Confesess-7 5
第五章
その日、天美は午後のジョギングをしていた。突然、学校が休校になってしまったので、時間が余ってしまったからだ。
そのとき、自宅であるマンション港豪苑を出ると、誰かの視線を感じていた。その誰かというのは一人ではなかった。二人いや三人ぐらいか、
そのまた翌日、前日と同様に、彼女は朝のジョギングに出かけた。そのときもまた、数人の代わりばんこの何者かに注視される気配を感じていた。
どうも、彼女を見張っている人物は女性のようであった。その女性は、いつも別人なのだが、彼女たち全員には大きな共通点があった。どの女性も二十代から三十代、横に小さい子供を連れ、もう一方の手で携帯を持っていた。
そして、それからも、外出するたびに同様な視線を感じていた。その都度、人物は違うが、天美を見張っているのは確実である、
天美は、うすら寒さを覚えた。おかしな集団に自分の行動が見張られていることに、
彼女は競羅に相談をすることにした。
競羅は天美の部屋で、驚いたような口調で声を出した。
「それで、学校は突然、休みになったのかよ」
「そう、びっくりしちゃった。みんな、唖然としてたし」
「何にしてもよかったよ。数弥が文句を言っていたからね。学校に行き続けることを」
「しかし、数弥さんらしいというか。わったしのこと思ってるから、と思うのだけど」
天美はここまでは笑っていたが、少し慎重に声を落とすと、
「ざく姉、ここに来るときに妙な感じ、しなかった」
「そんなのしなかったけど」
「でも、帰り気をつけた方がいいよ。誰かに見張られるかもしれないから」
「えっ、それってどういうことだよ?」
当然のように聞き返した競羅。そして、天美は競羅に向かって、十数人の怪しげな女性たちに、代わりばんこに見張られていることについて話した。
話を聞いた競羅は難しい顔をして口を開いた。
「自意識過剰と言いたいことだけど、あんたに限っては、そんなことはないと思うから、これは少し深刻な問題だね」
「そう、本当に困っちゃった。外に出るたび見張られてるなんて」
「それで、その相手はいつも違うのだね」
「いつもというか、時間でも違うの、途中で何人も見張る人間、変わるというか」
「それで、その見張りは女性で、子供を横に、いつも引き連れているということか」
競羅はそう答えながら、少し厳しい表情をしていた。そして、言葉を続けた。
「それで、あんたは、どうするつもりなのだい?」
「その女性たちの、あとつけて欲しいの。わったしはできないから代わりに」
「なるほど、逆尾行をして、何者か突き止めるのか」
「そう、その役割、所長さんに頼んで欲しいの」
「御雪にかよ」
競羅は苦い顔をした。
「だって、わったしの、ちから知ってるし、相手、女の人たちでしょ」
「御雪ねえ」
競羅は思わずそうつぶやいた。御雪というのは、外村御雪といって、私立探偵事務所の所長のことだ。言葉通り、天美の能力を知っている一人で、過去、天美を助手にし、その能力を自分の仕事に利用をしていた。だから、競羅はいい顔をしなかったというか、
「だめなの」
天美の言葉に競羅は思案を続けていたが、やがて、
「わかったよ。あいつに頼んでおくよ。よく考えたら、尾行なんていう面倒な仕事は、専門職の方がいいからね」
と言って了承をしたのであった。
オーナーは面白くなかった。せっかく、ここまで築き上げた学校だ。それを、予期せぬ出来事のせいで閉鎖しなくてはならなくなったからだ。
その怒りの矛先は、天美に向いていた。それは、逆恨みなのだが、彼は思っていた。
〈あのセラスタの少女さえいなければ、奴さえいなければ学校は続けられたのに〉と、その、もんもんとした気持ちのとき、ウォルから連絡があった。
「学校は予定通り、休校になったみたいですね」
「まったく、面白くないことだよ。あの小娘のせいでな」
オーナーはその声に毒づくように答えた。
「実はそのことで、先生に話を持ってきたのですよ」
「わしに話だと」
「はい、今回の補習に出ていた少女について、話をしたいという方がおりまして」
「どういうことなんだ?」
「詳しい話は、その方としてください。もうすぐ、連絡があるはずですから」
ウォルの言葉通り、電話を切ってから五分後、そのオーナーの携帯に着信音が、登録をされてない番号であったが、彼は反射的に通話ボタンを押した。
すると、受話器の向こうからは、ねっとりとした男の声が。
「先生という方ですかな」
「そうだが。君がウォルの話していた男か」
「さようです。あなた様のお力になることについて、同盟を通させてもらいました」
「同盟、ああ、あそこはそう言うのだったな。それでどういう用件だ? なんでも、補習の少女についてということだが」
「まず、最初に話しておきましょう。その少女は、ただものではないということです」
「それはわかっている、セラスタマフィアの関係者だろう」
「まさか、さようなたぐいではないことだけは間違いないですな。手前どもとは別の対立軸と申しますか。それがし自身は対峙したことはありませんが。手前どもの組合人が何人か煮え湯を飲まされたとか」
「君たちは、いったい何ものなんだ?」
「ある機構と申しておきましょう。まだ、お名前は勘弁ねがえますかな」
「もしかして殺し屋の一団か」
「だとしたら、いかがなさいます」
「わしには関係ない話だが」
「さて、それは、どうですかな。あ奴コァンフェセスと関わったのですからな」
「コンフェセー? はて、何だそれは?」
「あ奴のあだ名です。手間どもはそう呼んでおります。色々と厄介な相手ですな」
「そいつは、わしにとって害になるのか」
「まずはなるでしょうな。でなければ、たかが小娘ごときに話なんて持ってきません」
「どのような害になるんだ?」
「ふふ、おわかりでしょう。あなた様の将来です。何でも、今は大変な時期とか」
相手は、よりねっとりした口調で迫ってきた。
「どこで、それを?」
「手前どもは、すべてお見通しなのです。おそらく、手前どもの経験から、このまま、コァンフェセスをほかっておいたら、必ずあなた様の夢はついえるでしょう。何て申しましても、あ奴に非常にまずいところを見られたのですからな」
「そうとは限らないだろう」
「この期におよんで、まだ眠たいことを言っておられますな。なぜ、手前どもがあなた様に、この話を持ってきたか、よくよくお考えください。さて今日の話は、これでということで、また数日ぐらいたったら、連絡を入れさせてもらいます」
謎の相手はそう言うと通話を終えた。
通話の後、オーナーは考えていた。
〈今の不気味な口調の男、話の筋から見ても殺し屋だな。しかし、こんふぇせすか、かなり、妙なことを言っていたな。まあ、あいつに確かめたらわかることだ〉
と思うと、ウォルに連絡する通話ボタンを押した。すると、待っていましたとばかりに、
「先生ですか、どうでしたか?」
ウォルの声がした。先ほどの男と全く違って明るい口調だ。
「さっきの男だけど、あれは殺し屋だろう」
「そうみたいですね。ぼくは頼んだことはありませんけど」
「陰気で、つかみどころのない男だな」
「ですが、聞くところによると、そうとう腕が立つみたいです」
「そんな連中と、どうやって知り合ったんだ?」
「以前も話したでしょう。ちょっとした集まりがあって、参加をしているって。あの男は、つい最近、それに加わってきたのですよ」
「どのような集まりだ?」
「前も言いませんでしたか、お互いのためにも、知らない方がいいことがあると」
ウォルの口調が神妙になった。
「そうだったな。まあ君たちにも色々とあるのだろうし」
オーナーは引き下がった。心中では、どうせ、日本について、よからぬ企みをしている外国人犯罪集団の横の連絡会議だろうと、そのあと、思いついたように言った。
「そこで、あの殺し合った二人についても発表をしたのか?」
「ぼくはしませんでしたけど、すでに、ソムン将軍から聞いていたものがおったようで、議題の中には、そのことも入っていました。結局、ぼくも先生との関係者ということは、知られてますので、問い詰められまして、裏付けを取ることになってしまいました」
「うーん、そうか、仕方がないな」
「そういうことで、集まりが終わったあと、あの男が向こうから接触をしてきたのです」
「どうしてだ?」
「だから、その少女の話題が出たからでしょう、何か相当の因縁があるみたいですね」
「そうだ。あの男、小娘をほかっておくとわしの将来がなくなると、ぬかしおった」
「ぼくも同じように思いますよ。今は、どんな小さな芽でも摘んでおきたいのですが、やはり、相手が相手ですので簡単には手はだせません。向こうに任せた方がいいでしょう」
「しかし、こんふぇえす、だったか、妙な名前だな」
「セラスタでは、そういう二つ名がついていた少女ということです。何でも大きな犯罪組織の一つがつぶされた、と言っていましたから」
「すごい話だな」
「話半分としていた方がいいでしょう。それに、こんふぇせすですか、その少女のことは前々からも発言をしていたのです。『こんふぇせすが日本にきたから要注意だとか、政審会長のことも、こんふぇせすによって失脚をさせられたとか、最近の二人の大臣の逮捕にもからんでいる』と、僕たちに関係がないことですから、適当に聞いていましたが」
「えっ、彼らの逮捕にか!」
「そうです。本当に話半分だとしても、かなりのくせ者ですよ。そうでなければ、大の大人が、あんなまじめな顔をしてお話をしてくるわけはないでしょう。そういうことで、ぼくとしては、先生のこれからのことを考えますと、男に頼んでの排除をおすすめします。先生にとって、本当に今が一番、大事な時ですから」
そして、ウォルの通話は終わった。
数日後、オーナーの方に、謎の男から二度目の電話がかかってきていた。
「どうです、決心がつきましたかな」
「決心とは何のことかな?」
オーナーに取っては見知らぬ相手、まずは、様子をみることにした。
「むろん、コァンフェセスの件です。そろそろ決心が必要でしょう」
「そうだが、それは、まだ何も考えていない」
「本当ですかな、我慢はよくないですな。あなた様はコァンフェセスに大きな恨みを持っていますな。あ奴がいなければ、アクシデントにつまずくことなんてなく、まだ学校を経営できたのですから。だが、コァンフェセスは、先生たちでは、何とかなる相手ではなかったみたいですな。みな、素性を知ると尻込みをしだした。だから、あなた様としても我慢するしかない。そのお気持ちは、それがしも痛いようによくわかります」
謎の男の言葉にオーナーは無言になった。そして、男は言葉を続けた。
「しかし、相手はコァンフェセス、これで、終わるようなことはありませんな。ウォル氏からも聞いているでしょう。あなた様にも司直の手が伸びるかもしれません」
「ま、まさか」
「さて、どうですかな。たとえ、直接伸びなくても、あなた様の地位はおしまいですな。おそらく、あなた様は、そのことで毎日おびえているのでないですかな」
「そ、それはない!」
「果たして、いかがですかな。あなた様も経験からよくご存じでしょう。わずかな、ほころびから、すべてが崩壊することを。だが、今回のほころびは直すことができない。ですが、ほころびというのは直すことができないと、どんどんと、ほずれていき・・」
「や、やめてくれ! 君まで、わしを苦しめるのか」
「苦しめてはいません。逆に苦しみを取ってあげようと申し上げるのです」
「ほ、本当か」
「ウソは申しません。ですからこそ、あなた様にこのように接しているのです」
「一応、話を聞こう」
そして、オーナーは話を聞く気になった。
「さようですか、助かりますな」
「やはり、あの小娘の一味はわしを脅迫してくるのか」
「脅迫はしてきません。ですが、当局に通報される可能性は高いですな」
「ま、まさか」
「先ほどと同じアクションですな。やはり、当局は怖いですか?」
「そ、そんなことはない」
「無理をなさらないで結構です。誰でもいやな者です。さて、コァンフェセスの話になりますが、あ奴は手前どもと別な正義感を持っていますな、フスティシアですか」
「フスなんだって」
「ですから、フスティシア、ラテン語で正義という意味です。手前どものフスは、世の中で大きく貢献しているものたちを助けることなのですが、あ奴は違いますな、ちっぽけなミスを見逃さず、世の中に役に立つ人たちを、そのミスを、ことさら大きくして司直に引き渡す、という妙な考えをもっております」
「そう言えばウォル君が言っていたな。大臣たちの逮捕にも絡んでいたと」
「ウォル氏から聞いておりますか。まさに、その通りです。彼らもコァンフェセスにかかわったばかりに、可哀想なことになりましたな」
「だが、わしとしては関係がないと思うが」
「さて、いかがでしょうか、あなた様もわかっているはずです。あの学校で起きたという騒動ですな。それで、あ奴に妙な正義感が生まれたとしても否定はできませんな」
「だが、まだ、わしのところに警察の内偵は入っていない」
「何を言っておるのですかな。警察が入ってからでは遅いのですよ。警察がこの件で、あなた様のもとに来るということは、先生と学校、つまり、あなた様とユン校長の関係を、つかんでいるということですからな。そうならないためにも先生には決心が必要なのです」
「だが、さすがに・・」
オーナーの煮え切らない態度に男は次の言葉を、
「さて、まだ、ご自分の立場が、よくわかっておられないようですな。もう、しばらく時間が必要かもしれませんな。手前どもの連絡番号はそちらの携帯の画面に映っているはずです。頼む気になりましたら、遠慮なくおかけ願えますかな」
そして、謎の男との二度目の通話は終わった。
天美と競羅は話し合っていた。
「確かに、あんたの言う通り、おかしな尾行がついているみたいだね。今も、ここの玄関が見通せる場所に子供連れの女性の姿が見えたよ」
競羅はそう報告をしていた。今回も天美のマンションに来ているのだ。
「また、いるんだ。それで、あの人たちの素性、やはり、わからないの?」
「ああ、どうも、最初から役割が分担されているみたいでね。女たちは別の女性に尾行の役割を引き継ぐと、判で押したように雑貨店、グランデ何とかというところに入っていくのだよ。そこで、買い物を数時間するみたいで」
「グランティエンダのことね。スペイン語で大きなお店という意味。あの店、本当に便利よね。欲しい物、何でも売ってるから」
天美は白い歯を見せて答えた。実際、しょっちゅう行く店だからである。
「だから、厄介なのだよ。すべての階が陳列した商品などで迷路になっているところだからね。ベテラン刑事でも、あそこに入り込まれたら一人や二人では無理だね。本当にややこしい場所だよ。御雪もくやしがっていたね」
「そういうことだったんだ」
「それにね、一度、絵里が接触をしたんだ。『そこで、何をしているのだよ?』と、そのとき、横にいた子供が大泣きしたみたいで、人が集まって大事になったのだよ。こっちが思うには、それも向こうの作戦の一つだよ。特定の人物を見張るときのための台本というか」
「わったしもそう思う。今回の組織、こういうこと慣れてるみたいね」
「何にしても、これからは、あんたも外出は控えた方がいいと思うよ。ここは、ホテルに宿泊をしてるみたいなものだから問題はないとしても、外はそんな状況だから」
「それはダメ。運動だけはきちんとしないと、いけないから」
「走る事だろ。そんなような器具、ここには、いくらでもあると思うけどね」
競羅がいうのは、フィットネス用のトレーニングマシーンのことだ。やはり、高級マンション、ルームランナーを含め、一通りの運動器具はそろっていた。
「でも、雨の日以外は、どうしても外走らないと、そうしないと、気分よくないし」
「そういうことなら、仕方がないというか。まあ、こっちも、そこまで止める権利はないしね。でも気をつけるのだよ。本当に何かの作戦の前段階かもしれないからね」
「わかってる」
天美はそう答え、競羅はマンションをあとにした。
オーナーは、その日も悪夢を見た。息子のユンが警察に捕まった夢だ。目が覚めたとき、汗びっしょりになったオーナーは思わず謎の男に電話をかけていた。
「先生ですな。お電話をお待ちしてました。手前どもに頼む気になられましたか」
「なったよ、それで、君の方の条件だが」
そのオーナーの声をさえぎるように、相手の男は言った。
「どうも、本交渉になりそうですので、ここからは、それがしのことを君ではなく、デネブと呼んでもらいたいですな」
「デネブだと」
「呼称です。遠い遠いところにある星の名前ですな。あなた様との交渉について、上からその名前をいただきました。これからはデネブで何卒よろしく、お願いします」
「わかった。それで、あらためて聞くが、デネブ君は今回の少女を何とかできるのだな」
「さようです。それが手前どもの仕事です。実は手前どもは、あ奴へのフスの準備を整えている最中で、あとはクラメンを探すだけという状況だったのです」
「どういう意味だ?」
「それがしは、前のご連絡のとき、確か、あなた様に『手前どもの組合人が何人か煮え湯を飲まされた』というようなことを話しましたな」
「そうだったな」
「ですから、手前どもは、何としてでも、あ奴にフスを実行したいのです。それにはクラメンが、どうしても必要でしてな」
「クラメン? それって何だ? さっきもそう言っていたが」
「クライアント、メン、依頼人です。手前でもは、どんな場合でも、クラメンがいないと動くことができないのです」
「そうなのか」
「さようです、それ以外のフスは機構が絶対に許しません。これは、昔から破ってはならない機構の絶対的な決まりの一つなのです」
「面倒な話だな、それで、わしに話を持ってきたのか」
「さようです。いかがですかな、手前どものクラメンになってもらえませんでしょうか」
「それはまあ、そのつもりなのだが、うーん」
オーナーの言葉に助け船を出すようにデネブは言った。
「つまり、あとは、ビジェーのことですな」
「何だ、それは?」
「わが機構での依頼料という意味です」
「そう、それだ。いくらぐらいになるんだ」
「ざっと、これぐらいですかな」
デネブはそう前置きを言うと金額を口に出した。その値段を聞いたオーナー、
「わかった。それぐらいが、専門職の相場なのだな」
「いや、オブメンによって違ってきます」
「オブメン?」
「標的です。これも、オブジェクト、メンの略ですな。今回は手前どもの都合ということで、このあたりで落ち着いたわけで、本来なら、もっともっと高額になります」
「そうだろうな。たかが小娘だからな。それで、どうやって払えばいいのだ」
「まずは、前金に千ドルを加えて、あなた様の同胞、ウォル氏という方に渡してもらえば結構です。ウォル氏から手前どもの機構に渡されることになりますので、千ドルは、その手数料で前金はビジェーの半額と言うことになっております」
「理解した。それでたのむ」
「では、そのときにリート成立ということですな。リートというのは契約という意味です」
「これで、悩みは取れるということか」
「さようですな。準備も進んでおりますし、あとは、吉報をお待ちいただければよろしいかと。しかし、これで、あなた様の憂いは確実になくなりますな。では、さようなことで」
デネブは自信満々な口調で通話を終えた。
事件は次の日の朝に起きた。その日も天気は雨ではなく、天美は日課のジョギングをしていた。そして、天神山公園に入ったとき彼女は一人の少女を見つけたのだ。
年は四才ぐらいか、その幼女は泣きべそをかいた顔で、まわりをきょろきょろしていた。
天美が、その幼女を見たのは今回が初めてではなかった。たまに、母親と一緒に公園を散歩しているからだ。天美は足を止めると、その幼女に声をかけた。
「確か、いつも、お母さんと一緒にいる子よね」
「あっ、お姉ちゃん、わたしのこと、覚えていてくれたんだ」
幼女は少し微笑みながら答えた。
「そうだけど、今朝はお母さんいないみたいね。はぐれちゃたの?」
「そう、どこかいっちゃったの」
「どこかって、トイレじゃないの」
「トイレとは違う方向だった」
「となると、本当にどこかなあ?」
「向こうの方向だった」
幼女の指さした方角は入口である。そして、天美は言った。
「あっちは正面入口だから、きっと、何か忘れ物、取りに行ったのね」
「でも、さとみ、ずっと待ってるし」
「さとみちゃんって言うんだ。しっかりしてるね」
「そんなことないけど、それで、おねえちゃん」
「どうしたの?」
「いつも走ってるのを見るけど、そうやって走っていて楽しいの?」
その幼女さとみの質問に天美は一瞬、戸惑った。何か、馬鹿にされたような感じがしたからだ。だが、すぐに思い直すと。
「楽しいってわけでないけど、身体、鍛えないといけないから」
と苦笑しながら答えた。苦笑をしたのは、自分自身が妙な質問をして、競羅や御雪に妙な顔をさせていたのを思い出していたからだ。
一方、相手は幼児である。そのまま、くったくのない顔をして言葉を続けた、
「ふーん、からだを、きたえているんだ」
「そう、病気にもかかりにくくなるし、自分のこと自分で守らないと」
「そういうことなら、さとみも走った方がいいかも」
「大丈夫、結構、きついと思うけど」
「きついって、どれくらいなの?」
「それは、人それぞれじゃないかな。そうだ、まず入口まで一緒に走ってみる」
「いいの?」
「むろんよ。入口はわったしも帰る方向だし、さとみちゃん見つけた限り、ここに一人で置いてくわけにいかないでしょ、入口には大勢、人いるしね」
「ありがとう、本当はここに一人でいるの、こわかったんだ」
「では、そういうことでね。入口までレッツゴー」
天美はそう言い、二人は入口まで走っていった。
天神山公園の入口、そこは、都会の公園の正面口らしくにぎやかな場所であった。歩道には、朝早く会社に向かう人たちが往来していた。また、目の前には片側二車線の道路があり、数台の車がひっきりなしに走っていた。
正面入口に着くと、天美は幼女さとみに向かって尋ねた。
「ここが入口ね、どう、疲れた?」
「大丈夫、これぐらいの距離なら」
「よかった、さて入口まできたけど、お母さんらしい人、見つかった?」
「うーん、いない」
そのとき、女の人の呼ぶ声がした。
「さとみちゃーん、さとみちゃーん」
「お母さんかな」
天美は尋ねた。
「お母さんじゃないけど、教会で何度も聞いたことがある声」
さとみは一旦はそう答えたが、すぐに、
「ソウ、イマ、キコエタノ、ママノコエネ」
とはっきりとした口調で言い直した。
「やっぱり、そうだったのね。よかったね。確か向こう側から声したと思うけど」
そして、天美は道路の対岸を見つめた。対岸の歩道にも同じく、会社に向かう人たちが数人歩いていた。天美は幼女の母親の顔を、かろうじて頭に思い浮かべたが、それらしき人物はいなかった。そして、さとみが、はずんだ調子で次の言葉を。
「ミテ、アソコデ、ママガテヲフッテイル!」
何となく劇を演じている感じであったが、天美は気がつかなかった。
「でも、そんな人いないけど」
「アノロジノオク、モットマエニデナイト、ミエナイカモ」
さとみが向かいの路地の方を指さし、そして、天美は確認をしようと少し道路よりに身を乗り出した。すると確かに、ビルの合間の場所で手を振っている女性がいた。
「あの人かな、お母さんとはちょっと違う雰囲気だけど」
天美が見つめる中、その女性は手を振る動作をやめた。そして、いきなり、両のひらを前に押し出すポーズをしたのだ。
とそのとき、天美の背中にドンと衝撃が走った。あれ?と思ったとき、彼女の身体は宙に浮いていた。そして、その目の前には道路を走る大型トラックが、
天美はいつのまにか道路に押し出されていたのだ。突然のことで、避けるまでもなく大型トラックは、宙に浮いている彼女に向かって襲いかかってきた。