執着心
クロとの生活が始まって、2ヶ月近くが過ぎ去った。その間、俺の生活は次第にクロを中心に動くようになっていった。
「クロー、飯だぞー」
「ニャー」
皿に猫缶を開け、水の入った食器も同時に置く。トコトコとやって来たクロは、それを美味そうに食べ始めた。食べながら何かモゴモゴ言っているのが面白くて可愛い。
「じゃあ行って来る。鍵は頼むぞ」
「行ってらっせー」
迷彩服を着た父親がリュックサックを片手に家を出た。車にエンジンの掛かる音が聴こえる。そのまま車が走り去る音と共に、自分も学校へ行く準備をするため着替え始めた。身支度が粗方終わった頃、クロが部屋に顔を出す。
「ニャー」
「お、食べ終わったか?」
口の周りをペロペロ舐めている。満足してくれたようだ。
食器を洗い、今度はドライフードを用意した。猫缶は美味そうな匂いがするのに、なぜドライフードはこうも粗末な感じの香りなのか疑問である。まぁ人間が食べる訳じゃないから、それでいいのかも知れない。
「クロ、昼飯とおやつだ。食べ過ぎるなよ」
とは言うが、クロはそこまで食べる猫ではなかった。普通の猫缶よりも小さいサイズの方が食べ切れるらしく、あんまり量が多いと残してしまう事もある。
「えーと、後はトイレの掃除か」
猫用トイレに専用のスコップを突き刺し、クロが出した物があるかを探る。2~3個の塊となった猫砂を掬い上げ、それをトイレに流して処理は終了だ。猫砂は減った分だけ足しておく。
「クロ、俺も行くから留守番頼むな。いい子にしてるんだぞ」
「ニャー」
眉間と頭に掛けての部分を指先で擦るように撫でる。クロは目を細めて気持ち良さそうな表情だ。
「じゃ、行って来ます」
クロから手を放し、施錠して自転車に跨った。家から学校までは約10分。朝の空気が心地いい。
今日はクロが最後のワクチン接種をする日だ。学校が終わったら早く帰らなければいけない。最近クラスメイトに付き合いが悪いと言われているが、俺にとっては家でクロと過ごす時間がとても大切なものだった。それこそ、母と兄を失い、何所か空虚に生きて来た10年という時間が、クロと居ると満たされていくような気がして仕方ないのだ。
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授業が終わり、帰り始める集団に混じって駐輪場へと足早に向かう。何人かに寄り道を誘われたが、用事があると言って断った。当然、無碍に断っている訳ではない。クロのワクチン接種もこれで終わるし、その後の体調に変化が無ければ、そろそろ付き合いを優先してもいいだろう。
学校の敷地から飛び出し、家路を急いだ。予約を入れてある時間は17時。早くしないと間に合わなくなり、別日に予約を入れ直す必要がある。それは面倒になるから今日を逃す訳にはいかなかった。
「クロー、ただいま」
いつものように鍵を開けて家に入ると、玄関先でクロが出迎えた。撫でるのは軽く済ませ、着替えてから自室のクローゼットを開けてボストンバッグを引っ張り出す。
「クロ、これに入ってくれ」
「ニャ~」
意外な事に、クロは病院が嫌いじゃなかった。大抵の動物は病院に連れて行かれる事を感付き、場合によっては激しく抵抗すると聞く。こちらとしては有難い事だ。相応に年齢を重ねているのも関係しているのだろうか。
「診察券と、保険証もOKと」
クロを迎え、動物病院の受診に必要な物を調べるに当たり、ペット保険と言う物がある事を初めて知った。これがあれば人間と同じように医療費の負担が軽くなるのだ。
「あと40分か。間に合うな」
ボストンバッグを抱え、施錠して自転車に乗った。亀田動物病院までは片道20分と少しだ。ゆっくり走っても受診の10分前には病院に入れるだろう。クロが時折り発するくぐもった鳴き声を聴きつつ、病院へ向けて自転車を走らせていった。
病院には思っていたよりも、少し早く着いた。受付に診察券と保険証を出す。あとは呼ばれるのを待つだけだ。そして俺の視線は、待合室の壁掛けテレビへと吸い寄せられる。今日もまた、あの災害に関するニュースが流れていた。
『内閣は本日の定例閣議で、巨大生物災害対策基本法に基づく復興計画の完全な終了を宣言しました。これに伴い、生活支援金の供給が停止となります。継続する供給を希望される場合は、お近くの役所、又は支所に併設されている、防災対策課巨大生物災害相談窓口までお越し下さい。オンラインでの申請受付も行われておりますので、内閣府のホームページに記載されているURLからのアクセスもご利用下さい』
また1つ、あの夜が遠ざかった気がした。いつまでも引き摺っている訳にはいかないが、やはり全てを過去にしてしまおうと言う意思が感じられるようでならない。
東北の津波や九州の地震では、未来へ語り継ぐための遺構や資料・記録が保管されているのに、ここで起きた事は、意図的に思い出させないようにしようとする動きが見える。一時期、色んな動画サイトを埋め尽くしていた当時の報道映像や一般人による投稿も、今は不自然に全て削除されていた。
「ニャ~」
「ん、どうした?」
バッグの中から、クロが呼び掛けたように感じた。ファスナーを少しだけ開けて指を突っ込むと、クロが頭を押し付けて来た。
「もうちょっとで呼ばれるからな。注射もすぐ終わるし、そしたら帰ろう」
ファスナーを更に広げ、手を押し込んでクロの体を撫でる。ゴロゴロと鳴る喉の振動を感じつつ、呼ばれるのを待った。その間、テレビから流れるニュースの声が、耳から脳を素通りしていく。
待つ事、約20分が経過。ようやく呼ばれた俺は、バッグを抱えたまま診察室へと足を踏み入れる。
「どうだ、調子は」
「これと言って副作用みたいなのは特に確認出来ませんでした」
カルテを見ながら話す亀田院長は、今日も照明の灯りを頭に反射させていた。それを横目にバッグを開き、クロを引っ張り出す。
「よし、それじゃあ最後のワクチン接種をするぞ。だがその前に、もう1度採血させて貰う」
奥の部屋から現れるもう1人の医師が準備を始めた。彼は院長の息子さんで、副院長やら何やらと色々兼任しているそうだ。院長が触診や問診を行い、彼が処置全般を行っている。
「お、クロちゃんか。君は大人しくて良い子だね。処置しやすいのは大歓迎だ」
「口はいいから手を動かさんか」
「はいはい」
「ちょっと任せるぞ。小僧、こっち来い」
俺は院長に連れられて、診察室を出た。待合室を突っ切り、2階へ上がる階段に辿り着く。上階は病室がある筈だが、この階段はそれと違って【関係者以外立ち入り禁止】の衝立があった。どうしてこんな所に俺を連れ出すのだろうか。
「どっこいせ」
院長は踊り場の所に腰掛けた。「まぁ座れ」と促された俺は、院長の隣に座る。まるでこれから怒られるかのような空気に、俺の体は少し固くなっていた。
「何ですか、こんな所で」
「話して置きたい事がある。お前さんの覚悟を知りたい」
「覚悟?」
何の事か理解出来ない俺を余所に、院長は独特のしゃがれた声で話し始めた。
「分かってるとは思うが、あの夜から数えて10年だ。恐らく当時の時点でアイツは1歳かそこらだろう。猫の10歳は人間で言う所の50代後半、身なりは可愛くてもお前さんより遥かに年上だ。この年になるまで野良だったって事は、それなりに人間との付き合い方も心得ているに違いない。そんな猫がある日にまた姿を消した時、お前さんはそれを受け入れる覚悟があるか?」
何を言われているか分かっているつもりだが、一緒に生活し始めてまだ3ヶ月と少しの現状、俺はその事を考える勇気がなかった。室内で飼っていようと外飼いだろうと、猫は死期が近付くと静かな場所で体力を回復させようとして、姿を消す事が多いと聴く。そのまま居なくなるのは、そこで死んでしまう事が多いからだそうだ。
「……出来れば、温かい所で看取りたいと思っています」
「向こうはお前さんの気持ちなんてどう思ってるか分からんぞ。今の段階で健康状態に異常はなくても、この先どうなるかは予想出来ん。まぁ、お前さんの所を死に場所に選んだのなら無碍に居なくなる事はないと思うがな。だがもしアイツが姿を消したらどうする。意を汲んでやるか?」
どう答えても正解を貰えなそうなこの質問が、俺の神経を逆撫でした。そんな事は起きない。クロは俺の傍に居てくれる。先にこの世を去ってしまうだろうけど、それまで一緒に居てくれる筈だ。
無条件にそう思ってしまうのは、俺の驕りだと分かっている。この年まで野良だったのなら、色んな人間に出会って別れて来ただろう。俺がその最後でありたいと思うのは、あの夜にクロを拾い、命を紡いだ事を起因とした再びの出会いを、勝手に運命的なものとして捉えている俺の驕りでしかない。
「この病院の中でも外でも、助からない命、助けられた筈の命、人知れず消えた命ってのを山ほど見て来た。そして飼い主は大抵こう言うんだ。もっと早く気付いていれば、気が付いた時にはもう、ってな。結局の所、人間は自分の生活が第一だ。そのためなら、動物の命は容易く天秤にかけられてしまう。具合が悪そうだけど仕事だから、約束があるから。そして、連中の自己主張は人間に分かり難い。冷たくなったペットを抱え、自分の判断を恨みながら血相を変えて病院へ駆け込む。よくある光景だ」
そんな事は起きない。いや、起こさせない。クロの事を一番分かっているのは俺なんだ。何の根拠も無い自信が湧き上がり、俺は立ち上がって院長を睨み付けながら断言した。
「絶対にそうはさせません」
「……まぁ、いいだろう」
ふと、呼ばれている事に気付いた。目も合わせずにその場から立ち去り、クロが収まるバッグを受け取って会計を済ませ、俺は病院から飛び出した。自転車を走らせ、家には帰らず海の方へ向けてひた走った。
他の住宅地よりもちょっと高台になっている所から、東京湾を望む事が出来る。青い海を行き来する船舶も、微かにだが見分けられた。俺は自転車を路肩に停め、バッグを抱えて海を眺めている。ファスナーの開いた部分から顔を出すクロの頭を、優しく撫でながら。
「…………クロ」
「ニャ~」
「……何所にも行かないでくれよ」
「ニャッ」
いつもと鳴き方がちょっとだけ違うのが、少し気になった。海から吹き付ける風が、俺とクロに正面からぶつかって来る。クロは目を細めて、風が鬱陶しそうな表情だ。
「……ゴメンな、帰ろうか」
「ニャ~」
クロをバッグに押し込み、家路へ着いた。さっきまで心を支配していた、漠然とした不安が紛れていく。
そうだ。そんな事は起きない。クロは俺と一緒に居る。明日も明後日も、半年先も。それぐらいあれば、最後を看取る覚悟は出来るだろう。そんな甘い考えを抱いたまま、俺は自転車を漕ぎ続けた。