余燼1
止血を始めて約10分。まだクロの呼吸は続いていた。こんな時でも喉のゴロゴロが鳴っている。何かで見たけど、傷や骨折の治りが早くなるらしい。
ここで電話が鳴った。病院を出たのだろう。居間にある子機を取ってクロの所に戻り、スピーカーボタンを押した。これで両手は止血をした状態のまま会話が出来る。
意識が切り替わったせいか、自然と涙は引っ込んでいた。
「もしもし」
「ああ、正に出た所だよ。20分くらいで着くと思う。今はどんな状態かな」
「今は……お腹、左側のお腹の何所かから血が出てるんで、そこをタオルで押さえてます」
「他に目立った外傷はあるかな。大きな切り傷とか、体の中が見えてしまっているような傷口があったりは?」
薄暗い中でそれよりも真っ黒な体を凝視する。
「……なさそうです」
「尻尾はどうかな。猫同士の喧嘩だと狙われやすい所なんだ。車との事故でも怪我が多い」
「尻尾……」
右手をタオルから離して尻尾にそっと触れた。根元から先端まで、特に異常は感じられない。
「尻尾は大丈夫そうです」
「顔にも傷はない?」
「えーと……すいません、ちょっと暗くて」
「もし電気を点けられる余裕があればでいい。確認してくれると助かる。それから家に着いたら応急処置をするけど、本格的な手当ては病院に戻る必要がある。だが君を1人にしておくのも本来は拙い。一緒に来て貰うけどいいかな」
「分かりました、大丈夫です。必要な物は揃えてあるんで」
「お父さんに連絡を済ませておいてくれ。道が空いてるからもうちょっと早く着けそうだ」
通話を一旦終え、急いで携帯を取りに行った。その足のまま施錠を確認して非常持ち出し袋も玄関に置く。左手で止血を続けながら父親にメールを送った。画面に指を滑らせる度に血が付いて鬱陶しい。
「クロ、クロ」
返事はない。まだ呼吸とゴロゴロがある事だけが生存の証だった。それが何時までなのかは分からない。果たして応急処置の後に病院へ戻ったとして、間に合うのか。移動の途中で死んでしまわないだろうか。病院に着いた時にはもう手遅れになってたりしないだろうか。だとすれば、動かすのは危険だ。でも自分には何も出来ない。それが異様に悔しかった。
「クロ、生きてるな? もうちょっとだぞ」
更に10分ちょっとが過ぎた。車のエンジン音が近付いて来るのが分かる。家の前で停まって、ドアの開く音もした。
「あっちか?」
「そっちじゃないこっち。家の前にあの子の自転車あるだろ」
院長の声がする。もう1人は副院長だ。バタバタと足音が玄関先までやって来た。呼び鈴とノックが同時に鳴る。
「亀田動物病院です」
「開いてます」
ドアが開く。夕日が頭に反射して光り輝く院長と大きな荷物を抱えた副院長が居た。
「坊主、代われ。手を洗って来い。必要な物はあるな?」
「はい」
「こいつは……喧嘩じゃないな。交通事故でもない」
バスタオルを捲った副院長が不穏な事を言った。猫同士の喧嘩じゃない上に交通事故でもない。じゃあ何がクロをこんなに傷付けたのか。
「……じゃあこれは」
「分からない。まるで剣山か何かを押し付けられたような感じだ。にしちゃ穴が大きいけど」
「いいから始めるぞ。坊主、天井の電気を点けろ。早く手を洗え」
言われるがまま洗面所で手を洗った。Tシャツにも知らない内にクロの血が付いていたから着替える。もう1度施錠を確認して非常持ち出し袋を手に取り、玄関前まで戻った。
「もっと大きな止血帯は」
「それが一番大きい。くそ、もう1サイズ上を持って来るべきだったな」
「坊主、綺麗なバスタオルはまだあるか」
「はい」
「あと何でもいいからベルトも貸してくれ」
風呂場に走ってまだ封を開けていない新品のバスタオルを持って来た。ベルトは高校の制服から引っこ抜く。もう1本あるから取りあえずこれでいい。
「持って来ました」
「おう」
クロには恐らく腹部の出血を止めるためのベルトが巻き付けられていた。バスタオルと自分のベルトは別の場所の傷口を塞ぐためらしい。これで応急処置が一旦終了。点滴を刺されたクロを抱き上げて車に運ぶ役割を与えられる。
「家の鍵は?」
「これです」
「閉めるよ。車に乗ったら寝かせれる場所があるから、そこに頼む」
家を出てクロを抱え、車に乗り込んだ。車の中には病院の機材が幾つか置かれている。その中には小さなベッドや心電図のモニターもあった。
「ここでいいですか」
「ゆっくりね」
ぐったりしたままのクロをそっと寝かせる。隣に副院長が来て色々と準備を始めた。
「よーし出すぞ。坊主シートベルトしろ」
車は動物病院への道を走り出した。道路は閑散としていて人通りも殆どない。サイレンを光らせたパトカー数台とすれ違いながら走る。
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翌日早朝 首相官邸裏
一晩中、事後処理に忙殺されてようやく落ち着いた佐伯の姿がそこにあった。官邸警護の警官に一礼して裏門から道路に出る。柔らかい日差しを浴びると思わず欠伸が漏れた。
「……眠い」
行きは送って貰ったが帰りの時間は分からないため迎えは断っていた。永田町と市ヶ谷なら歩いてでも帰れる距離だ。せいぜい20分かそこらである。
適当なコンビニに寄ってコーヒーと軽めの朝食でも買おうかと思いながら歩き出すと1台の車が横付けして来た。後部座席のドアがスライドすると見知った顔がそこにあった。乗っていたのは百武義次。巨大生物調査室長を兼任し、佐伯に巨大生物災害資料編纂室を預けた男だ。
「ああ、おはようございます」
「徹夜だったか?」
「そうですね。まだ若いと思ってましたけどそんな事はなかったです」
「市ヶ谷まで送ろう。こっちも落ち着いて戻る所だったんだ」
「ありがとうございます」
反対側から車に乗り込んだ。シートの柔らかさが有難い。気を抜くと眠ってしまいそうになる。瞼が少し落ち始めた所で百武が佐伯に話し掛けた。
「どう思う」
「……何がですか」
「すまん、盛大に主語が抜けた。昨日の巨大生物同士の戦いが報道に流れて以後、ネットの一部で"地球が怒っている"だの"人類は滅ぶべき"だのと捲し立てている連中が居る。どう思う」
「よくそんな下らない事が言えたもんだ。どうせ口だけの連中です。自分で何かをしようなんて考えは持ち合わせちゃいません。そいつら全員の端末情報から住所特定して首相官邸にご招待してやりたいですね。ここで皆様の思う解決策を科学的且つ現実的な方法でご教授願います、って頭下げてやりますよ」
「そいつは超法規的措置が必要になるな。第一、そんな事をしているほど今は自衛隊も警察も暇じゃない。過激な発言をするように煽ってそれを出汁に破防法を拡大適用して公安庁に話を投げてもいいが色々と面倒になる」
「まぁ法務省がいい顔しないでしょうね。所で、大陸の方はどうです。こっちの混乱に乗じてちょっかいを出して来そうなものですが」
「心配ない。第7艦隊が睨みを利かせている。ロシアも昨今は稼働率は落ち込んで張り合いがないな。背中合わせの相手と国境紛争してるお陰で海軍の予算が付きにくいんだろう」
「ロシアに関しては10年前の協定がありますからそう強気には出ないと思います」
「こっちもそれを逆手に取って北海道近海の観測情報を出し渋った。クレムリンはどう考えてるか分からんが、少なくとも東部管区は気が気がじゃない筈だ。稼働率が低いとは言え虎の子の太平洋艦隊を喪いたくはないだろう」
横須賀市巨大生物災害の教訓から日本は対巨大生物有事を想定した法整備だけではなく、早期警戒網の構築も行っていた。主に太平洋側を主眼としたもので、北は北方四島から南は東南アジアにかけての範囲。アメリカは当然の如くこれに協力して三沢・厚木・岩国・普天間に哨戒機部隊を新編し、ASEAN諸国も自国の防衛は一旦置いておくとして、位置さえ分かれば早期の避難も出来るとの考えから参加していた。
これに「無視するな」とでも言いたげに混ざって来たのがロシアである。太平洋に突き出した極東地域のウラジオストックには太平洋艦隊の司令部が存在した。ここが被害に遭うのを恐れての事らしい。
「連中の最新艦艇って何年前が最後でしたっけ」
「艦艇自体は年に何隻か就役してる。ただフリゲートが主体になって久しい。もし北海道近海に巨大生物が出現したとしても増援の当てには出来ないな。そうだ、今夜は空いてるか?」
「何ですかまた急に」
「人と会うんだが、予定が合えば同席するといい」
「誰です?」
「……この車の掃除は済んでるな?」
「はい、次官」
百武は急に運転手へそう問い掛けた。掃除が済んでいる。佐伯はその意味を眠気の中で考えた。
今まで口にした言葉の内容は誰かに聞かれてもさほど問題がない。ここに来て掃除と発言した理由は、今から言う人物の名前は誰にも聞かれたくない事を意味する。であれば、盗聴の可能性を排除しなければならない。掃除とは盗聴器の有無を確認する意味なのだろう。
「今日の昼に横田へ連絡機が降りる。それに乗っているのはNSAの人間だ。そいつと会う」
「……どうしてNSAの人間なんかが」
「非公式にコンタクトがあった。事務次官レベルで被害の内容について教えて欲しいそうだ。アメリカ国内で巨大生物が出現した際に予想される被害と対処プランの参考にしたいらしい」
「だったら国防総省の小役人で十分では? 情報機関がしゃしゃり出るのもおかしな話ですよ」
「解せないのは、俺を指名して来た事だ。元巨大生物調査室の室長であり今は違う役職に就いている事を承知で会いたい、と」
急にきな臭い話になって来た。現在の編纂室長をしている自分ではなく、前の室長だった百武を指名しているとはどういう事なのだろうか。既に配置換えがあった事は恐らくアメリカ側にも伝わっている筈だ。
でなければ、何所かの段階で重要な情報ではないとして切られてしまったか? 世界で唯一の事態に対処するため発足したとは言え、現在は地の底に落ちた部署だ。重要ではないのも確かである。
だがそれを置いても尚、NSAと言うのは簡単に納得の出来る言葉じゃない。そもそも今回の件だけでなく、10年前のあの時から情報は殆ど筒抜けの筈だ。連中がこの期に及んで知りたいと思う事なんてない。どうせ三沢の某所で聞き耳を立てつつ衛星で抜け目なく見ているに違いないのだ。
「……因みにその場で質問する権利なんかは」
「会ってみない事には何とも言えん」
「分かりました。後で時間と場所を連絡して下さい。取りあえず少し寝ます」
「俺もそうするよ。ほら、もう着くぞ」
気付けば車は防衛省の正門に差し掛かっていた。いつもなら居るであろう警備会社のガードマンたちの姿はない上にゲートが閉じられている。ゲートの前では小銃を構えた完全装備の警衛が目を光らせていた。そして道路脇には警視庁機動隊の人員輸送車が4両ばかり。他には特車隊の車両も見受けられる。混乱に乗じたテロ等に警戒しているのだろう。
警衛が静止のハンドサインをした事で運転手はアクセルを緩めた。正面に居る何名かが半包囲するように展開してゆっくりと人差し指をトリガーに沿える。一瞬だけ凄まじい緊張感に包まれるもやり取りが終わると無事に通れた。
「物々しいですね」
「仕方ない。暫くはこんな感じだろうな」
もう少し入った所で佐伯と百武は別れた。夜に備えは今は休まなければならない。それでも佐伯は編纂室に1度顔を出してから割り当てられている部屋に引っ込んだ。




