瓦礫の中で
慣れ親しんだ風景が灰燼に帰したその夜、少年は傷ついた一匹の黒い子猫を見つけていた。
「……っ」
酷い怪我だった。全身からの夥しい出血。手足は折れ曲がり、骨まで見えている。側溝脇の草むらにグッタリとしていて全く動こうとしない。
降り掛かった土埃や瓦礫の破片を取り払い、咄嗟に自分が着ていた長袖のジャージを脱いで子猫を包み上げた。
「……だ、誰か」
子猫はまだ温かかった。振り向いて人を呼ぶが、誰しも人間の怪我人に夢中でこちらに気付いていない。そんな中、1人の消防士が気付いてくれて近寄って来た。
「そっちにも誰か居るのか!」
違う。と言いたかったが、口はそう動かなかった。ジャージに包んだ子猫を見せる。あからさまに困った表情を浮かべるも、少し考えた後に無線機を手繰り寄せてこう話した。
「南消防第1小隊より統合防災司令、現在受け入れ態勢の整っている救護所にて獣医が居る所を教えて欲しい」
『統合防災司令、近場は人間だけで手一杯だ。最も近い救護所へ向かえ。そこへ派遣するように要請を出す』
無線で会話をしながら、分厚い手袋で頭を撫でてくれた。飼い猫か何かだと思ってくれたのだろう。そのまま彼に連れられ、倒壊家屋と家を失った人たちの波を抜けた。
近くの公園に設けられていた白いテントの応急処置所に辿り着き、忙しく歩き回るオレンジや迷彩服の大人たちと消防士のやり取りが終わると、黄色のマーカーを腕に取り付けられた。8番の数字が書かれている。
「8番って呼ばれたら手を挙げるんだよ。いいね?」
頷くと彼はその場から立ち去る。だが自分の関心は、胸元に抱えるジャージの中にあった。まだ温かい。
回りは怪我人やマットレスで寝ている人たちでいっぱいである。早く呼ばれないかなと思っていると、担架を担いだ数名の自衛隊員が中に入って来る。怪我人の引渡しが終わると共に、聞き慣れた声で名前を呼ばれた。
「亮太?」
顔を上げると、自衛隊員である父の姿があった。普段は見た事がない格好だ。ゆっくりと膝を着き、力強く抱きしめられる。胸に色々と着いているのがゴツゴツして痛い。それにいつもより、とても堅かった。ヘルメットもしているし花火みたいなにおいがする。
「怪我はないか?何所か痛くないか?」
「大丈夫」
「お母さんと勇規は、どうした」
「……お兄ちゃんはわかんない……お母さんは―――」
何もかもが一瞬だった。寝ていた筈なのに、気付けば玄関で母に靴を履かされていた。同時に襲い掛かる凄まじい振動によって天井が崩落し、母はその下敷きとなる。か細い声で「逃げなさい」と言う母の言葉通り、階段を下りてマンションの敷地から出た。
燃え盛る炎と、夜空でも分かるほどの黒煙に、あちこちから木霊するサイレン。倒壊した幾重にも連なる民家が目の前に広がった。
叩き付けられた現実が幼心を打ちのめし、名残惜しさで振り返ったその瞬間、赤い閃光がマンションを貫いた。全てを払拭する本能的な恐怖が押し寄せ、崩れ落ちていく光景に対し脇目も振らず走り出す。その後、当てもなく歩いてこの近くに辿り着いたのだ。
「……そうか」
両腕から力が抜けた。何となくだが、泣いているのが分かった。そこへ父と同じような格好をした大人が現れ、我が子を抱いて項垂れる父の後ろまで来て遠慮がちに話し始める。
「小隊長、機甲と特科の連携で目標の相模湾誘導に成功、間もなく……総攻撃が始まります」
父は腕で顔を拭ってから立ち上がる。知らない顔付きだった。
「分かった、各班は引き続き負傷者の掌握に努めろ。重機の到着まで無茶はするなと伝えてくれ」
「了解」
敬礼をする大人の後ろから白衣を着たおじさんが現れた。大きなカバンを持っていて、他の白衣を着た大人たちとのやり取りが終わると、おじさんがマイクを持ってこう言う。
「8番の腕章をお持ちの方いらっしゃいますか」
手を挙げて立ち上がる。父も抱えているジャージで何となく事情が分かったようだ。
太もものポケットから取り出した紙にペンで何かを殴り書きし、腰の物入れから財布を引っ張り出して、何枚かの千円札とその紙を一緒に靴の中にねじ込まれる。手袋のまま両の頬を包んでこう言った。
「お父さんの連絡先とお金だ。今から川崎の叔父さんの所に連絡するから、ここで迎えを待ちなさい。お父さんはまだ帰れないから叔父さんの言う通りにするんだぞ。いいな?」
頷くと、立ち上がってここを出て行った。自分は抱えたジャージを持って白衣のおじさんの所へと向かう。
父親はその様子をテントの隙間から窺っていた。親子のやり取りを見ていた中年の自衛官が声をかける。
「三尉、必要でしたら人を呼びますが」
「……手が空き次第に頼みます。自分は持ち場へ戻ります」
公園に集結している部下の元へと戻った。家族を失ったのは自分だけじゃない。今ここで、公私を混同させる訳にはいかなかった。
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相模湾
背中のトゲも残り少なくなり、熱線で抉られた部分から血を流しながら歩く二足歩行の巨大生物は、神奈川県立葉山公園から相模湾へと入った。海水に血が混じり、周辺が赤く染まっていく。
その光景を眺めているのは、沿岸を埋め尽くす無数の戦車部隊だ。自衛隊だけでなく米軍の戦車も見受けられる。野砲陣地はその後方。上空には等間隔に待機するアパッチ攻撃ヘリ。相模湾沖には海自と米海軍の艦艇が一列に並ぶ。そして姿は見えないが、水中には潜水艦部隊まで居た。これ等は全て、ヤツをここで仕留めるために集結しているのだ。
『目標が相模湾に進入しました』
『司令部より全部隊、状況報せ』
展開中の各隊から次々に準備完了の旨が返信されていく。
『連合戦車部隊より本部、準備よし』
『特科陣地、射撃用意よし』
『護衛艦隊、こちらも用意は整った』
『こちら米海軍巡洋艦チャンセラーズビル、隷下の第15駆逐隊と共に準備完了』
『潜水艦隊全艦、魚雷装填完了』
『攻撃ヘリ、準備よし』
沿岸から幾重にも伸びるサーチライトが、ヤツを照らし出す。陸からはその姿がはっきりと見え、海からは逆光でシルエットが際立った。
『秒読み開始、10秒前……5秒前、4、3、2、1』
轟音と共にその全てが1体の巨大生物へ向け放たれた。陸海空からの攻撃が絶え間なく降り注ぐ。
戦車砲が傷口を抉り、炸裂する榴弾が五感を奪う。ロケット弾の雨が指先を吹き飛ばし、口の中にも飛び込んで舌や歯をズタズタに引き裂いた。そして嵐のように降り注ぐ速射砲弾が体を削っていく。最後に水中を進む魚雷が殺到し、血の混じった巨大な水柱を幾つも立てた。爆発音を凌ぐ大きな声を挙げながら倒れる目標へ尚も攻撃が続く。そしてヤツは、その身をゆっくりと相模湾に沈めていった。
『目標沈黙、生体反応を確認せよ』
上空を数機の対潜哨戒機が何度も行き来した。この哨戒機も不測の事態に備え、爆弾やミサイルを搭載している。次の報告を聞いた瞬間、その場に居た全員が安堵する。
『目標より熱源が消失しつつある。行動不能の状態になったと考えていいだろう」
『了解、全部隊は現状のまま待機、指示を待て』
太陽が昇って来た。陽の光りが相模湾を照らし出し、沖合いの艦艇の長い影が海上に伸びる。砲爆撃による煙が晴れていく相模湾の一箇所に、巨大生物の体が寂しく横たわっていた。