房総半島戦慄
夜が明け、銚子沖で巨大生物の捜索を行っていた艦艇部隊は横須賀へ一度引き返していた。再び空へ飛び上がった哨戒機は総数10機に増強され、捜索範囲の拡大と各機のカバーエリアを重複させて少しでも発見の可能性を高めようとしていた。
多くが海側の捜索に心血を注いでいる頃、房総半島田尻海岸の至近にある海洋生物環境研究所では、深夜から発生した停電騒ぎによって、実験設備が停止したり多くのサンプルデータが失われる危機に直面していた。幸いにも自家発電装置のお陰で難を逃れたが、電力会社への復旧依頼やデータの確認で施設は早朝から慌しかった。
そこから程近い御宿町に住んでいる同施設職員の大澤は、朝食を摂る間もなく停電対処の応援で呼び出され、研究所へ向けて車を走らせていた。
「ったく朝っぱらから、そもそも今日は休みだっつの」
海沿いをひた走る。施設の近くにあるペンションのオーナーが道路に出て、頭上の電線を不思議そうに見ていた。どうやらそこも停電の影響を受けているらしい。
「思ったよりも広範囲らしいな……」
車は程なくして施設に到着。しかし駐車場に入ろうとした瞬間、建物から出て来た上司の波佐間がそれを制した。助手席を開けて顔を中に突っ込んで来る。
「大澤ちゃん、悪いけど電線がどっかで切れてないか見て来てくれるかな」
「休みの人間を呼び出しといて何ですかそれは」
「電力会社の人に可能なら調べて欲しいってお願いされたんだよ。出来たら工事の人たちの誘導も頼むわ。夜勤メンバーはそろそろ帰さなきゃいけないし、まだ大澤ちゃんしか連絡取れてないからさ」
「何かしら手当て出るんでしょうね」
「金の話しは後だ後。頼んだよ、いいね」
佐久間がドアを閉めた後、大澤は渋々アクセルを踏んで海沿いの道を北上し始めた。すると大して走らない内に、電線が切れている光景を目撃して車を停めた。
「……何だこれ」
明らかに異様な状況だった。木々が薙ぎ倒され、電柱も圧し折られている。それ所か、道路のアスファルトも何かに押し潰されたような状態になっていた。正体は分からないが、巨大な物体がそこを通ったとしか考えられない光景である。
「取りあえず電話するか」
波佐間に電話をかけて電線が切れている場所を報告した。それが終わるとUターンして現場から少し離れ、ハザードランプを点灯させて発炎筒を道路上に置いた。
対向車線にも置いた方がいいと判断した大澤は走って引き返し、不安定になった道路の上を早足で歩いて向こう側に辿り着いた。そこで同じように発炎筒を炊いて路上に置く。これで2次災害は防げる筈だ。
それから約30分後、対向車線側から電力会社の要請を受けたであろう子会社の車がやって来た。路肩に停まった車から作業服の男性が降り立ち、大澤に近付いて来る。
「大澤さんですね? 関東設備電工の西林と申します」
「お疲れ様です。場所はこの先です」
西林をそこまで案内する。この異様な光景を見た西林の顔は、明らかに納得出来ていないものだった。
「大型ダンプが森の中を突っ切ったような感じですね。電線が一方向からの強力な力で引き千切られて、向こうの方に伸び切ってるな」
状況の確認を進める西林の後ろから、続々と作業着の集団が現れた。後続の人員が到着したらしい。
「何だこりゃ。何をどうしたってんだ一体」
「あれまぁ、酷いな」
「おいおい電柱までやられてんじゃねぇかよ」
協力関係にある警備会社が到着したのもあり、大澤はこの場を彼らに任せる事にした。対向車線の発炎筒を回収し、現場を通り過ぎて車に向かおうとしたその瞬間、悲鳴が上がった。
振り向くと、森の中から赤くて長い何かが飛び出して来ていて、数名の作業員を頭から一気に包み込み、体ごと引っこ抜かれていく光景を目撃した。
「な、なんだあれ!?」
「すげぇスピードだ!」
森の中からゆっくりと巨体を現したソレは、カメレオンのように膨れ上がるキョロキョロした目で他の作業員たちを捉えた。口はまだ何かを噛み砕く動作をしており、僅かに開く隙間から誰かの作業着が肉片と共に零れ落ちる。
「く、食ってやがるのか」
「おい、早く逃げるぞ! あれはやばい!」
「みんな逃げろ! 食われちまうぞ!」
口が開くと、さっきの赤くて長いのが飛び出した。どうやらあれは舌のようだ。それで獲物を捕らえて食べるらしい。また数名の作業員が舌に包み込まれて、そのまま怪物の咥内へ収まってしまった。
「警察、いや自衛隊だ! 巨大生物が出たんだ!」
「畜生! 死んでたまるかよ!」
他の作業員と同様、恐怖に駆られた大澤は急いで車まで走った。エンジンを始動させてアクセルを踏み込み、その場から一刻も早く離れようとする。
バックミラーには、こちらに向かって走って来る西林が舌に絡め取られて、視界外に凄まじい速度で消えていく光景が見えた。自分もああなってしまうのだろうかと言う考えを振り払い、車を走らせ続けた。
巨大生物はその後、逃げていく大澤の車には目もくれず北上を始めた。外房線の線路を破壊しながらゆっくりといすみ市に迫り出す。生き残った作業員の通報によっていすみ警察署は直ちに市役所と連携し住民避難の準備を開始した。
またこの情報は県警本部からそのまま管区警察局、警察庁へと駆け上がり、内閣官房に届けられていた。
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内閣府
官房長官こと青木延彦は、登庁直後に受け取った緊急の報告により、朝のコーヒーに1口だけしか手を付ける事が出来なかった。
「……夕べ報告があったやつか」
「海側の捜索に躍起になるあまり、本土への配慮が足りなかった模様です」
その報告書を運んで来た官房副長官の原田もまた、険しい表情でそう答えた。脅威が一旦は遠ざかったものと判断された折に再び訪れたこの災厄。今の内閣で対応仕切れるかは彼らに掛かっていた。
横須賀市巨大生物災害によって日本政府は【巨大生物】と言う新たな脅威の出現に対し、事前に可決されていた【国家存亡危機対処特別措置法】の一部を有事関連の8法目に制定。国民保護法へ内包すると同時に「巨大生物出現時における国民の保護」を主な内容とし、この10年間は「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」よりも上位に位置付けられていた。
また【国家存亡危機対処特別措置法】の多くは緊急事態基本法と対を成すよう新たに立ち上がった【巨大生物出現事態基本法】に名を変え、細部は改良を加えながら国民の疎開や首都移転に関する内容がほぼそのままで施行されていた。
「10年前は兆候から出現までに時間があったからな。止む無しか……」
「いえ、そのような楽観視は危険です。今後どうなるかは予想が出来ません」
「課題の1つではある。問題は、それを生かせる機会が我々に残されているか、だ。コイツが次こそ日本を滅ぼすような存在だったら、その機会は永遠に訪れる事はないだろう。10年前のように、当人がどういう気だったかは我々の及ぶ所ではないが、相手に致命傷を与えてくれたああいう存在がまた現れる訳はない。ここは何としても、自分たちの力で切り抜けなければならんぞ」
青木官房長官は直ちにJアラートの発令を指示。改良を重ねて来た巨大生物出現事態基本法のガイドラインに則り、有事関連情報の6種類目として位置付けていた巨大生物出現情報の通知を行った。
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いすみ市
海沿いの静かな町として知られているいすみ市は、混乱の最中にあった。防災無線からは繰り返し同じ放送が流れ続けている。
『巨大生物出現情報、巨大生物出現情報。当地域に、巨大生物が出現しました。自治体、警察、消防の指示に従い、直ちに避難して下さい。巨大生物出現情報、巨大生物出現情報。当地域に、巨大生物が出現しました。自治体、警察、消防の指示に従い、直ちに避難して下さい』
朝の穏やかな時間を破るかのように発せられたJアラート。聞き覚えのないその言葉に、誰しもどうしていいか戸惑っている。
千葉県警は直ちに機動隊を出動させ、いすみ市の以北と以西に住む人々の避難、またそこへ向かおうとしている人の流れの遮断を開始。同時にSATへ狙撃装備のまま出動待機を命じ、いすみ市の住民たちを全て避難させるべく、完全装備の銃器対策部隊を急行させた。
警察に何が出来るのかと言われそうではあるが、政府の巨大生物有事を想定した法整備に伴い、警察にも極限定的ではあるが対処能力が付与されていた。それまで日本警察では採用されていなかったリボルバー式グレネードランチャーを導入し、発煙弾やIR照明弾に通常照明弾、各種マーカー、閃光弾を装備化。これによって、十分な距離がある内は発煙弾を使用して身を隠し、距離が縮まれば閃光弾を使用して視界を奪い、その間に安全圏へ退避するマニュアルが用意されていた。2種の照明弾やマーカーは自衛隊との連携において各種支援を行う事が狙いで採用されたものである。
SATにおいても自衛隊へ納入実績のあるバレットM95を各班に対して配備。万一の際には目や口腔内を狙って射撃し、目標を怯ませる事が主眼とされていた。
最もこれらの装備については、民間人の避難輸送中に巨大生物と遭遇した場合等に止む無く使用するのが想定されたものであり、こちらから積極的に近付く事は当然だが念頭に入れられていなかった。
従って銃対隊員たちもまた、自らが巨大生物に接近していく事に対して言いようのない不安を覚えていた。だがそれも束の間。彼らを運ぶ青色の人員輸送車と、民間人防護を目的として追従する特型警備車の車列は、いすみ市へと現地入りを始めていた。
部隊は一路、いすみ市役所へ集結。部隊長の中屋敷警部は避難作戦を取り仕切っている市長と警察署長の元を訪れた。
「中屋敷と申します」
「市長の森田です」
「いすみ署署長、青山だ。早速だが警部。報告のあった巨大生物は外房線と国道128号線を破壊しながら北上しつつある。現在の位置は大体だが浪花駅の手前ぐらいだ。可能なら部隊を2つに分け、この市役所と駅の中間にある民家の避難を急がせて欲しい。高齢者が多くて移動に時間が掛かっている地域だ」
「承知しました。因みにですが、巨大生物から何か攻撃的な行動は確認されているでしょうか」
「潜んでいた付近で破壊された電線を修理するために向かった電気工事業者の作業員数名が、長い舌で絡め取られた後に捕食されたとの報告が来ている。それ以外で熱線を吐くなどの行動はまだ未確認だ」
10年前の事を考えると、これは非常に重要な情報だった。巨大生物が何かしらの間接的攻撃を行うだけで、こちらの行動は大きく制限される。そのせいで横須賀では犠牲者の数が膨れ上がったのは記憶からどうやっても消す事は出来なかった。
「現在、県警の航空隊がドローンによる挑発と偵察を試みている。何か進展があればすぐに伝えよう。最も、肉眼で確認出来てしまう可能性の方が高そうだがな」
「了解。これより隊を分割し、民間人の避難誘導に入ります」
中屋敷が敬礼する直前、地を這うように不気味で低音の鳴き声が聞こえて来た。その場に居た職員や警察官、消防吏員たちが思わず手を止めて周囲を見渡している。森田市長は鳥肌を収めるように全身を擦っていた。
「急いだ方がいいようだ。この辺は我々に任せろ。頼んだぞ、警部」
「はい、直ちに向かいます」
市役所を飛び出した中屋敷は駐車場へと急いだ。副部隊長を前に整列する部下たちの元へ合流し、青山からの命令を伝える。
「目標は現在、こちらへ向かっている最中だ。我々は隊を2つに分け、浪花駅と市役所の中間にある民家の避難を行う。高齢者が多いそうだから慎重に対応しろ。特型警備車には高齢者と付き添いの人間を1名ずつ乗せ、残りは人員輸送車に分乗させる。第2第4分隊は加瀨副部隊長の指揮のもとで行動してくれ。第1第3分隊は私と共に行動する。急ぎ分乗し、巨大生物が到達する前に可能な限りの民間人を救出するぞ。いいな」
全員が腹の底から絞り出した返事を搔き消すように、また不気味な鳴き声が聞こえて来た。人間と言うより、聴力のある全ての生き物を尻込みさせるような声だ。
隊員たちの顔が一瞬だけ歪んだのを見逃さなかった加瀨副部隊長は間髪入れず、指示された通り第2第4分隊長の2人を叱咤した。
「行くぞ、第2第4分隊! 直ちに乗車!」
意識を引き戻された隊員たちがワラワラと乗車を始める。最後に乗り込もうとした加瀨を、中屋敷が呼び止めた。
「済まん」
「いえ。それより、十分に注意して下さい」
「分かっている。そっちは頼んだぞ」
こうして銃対は2個分隊ずつに分かれて行動を開始した。巨大生物の姿はまだ見えないが、隊員たちは自分の役割をこなす事だけを考えながら、車両は進んでいった。
ここまでの主な登場人物
青木延彦 61歳 官房長官
原田 60歳 官房副長官
中屋敷警部 38歳 銃器対策部隊長
加瀨警部補 36歳 銃器対策部隊副隊長




