その二「生肉とパン」
第二話
事情聴取を終えたホープが、使用人の開けた屋敷の門を出ると、塀に寄りかかってちょこんと座り込んでいたエコーが顔を上げた。
「……終わりましたか?」
「ああ。まだ待ってたのか」
気長なことだ。
もう夕刻であった。日は傾き、町まで続く道はオレンジ色に染まっている。さっきまで集まって騒いでいた野次馬たちの姿も無い。
エコーは塀に手をつき、自らの軽く小さい体をよろよろと立ち上げ、やっとバランスを保ってから、両手でスカートの尻を軽くはたく。
「もう、帰るんですよね……?」
上目遣いにホープを見る。
ホープは、ため息をついてから頷くだけ頷いて、ゆっくりと歩き出した。
エコーは少しあわてた様子で後を追ってくる。
二人の長い影が、のっぺりとした何もない草っ原を舐めるようにして付いて来る。
エコーは、ホープの後ろをエコーなりの大股で歩きながら、語りかけてきた。
「あの」
「何だ」
「あの――」少し言いづらそうに。「私、ちょっと見ました。町の人たちに運び出されてく、お二人の遺体」
「……見たのか」
「はい。あの」
「何だ」
「ちょっと、私の店でお茶でも飲んでいきませんか?」
――こんな小さな田舎町にも、金持ちの家は一応いくつかあるもので、ダヴィドフ家がそのうちのひとつだった。
かつて都で貿易産業を営み、一代にして有力者と呼べるまでの財産を築き上げたバルカ=ダヴィドフ氏は、ここのところ――といってももう十年以上前からその兆しは見え始めていたが――諸問題から静かに冷え始めた近隣国との関係を察し、六年前、傍目からは上り坂にみえていた事業を全て切り上げて、妻のキャメルと共にこの町に隠居を決め込んだ。その時に建てたのが町外れの屋敷である。
今は息子夫婦と孫娘が同居しているが、その家族は、単に、贅沢をしても十代遊んで暮らせるだけのバルカ氏の財力に養われているに過ぎない。
家事の全ては、若い女使用人が行う。
ダヴィドフ家は、今、一切何の苦もない生活を送る者たちであった。
それで貧乏人から疎まれたりしていたかというと、そうでもない。
彼ら――正確には老夫婦と嫁のロゼは、町の財政や治安維持、それから教会に少なからず貢献していた。
町の様相の一部を変えてしまうほどの、多額の寄付と、奉仕活動によってである。
彼らに助けられ感謝する者は数知れない。
しかしそんな老夫婦が、今日、二人まとめて殺害された。
「発見者は使用人。現場は婦人の寝室だが、部屋には鍵がかかっていた。内側からな」
ホープは熱い紅茶に少し口をつける。
「その中に二人の死体が、重なるように倒れていた。下にキャメル婦人、上にバルカ氏。二人ともうつ伏せで、血まみれだった」
エコーは木のトレイにバター入りのクッキーをのせて運んできた。
「……内側から鍵が?」
「ああ、外から開けられるもんじゃなかった。中には最初から二人しかいなかったらしい」
「じゃあ――」
エコーはホープの正面に座る。
「――誰が?」
眉をひそめて首をかしげている。
ホープはティーカップを置き、頭を垂れる。
「誰も……できなかったって事になる。なってしまう。これじゃあ調べようが無い」
こういった事件の基本は、怪しそうな人物、犯行が可能だった人物を片っ端から調べ上げて証拠をつかむことだと思っていたのだが。
「何日かすれば、都から専門の捜査員の人たちも来るんですよね。本格的に調べれば、もしかしたら抜け穴とか見つかるかも知れませんよ」
「何日かすれば、な。それまで、この町にいるのは俺とエピックの二人だけだ。田舎警官二人で、何が出来るか……。少なくとも今、人殺しは野放しだ」
ホープは天井を見上げた。
吊るされたランプの中で、炎が静かに揺れている。二人の出ていた間にアイスブルーが点けたらしい。
そういえばエピックは出て行ったようだ。今頃どこかで休んでいるのだろうか。
エコーは、おずおずと前に乗り出し、ホープの顔を覗き込んでくる。
「ホープさん、不安なんですか?」
「……そうだな」
即答に近かった。
殺人事件、死体。いずれも慣れたものではない。神経は太く、剣の腕も立つが、そんなこととはほとんど関係が無いのだと実感している最中である。
しかも発生したのは、理屈の通らぬ事件だ。
今ホープの心中を満たしているのは、収まりのつかない焦燥感と、どうしようもない虚無感であった。
おかしい点は他にもあった。
「そう――」
ホープは思い出して語る。もっとも、エコーなどに語ってどうなるものでもないだろうが。
まずキャメル婦人の肉体について。
全身の至る所を無残に切り裂かれるか引き裂かれるかして、大量の血液でバルカ氏の体と絨毯を黒々と染め上げ、壁に模様を描いていた。
直接の死因は分からないが、不審だったのは傷口である。見たこともないような傷跡だった。刃物にしては鈍い。他の武器――こういう場合は凶器と呼ぶのか――でも、ああはならない。戦斧だってもう少し鋭い傷になるはずだ。
まあ第一に、凶器らしい凶器がその場に無かったのだが。
「あれはまるで――」
最後は呟きとなる。
「獣に――」
「え?」
エコーが首をかしげる。
すとん、と音がした。見ると、階段の下にアイスブルーがいる。彼女の足音だったらしい。
エコーが声をかける。
「起きてたの?」
アイスブルーはいつもの通り何も言わず、ただ尻尾をゆらりと動かした。
エコーは申し訳なさそうに続ける。
「ごめんね……私、結局役に立てなかった。せっかくあなたが――」
アイスブルーはふいと細長い顔を背け、しなやかな動作でドアの方へ歩いてゆく。
おい、と引きとめようとするホープの声も無視し、彼女はそのまま外へ出て行ってしまった。
そして沈黙だけが残った。
エコーがぽつりと口を開く。
「他に、何か気付いたこととか、無かったですか?」
「ああ……」
合点のいかないところが、もう一つある。
全身を引き裂かれたキャメル婦人の死体は血まみれだった。これは分かる。
だが、その上に折り重なって倒れていたバルカ氏まで、なぜあんなにも、全身くまなく血に染まっていたのか。
バルカ氏の死因はどうやら、後頭部に出来た傷だったようだ。何か硬い物で殴られでもしたのだろうか、老化した頭骨の一部が少し窪んでしまっていた。
まず婦人が引き裂かれ――方法はさておき――、その上に、撲殺された氏の死体が重なる。
それでなぜ、氏の全身が血で汚れることになる?
まさか。
語りながらホープの思考をひとつの考えが過ぎる。
バルカ氏が何らかの理由で婦人を殺害し、その後、別の何者かによって氏も――
いや駄目だ。それでは血の説明がつかないし、その何者かがどうやって外に出たのか、その答えにも繋がらない。第一ただの老人であるバルカ氏にあんな殺害方法が可能であるわけはない。……もっとも、若者にも無理だろうが。
口には出さなかった。
エコーはクッキーを指先でつまんだままホープの話を黙って聞いていた。
そして話が終わると同時に、食べようとして、やめる。理由は考えるまでもなかろう。
小さな口が開かれる。
「え、と」
「何か分かったのか?」
「……ごめんなさい。何も分からないです」
「そうか」
またカップを口に運ぶ。
紅茶が――程良く温く、やけに美味い。
こんなに美味かっただろうか。
ホープは暫しその香りと味に酔いしれた。
実に意図的に、ひとときだけ酔いしれることにした。
ドアが乱暴に開く。
「よう、晩飯食いにきたぜ」
入ってくると同時にそう言って、わはは、と無意味に、それでいて豪快に笑ってから、ホープと同じくらい底の分厚いブーツで床をごつごつ踏み鳴らしながら歩いてきたのは、拳術家の七星という女だった。
七つの星と書いて、ななほしと読む。変わった名前であるのもそのはず、何年か前にどこぞの国からやってきた流れ者らしい。しかし正確な出身地は聞いたことが無い。
統一破壊直前から初期にかけてこの王国で広く教えられていたという、デスアーツという名の古臭く胡散臭い格闘術を学ぶためにわざわざやってきたそうだが、実際に来て調べてみたところ、そんなものは文献にしか残っていないことが分かり、さっさと修行を諦めて酒場の用心棒になってしまった変わった奴だ。何のためにこの国に来たのか分からない。
伝説のデスアーツこそ体得できなかったものの、元々かなり腕は立つ。歳は二十六。ホープたちより少し上である。
七星は断りも無く二人と同じテーブルについた。
椅子の上に胡坐をかき、すぐさま餌を見つけて即座に手を伸ばす。
「クッキーかあ。気が利くじゃねえか」
次々につまんでは口に放り込んで、ぽりぽりぱりぱりと食べる。
クッキーはみるみるうちに消えてゆく。
最後の一個を飲み込み、ほとんど残っていたエコーの紅茶を飲み干し、指を舐めながら満面の笑みで感想を述べる。
「うめえや」
短絡的である。
「お行儀が悪いです……」
エコーが諌める。
「女の人はもっと女性らしくしないといけません……」
「こらこら説得力がねえよ、お前さんに言われたって。なあ姉弟」
へらへらしながらホープの肩をぽんと叩く。
ホープは静かに答える。
「カラスの姉を持った覚えはないがな」
「コラァ!」
七星は突如として悪鬼のような形相で机を叩き、飛び上がって椅子の上に立ち、そして、
折りたたまれていた背中の翼を広げた。
黒い羽が一片、二片、くるくると舞う。
羽ばたいた。風が起こる。迷惑である。
「いいか、何度も何度も言わせるなっ。あたしは鴉じゃねえ、鴉獣人だ! あんな、四六時中誰かの悪口ばかり言ってるような、性格の悪い鳥どもと一緒にするんじゃねえや!」
「鴉の話し声を理解できる時点でもう十分に鴉だろう」
「なんだとうっ!」
拳を振りかぶる。
「あ――」
割って入った間の抜けた声は店主のものだった。
「――七星さん」
「何だ!」
「そういえば、今日は何にしますか?」
「うん、どうしようかな」
元の表情になって翼をたたみ、また、すとんと座る。
「焼いてないパンと厚切りの生肉がいいな」
相変わらず恐ろしい切り替えの早さだ。
この女はいったん怒ることをやめたとき、正真正銘、もう全然怒っていないのである。
分かりました、と微笑んで、エコーは席を立ち、とことこと厨房へ消えていった。
ホープは呆れつつ感心する。
「七星、常々思っていたんだが、お前って奴は……」
「あん」
「……結構いい奴だ」
七星は一瞬ぴたりと止まり、それから、もじもじしたり仰け反ったり、とにかく大げさに照れはじめた。
「おいおいおいおい、やめろよ! 照れるぜそいつぁ! 照れるじゃねえか!」
みるみる顔が赤くなってゆく。
「いい女だなんてよお……まあ、あたし自身、鏡の前に立つたびにそうじゃないかとは薄々思ってたけどよ、いや滅多に鏡なんか見ないけどな、しかし……ひゃあ……男に褒められるなんて何年ぶりだろ!」
「ちょっと待った」
「ホープって年上の獣人でもいけるクチだったんだなっ! あたしもお前のこと嫌いじゃないぞ! 特別物凄く好きってわけでもないけど、少なくとも嫌いじゃないなっ!」
「なあ――お前、凄い勘違いを」
ホープが訂正しかけたところで、
トレイを手にエコーが戻ってきた。
「パンと生肉です」
とん、とテーブルに置く。
「七星さんのご注文はいつも簡単でたすかります」
「へ? ああ、あたしの食べるものって簡単なんだな。だからいつも出てくるの早いし安いのか。そっかそっか」
「今頃気付いたのか?」
「うん。あたしってバカだからなっ!」
高らかに笑い、七星はパンの間に生肉を挟んで、がつがつと食い始めた。
――七星。
乱暴で、バカで、鴉の獣人である。
鴉の獣人だから乱暴でバカなのではない。乱暴で、バカで、鴉の獣人なのである。
性別は女だが、顔だちは、パッと見では男か女か分かりづらい。といっても決して男っぽい顔をしているというわけではなく、ただ全体的なデザインがひどくすっきりとしているせいだ。無駄な要素が無いのである。ひと言でいうなら、少年と少女の中間のような顔をしている。年齢はもう立派に大人だから、童顔といえば童顔なのだろう。そして綺麗といえば綺麗だ。
ただ特徴的なのは、その両眼である。
白目が全く無い。全体が黒水晶のように真っ黒い。
これは当然、獣人であるからだ。どこを見ているか分からなくて少し不気味だが、見慣れれば愛嬌があるといえなくもない。
体つきはどちらかといえば小柄。細身ながらよく見れば筋肉質なつくりで、鴉獣人のくせに色は白い。
臆面もなしに肌を露出する。上半身には、下着なのか服なのか分からないような衣か、革の胸当て――今日は後者だ――。それから下はいつも短く切った革ズボン。そしてごついブーツ。わけのわからない出で立ちだが、短い黒髪には不思議とよく似合っている。
普通の人間にはとても食えないような大雑把な食い物を好み、いつも美味そうに食う。
何かと――変わり者だ。
そういえばよお、と七星は食うのを中断する。
「今日は大変だったみたいだな。何とかいう金持ちのじいさんとばあさんが殺されたんだって?」
「ああっ七星さん、口からお肉の血が垂れてます」
「え、ほんとか?」
エコーに言われて、七星は手の甲で口元を拭う。赤い汚れがよけいに広がった。
その顔で笑うから怖い。
「でも生肉ってうまいんだよな!」
「食ったことがないから分からんな……」
「何だって、そうなのかホープ? じゃあこれやるよ! まだ半分くらい残ってるから」
手づかみで食っていた生肉を、ホープの眼前にずいと突き出す。
ホープは顔をしかめた。
「いらん。自分で食え」
「遠慮するなよ。そりゃあたしもまだ少しお腹減ってるけど、今日はがまんする! ほら食ってみろって!」
「お前はいい奴だが人の気持ちと常識を理解できない困った奴だな」
「そんな、また――いい女だなんて。照れるからほんとにやめろっての!」
「だから……、いや……すまん。俺が悪かった」
「まあそんなことはいいからとりあえず生肉食ってみろって」
「いい加減にしろこのバカ!」
「ああ――ホープさん、怒ったらいけません」
エコーがおろおろする。
七星は、そうだ、と突然話を戻す。
「それどころじゃないぜ。殺人事件だよ殺人事件。もう犯人捕まったのか?」
「……まだだ」
「あたしが捕まえてやろうか」
「心当たりでもあるのか」
「ない」
「じゃあどうやって捕まえるんだ」
「お前が探すんだよホープ。それであたしが捕まえる。完璧な作戦だろ?」
「……そうだな」
ホープは煙草を取り出して火をつけた。取り敢えず心を落ち着け、それから目の前の鴉女を無視し、思考回路を事件内容に戻すことにする。
何か――
何か無いか、ヒントは。
静かに思考の海に身を沈める。
エコーが口を開く。
「そういえば七星さん、先月くらいに、ダヴィドフ家の子供たちを森で見たとおっしゃってましたよね」
「憶えてないなあ」
「そうですか……」
「嘘だよ。憶えてたよ」
「ええっ、今のは嘘ですか? 意味もなく嘘をつくなんて、七星さんはうそつきですね」
「ごめん。憶えてたっていうのが嘘。ホントは今思い出したんだ。わはは」
「じゃあ七星さんはうそつきなのか正直ものなのか――いったい私はどうすれば……」
ホープは――
結局、ろくに思考できなかった。かといっていちいち突っ込むのも馬鹿らしい。
「で?」
矯正することにした。
「七星が先月にダヴィドフ家の――バルカ氏の孫たちを見た。だったらどうなんだエコー」
「ああ、そうでした」
ようやく本筋を思い出したらしい。
「子供たちはいつも森で遊んでいたんでしょうか?」
「知らない。あたしだって、いっつも山にいるわけじゃないからなあ。たまたま山ごもりしてただけで」
七星は腕組みする。似合わない仕草だ。
「でも、もしかしたらそうなのかもな。いや、多分そうだな」
「なぜ分かる?」
「いや、声をかける間もなく、こっちにも気付かないで、二人してさっさと走って行っちまったからだよ。あのさ、森を走るのって結構難しいんだ。木の根っこやらツタやら石やらが邪魔するからな。そりゃ子供のほうが歩幅が小刻みなぶん少しは簡単だろうけど、やっぱり大変なはずだぜ。あれは森で遊びなれてるって感じだな、うん」
「わあ」
「どしたよエコー」
「七星さんはとても賢いんですね」
「えっ……。なんてこった」
七星は手に持った食べかけのパンを見つめ、深刻な顔で呟く。
「あたしって賢かったのか……」
放っておいてホープはエコーに問う。
「それで、子供たちが森で遊んでいたことと、事件と、何の関係があるんだ」
「ええと……」
エコーは口ごもり、小さく答える。
「ごめんなさい……関係ないかもしれません」
「……ああ」
そんなことだろうと思った。
不毛である。
七星が、ふ、と顔を上げる。
「――なあホープ」
「何だ七星」
「もしあたしが賢いとしたらさあ……」
「それは多分無いだろうから安心していいぞ」
ホープは即座に言い切った。
七星は笑う。
「なあんだ、安心した! じゃあ帰る! 酒場が始まる前に戻らないと……ええと、酒場が始まる前に戻れないからなっ!」
立ち上がりつつ残っていたパンと生肉を一気に口に詰め込み、もごもごと何か言いながら、ポケットから小銭を取り出してエコーに渡す。
エコーは金を受け取り、
「ええと、お釣りを」
と席を立とうとしたが、七星は何やら眉間にしわを寄せて怒った。
「むうがむが」
「はい、何ですか七星さん?」
ホープが気付いて通訳する。
「……釣りはいらないって言ってるんじゃないのか?」
「むんむ」
七星は笑顔で頷く。
頬がパンパンだ。何と行儀の悪いことか。
エコーは深々とおじぎをする。
「ありがとうございます七星さん」
「んん」
七星は笑顔で手を振り、つかつかと出口まで歩いてドアを開け、外に出て――翼を広げ、大きく何度か羽ばたいて、
そのまま飛んでいってしまった。
ホープはため息をつく。
「……ドアくらい閉められんのか」
その後ほとんど間をおかずに、鍛冶屋見習いの若者と果物屋の娘が順にやってきて、それぞれ日替わりの定食を注文し、受けたエコーは厨房へと引っ込んだ。
代わって、外より戻ってきたアイスブルーがウェイトレス代わりに店の隅で待機している。彼女は風貌に加えて極端に無口であるため誤解されがちだが、ちゃんと人語を解し、また話すことも出来る――そうだ。だからちゃんと役に立っている――と、少なくともホープは思う。よく見ていれば、なかなか気のつく動きをしているのである。
あまりじろじろ見ているのも何だが。
若者がラム酒の入ったグラスを手に歩いてきて、ホープの向かいに座った。
「よう。お巡りさん」
「何だ」
「噂はもう広まってますよ。行き詰ってるらしい、ってね」
「やれやれ」
ホープは深くため息をつく。
「……噂している暇があったら、野放しになってる人殺しから自分たちの身を守る手段を考えてくれ。言っとくが俺はあてにならんぞ」
「おいおい、しっかりしてくださいよ」
若者は肩をすくめる。
そうですよ、と、向こうのテーブルで食前茶を飲んでいた果物屋の娘も言葉を飛ばしてきた。
「早く捕まえてもらわなきゃ、おちおち眠れもしませんもの。怖ろしくって……。ああ、人殺しなんて起きる町じゃないと思って暮らしてたのに」
俺もだ。
そう言いそうになったがホープは我慢した。
不意に、アイスブルーが動く。
しなやかに。
静かに。
扉を開け、闇へと出て行った。
それに気付いたのはホープだけだったが、ほとんど入れ違いに現れた女の姿には、出来上がった料理を運んできたエコーを含める全員が気付いた。
ドアの前には、バルカ・ダヴィドフの義娘、ロゼ・ダヴィドフ婦人が立っていた。
さすがのエコーも、能天気に「いらっしゃいませ。ロゼさんが店に来てくれるなんて初めてですね」などとは言えないようだった。
バルカ・ロゼは既に四十に近い年齢だが、実に玲瓏な雰囲気を持った、美しい女である。少なくともついさっき事情聴取していた時までは。
静かな月のように白い肌。優しげな両の眼、常に穏やかな笑みを湛えた品のいい口元。
――今、それら全てが欠如していた。
寝間着に近いような、生地の薄い部屋着のみを身に纏ってその裾を引きずり、泥に塗れた裸足で立っているロゼの表情からは、一切の生気が感じられなかった。
美しく輝いていなければならないはずの眼は、濁って宙を見つめるが如く。
上下の唇はだらしなく離れてしまっている。
首も傾き、ゆらゆらと頭を揺らし――その顔面をホープにゆっくりと向けた。
低い声で。
「首を突っ込むな」
空ろな目はゆらゆらと泳いでいる。
「老人たちの死に関わるな」
首が揺れる。
「バルカ家に関わるな」
乱れた髪が揺れる。
「さもなくば」
「ロゼ、婦人――」
「こうなる」
ロゼは、まるで着けていた仮面を取ろうとでもするように、ゆっくりと右手を持ち上げ、自らの顔にあてがった。
そろえた指先は耳たぶの下。それが食い込む。
ずぶずぶと。
そして――引き剥がす。
エコーがトレイを落として悲鳴を上げる。
血。
めりめりと生々しい音が、ホープの目すら閉ざそうとする。
ロゼは笑っていた。
「あははは」
己が顔を引き剥がしながら。
七分ほど剥がれたところで、体を吊っていた糸が切れたように、うつ伏せに倒れる。
それでもしばらく痙攣するように笑っていたが、やがて動かなくなった。
死んだ。
床の上、こぼれたスープが血と混ざる。
ダヴィドフ家三人目の犠牲者は、嫁のロゼであった。