか。
私は昨日の夜興奮で眠れませんでした。ここからが転生者の本領発揮です。まず編入試験で一位をとって、それとは知らずに王子か何かに最悪な初対面を済ませてどこかで魔法の測定の水晶を真っ白に光らせる。そこから私の人生が始まるのだ。お気に入りのクッションを馬車の中に押し込む。
「お嬢様、何とか友達を作って、真っ当な学生生活を送ってきて下さいね」
「クリスティナ、お前が悪魔憑きでないと私は信じているからな。どうか婚約破棄と不敬罪だけはやめてくれ」
外野がうるさいだけで手伝ってくれない。だいたい婚約破棄はもう必要事項といってもいいではないか。これをしなければ異世界に来たとは言えない。クッションの次は本だ。たまには真っ当な本も読もうと言うことで、神話を持ってきた。どうせ図書室など私くらいしか使ってないのだ、数冊欠けても大したことはあるまい。大抵転生者は神話と絡めて世界観を説明するのだ。私の中の偏見がそう告げている。
「クリスティナ、学園に着いたらまず編入試験と魔力の測定があるそうだ。試験は分からないが魔力についてはお前も公爵家、かなりの数値になるはずだ。試験でしくじりさえしなければ一番いいクラスに入れるからなんとかしなさい」
心配する必要はありませんことよお父上。あなたの娘は立派な転生者です。何がどうひっくり返ったところで勉強だけはチートができる。イイクニ作ろう鎌倉幕府。蘇我入鹿を蒸し殺し。かろかっくういいけれ。水兵リーベ僕の船。四国は右上香川右下高知、左上愛媛に左下なんだっけ忘れたけど少し振り返っただけでもこんなに覚えてる。あと何でだか分からないけど悪役令嬢はみんな教科書を丸暗記できるくらいのスペックを持っていた気がする。
あと魔力測定あるんですか。生まれてこのかた魔力を感じたことがなかったから無いものと思っていた。
異世界のミステリはどれも魔法があって夢があるなと思ったらそういうことか。アンさんなぜ教えてくれなかったし。多分聞いてなかっただけ。クッションもう一つ入れるか。下に敷くものと背中にあてるもの、抱くものの3つは欲しい。
「お嬢様、頼みますよ!私はこれまでお嬢様に知識や礼儀作法を生活の中で教えてきましたから!どうか!どうか!」
「クリスティナ、王家が名指しで学園に連れて来いということはお前は訳ありなのかもしれん!でもお願いだからまともに8年間過ごしてくれ!頼む!くれぐれも奇行はするなよ!黙って座っていればお前はお利口さんだ!」
相変わらず酷いこと言いやがる。しかし彼らが何を言おうともう遅い。私はクッションのベストポジションを発見したのだ。あとは出発するだけである。
御者が馬に鞭を当て、2台の馬車が走り始めた。前の馬車には私と学園で私の世話をすることになったメイドのエマ、後ろの馬車には私の荷物と昼食のサンドイッチがある。馬で並走している何人かは多分護衛だろう。ここにきて初めて私は自分が公爵令嬢だということを実感した。
「酔った……」
気持ち悪い。目を閉じても頭がぐわんぐわんする。そりゃそうか。でこぼこ道を走る馬車の中で本読もうとしたからね。神話で世界観を説明どころではなかった。前世でもバスに乗ると酔うことが多かった。完全に忘れてた。
「お嬢様、一旦休憩だそうです。外に出て新鮮な空気を吸いませんか?馬車の酔いには新鮮な空気が一番です!」
馬車から降りて、森のそばで一休み。だいぶ遠くまできた気がする。座る場所に困っていたら、エマが小さな台を持ってきてくれた。目の前には青々と広がる平原。ちらほらと動物の姿も見える。木陰で休んでいたら、だいぶ体調が良くなってきた。少し油断していたのかもしれない。そりゃそうだ。普通学園に馬車向かう道のりなど一行で終わりだ。ただ、私にとってこれは初めての町の外であり、また私の環境が変わり始めてから初めての外出であった。そして、悲しいことに私はまだ運命的な出会いも秘められた力の覚醒も経験していないのだった。
襲撃は一瞬だった。誰かのぎゃっと言う声がしたと思ったら次の瞬間、森の中から覆面の男達が現れた。突然の事に反応できないまま私が固まっていると、エマが私の手を引いて立ち上がり、何か叫びながら走り出した。覆面の男達は森の中から次々と現れて、私たちの方に向かってくる。
逃げなきゃ。
そう思ったが足は思うようには動いてくれなかった。すくんで動かないのだ。エマが何か言っているが私の耳には何も入ってこない。護衛達があっという間に倒れていく。数が多すぎるのだ。
こわばった頭を必死に動かす。これに該当する状況は読んだことがある。初めての誘拐フラグ?チュートリアル的戦闘?運命の人が助けに来る展開?とにかくテンプレだ。よくあるイベントだ。早く。早くなんとかしなきゃ。私の目の前で三人の覆面に囲まれた護衛の一人が必死の形相で剣を振り回している。馬車の中から手を振ると、振り返してくれた人だ。覚えている。エマが動けない私を引きずるようにして逃げるがもう遅い。馬車にも覆面が取り付いている。こんな時何がある?知らぬ間に契約した精霊とか出てこないの?私がいけなかった?本来なら既に魔法が使えていたとか?分からない。神様どうかいるなら今すぐ私を助けて。怖い。覆面の奥に見える目が怖い。鈍く光る剣が怖い。誰でもいい早くなんとかして。私の口からはぶつぶつと言葉にならない音が出ていた。無意識にエマに引きずられらて走る。嫌だ。捕まりたくない。部屋に戻りたい。ぎゅっと目をつぶると自室の様子が浮かんでくる。隅から隅まで思い出せる、私の部屋。安全な部屋。何があって何がないか、全部分かってる部屋。帰りたい。一生出られなくたっていい。こんな目にあいたかったわけじゃない。躓きかけて思わず目を開ける。
引きつった顔で叫ぶエマと、逃げようと必死にもがく馬と、剣を突き立てられ地面に倒れる御者の姿を見ながら、私は意識を手放した。