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その一「わかば亭で昼食を」

 

 

 

 

 

【わかば亭異聞録】  T-BLUE

 

 

 

 

 

 1

 

 毎日その店に通うことは、警団支部近くにある他の定食屋で済ませるのに比べると少々面倒だったが、それもあくまで少々の話で、こんな小さな町の中での距離差など、結局たかが知れている。だからそこまでの道のりは、散歩だと思えば気にならなかった。

 昼休み。小さな支部を出て、いかにも都と遠く離れた田舎町の商店街らしい、必要な物しか置かれていない見世棚たちの前を、店主の中年女や店番の少女の挨拶に応じながら歩き、北、つまり森の方角へと向かう。

 ただでさえ少ない人通りが全く無くなり、ただでさえきちんと舗装されていない道が草だらけの地面になると、野原の上に、やっと木の看板が現れる。

――『わかば亭・このさきです』。

妙な丸みを帯びた筆遣いで、そう書かれている。

この先とあるだけで方角も何も書いていないのは、間が抜けているのか大して客を取るつもりが無いのか、どちらだろうか。

ともかくここまでで、約十分かかる。

 そこからもう数分歩くと、森の入り口にさしかかる。

 同時に見えるのが目的地である『わかば亭』だ。

それぞれ樹齢数百年はあろうかという巨木たちの群れを背景に、煙突つきの、二階建ての質素な木造建築物が、紛れ込むようにして存在している。

そこは町の最北だった。

誰もが知ってるが、ほとんど誰も来ない。

そんな店の扉を、ホープはいつものように拳の背で叩いた。

 誰の声も返ってこないので、ホープは扉を勝手に開けた。もともと食事処だし、ちゃんと営業中の札もかかっているのだからそれでいいはずなのだが、この店があまりにも所帯染みた空間であるため、ついノックをしてしまうのが、いつの間にか習慣になっていた。

 店内に足を踏み入れて中を歩くと、分厚いブーツの底が、木張りの床をごつごつと鳴らす。

 狭い店内にあるほとんどの物は、テーブルや椅子から食器、壁飾りに至るまで、木や布で出来た手作り品である。その全てが店主の趣味の産物だ。趣味とはいえどれも良く出来ていて、大きな町の雑貨屋に並べられている品と比べても見劣りしない。

 ホープは三つある丸テーブルのうち、窓際にある一つに、腰に帯びていたサーベルを乗せた。

それから鉄の肩当てを外し、床に置く。肩当てには王立警団のエンブレムが彫られている。

 柔らかな足音に振り返ると、階段を降りたところに、一匹の青い狼が、二本の脚で立っていた。

もちろん正確には獣人である。

 いや、獣人であるのかどうかも定かではない。

 身の丈は十二、三の子供か、小柄な女ほど。骨格は細くシルエットはしなやかで、女――雌と言うべきなのだろうか――であることはそこからも何となく分かる。

全身は柔らかそうな青い毛皮に包まれており、服の類は身につけていない。

首から上もほとんど狼と同じだが、腰まで伸びてわさわさと揺れる白いたてがみが、単なる二足歩行の狼ではないということを最も分かり易く物語っている。もちろん『単なる二足歩行の狼』などというものがいるか否かなど、ホープは知らないが。

 とにかく、限りなく獣に近い姿である。

普通、獣人というのは、人間の姿をベースに、何らかの動物的な特徴――例えば尾や羽根などを持つ突然変異者のことを言うのだ。ここまで獣に近い獣人など、通常では考えられない。

だがただの人間でもない以上他に分類しようもないので、取り敢えずホープは、彼女を獣人として認識している。

 「アイスブルー」

ホープは獣人の名を呼ぶ。ここの店主から聞いた名だ。彼女自身と口をきいたことはない。

店主から聞いたのはその名前だけなので、ホープはアイスブルーの歳も素性も、未だ知らないままだ。

 アイスブルーはホープの呼びかけを無視し、しなやかな動きで、ふわりと二階へ舞い戻る。

 天井を隔てた上からかすかに、穏やかな声が聞こえてくる。

「お客さまが来たの、アイスブルー?」

本でも読んでいたのだろうか。そうでなければ服でも仕立てていたのだろう。

 アイスブルーと共に階段を下りてきたのは、わかば亭の店主だった。チェックの長いスカートとセーターを身につけた上に、大きめのエプロンをかけている。いつも通りの格好である。年齢より若く……いや、もはや幼く見える顔立ちも、いつも通りだ。

 店主はホープの顔を見てにこりと笑う。

「あっホープさん、いらっしゃいませ。何になさいますか?」

おっとりした可愛らしい声である。

 ホープは椅子に腰掛けつつ答える。

「何でもいい」

「なんでも、ですか……?」

店主は片頬に手をあてて考え込む。首をかしげると、少しクセのある、金色の長い髪が揺れる。

「えーと、じゃあ、最近私が研究している料理があるので、今日はそれを試食していただいてもよろしいでしょうか」

「研究中の料理?」

「はい、野菜だけで作った、シチューのような、ポトフのような、そんな料理です。まだ名前はないんですけど。ちょうど下ごしらえは出来ているので、すぐにお出し出来ますよ。あ、もちろんお代はいただきません」

「タダか」

「ええ、研究中ですから」

 そんなことをしていては余計に商売が成り立たなくなるだろう。ホープはそう言おうとしたが、やめた。こういうことに限って、言いだしたら聞かない奴だ。

 「分かった、それをもらう」

「ありがとうございます。アイスブルー、ホープさんに水をお出しして」

言い残して店主は奥の部屋――調理場へ、とことこと消えてゆく。

 残ったアイスブルーと目があった。

 が、すぐにそらされる。

 アイスブルーは店主と同じように調理場へ吸い込まれるように消え、それからすぐに木のコップを一つ片手――前足か――に持って戻ってきた。

 そのコップをテーブルには置かない。

 ホープは目の前に出されたそれを直接手で受け取る。変わった接客であるが、敢えて突っ込まない。

「ありがとう」

礼を言っても反応はない。ただホープの顔を一瞬見つめてから、急にきびすを返して二階へと引っ込む。ホープは彼女が店の外にいるのをほとんど見たことがない。

 コップを口元に近づけ、軽く香りを嗅ぐ。……レモンの香りだ。ここの水は店主の気遣いなのか、必ずレモンで香り付けがされている。いかにもあの店主らしい細やかなサービスだが、柑橘系の香りが好きなホープにとっては、これが意外と嬉しい。喉が渇いていたのでそのまま飲み干した。

 もちろん、他に客はいなかった。

ここへ昼時に来るのはホープだけで、他の常連客たちは夜飯時に来る。まあその人数も片手で数えられるほど少ないけれど――ちなみに夜のメンバーにもホープはしっかり入っている。

 わかば亭の客同士は皆、顔見知りである。ホープは警官という職業柄、町民の顔を全て覚えているが、ここの常連たちとは特に親しい。家族同然と言うには大げさすぎるとしても、毎日の夕食を共にしているわけだから、少なくともホープは、単なる知り合い以上の親近感を持っている。

 大して待たぬ内に、店主は湯気の立ったスープ皿と、パンやサラダをトレーに乗せて、ゆっくりと運んできた。

「お待たせしました」

 ホープの前に、順番に皿が並べられ、最後に、やはり木製のスプーンとフォークが置かれる。

スープ皿の中にあるのは、店主自身が言ったとおり、シチューのようなポトフのような料理だった。どんな作り方をしたのかは知らないが、取り敢えず良い香りはする。

 右隣の椅子に店主が腰掛ける。

「どうぞ、召し上がって下さい」

 「……おう」

ホープは右からの視線を気にしながら、スープを手に取り、研究中の料理をすくい取って口に運ぶ。

「――うん、美味い」

本当だった。そもそも、この店主が美味くない料理を作るはずがない。

「これなら店に出せる」

 「良かったあ」

店主は自らの両手を握り合わせる。

「それじゃあ、もうちょっと改良したら、新メニューに加えることにします。どんな名前がいいかなあ……」

「そのまま『野菜スープ』でいいだろ」

「だめですよお、そんなに安直なの。うーん――」

しばらく下を向いて考え込み、そうだ、と顔を上げる。

「『わかば亭特製シチューみたいなポトフみたいなモノ』はどうですか?」

「どっちが安直だ」

「わかりやすくていいと思ったんですけれど……」

「じゃあそれでいいんじゃないか」

「でも言われてみれば、やっぱりひねりがないような気がしてきました……」

店主はまた考え込む。考え込むのが好きな奴である。

 ホープは隣で唸る店主をよそに食事を続ける。

 チーズ入りのパンも美味いし、サラダにかかった特製のドレッシングも絶品だ。

こんなに美味いのに客がほとんど来ないのは、やはり立地条件のせいだろう。……もっとも、必要以上に繁盛したら、この店主は気疲れや過労その他の色々な理由で倒れてしまうような気がするが。

 はあ、とため息をついて店主は言った。

「夜までに考えておきます」

「そうするといい」

ホープは新料理の中のブロッコリーを口に入れつつ無責任に言う。

 店主は前屈みになり、足下の肩当てを指先で撫でながら、つぶやくように訊ねる。

「ホープさん、後輩さんのお名前、何とおっしゃるんでしたっけ?」

「エピックのことか」

他にいるわけでもないが。

 店主は肩当てから手をはなし、椅子に背をもたれる。

「エピックさんは、うちへはいらっしゃらないんですか?」

「あいつには女房がいるからな」

エピックはホープと同時期にこの町へ転属になった後輩だが、半年前、今月で二十五になる三つ上のホープより先に、この町の染物屋の娘と結婚した。新婚というやつだ。特に羨ましくもない。

 店主は、あっ、そっか、と肯く。

「愛妻弁当があるんですね」

「今頃支部の奥部屋で、ニヤニヤしながら食ってるだろう」

「んー、幸せそうでいいですねえ……」

店主は微笑みながら言う。

 ホープはその顔を横目にパンをかじる。

「お前はどうなんだ、エコー」

エコー・シルクロード。それが店主の名である。

 「どうって、何がですか?」

店主はきょとんとした顔でホープを見つめる。表情といい顔そのものの作りといい、実に綺麗で、可愛らしい。この顔も問題のひとつだ。

 ホープは苦笑いをしつつ言う。

「結婚だよ。お前も俺と同い年だし、そろそろ考えないといけない頃だろ。もっとも……俺はまだ、身を固めるつもりなんてないがな」

別に遊びたいわけではない。かといって全くもてないわけでもない。ただ、何となく、その手のことは考えずに生活している。――実際のところは、面倒なだけなのかも知れない。

 「えーっ、私だってまだ、そんなこと考えてませんよお」エコーは横髪をいじりながら、照れたように笑う。「だってね、精神的に、そんなに大人じゃないですもん」

「……お前にはそれ以前に大きな問題があるだろ」

「問題って何ですか?」

すっとぼけた反応が返ってくる。演技ではない。天然だ。完全に間が抜けている。

 ホープは木のスプーンを、王立警察学校の教官がタクトでもってするように、エコーにぴっと突きつけた。

「自覚がないのか、エコー?」

 エコーはうつむき、上目遣いにホープを見る。

「……このスカートとか、髪を伸ばしてることですか?」

「それからそのエプロンもだな。――何だ、自覚はあるんじゃないか」

「だってホープさんがいつもそうやって言うからじゃないですかぁ……。八百屋のタールおばさんや酒屋のおじさんは、よく似合うって言ってくれるのに。他のみなさんもですよ」

 そりゃ面白がってるんだ。ホープはそれを口には出さない。

「一応願望の欠片はあるようだから言うがな。その格好のままじゃ嫁さんは一生来ないぞ。それより前にお前、そもそも女と付き合ったことはあるのか?」

「ありますよ! ……都にいた頃、一度だけ」

「初耳だな。どれくらい続いたんだ?」

「二日です……。私が男だと分かったら嫌われました……」

早とちりなレズビアンに女と勘違いされたわけか。どうせそんなところだろうとは思った。

 エコーは座ったまま足をぶらぶらさせる。

「あの時はスカートはいてなかったのになあ……」

「顔や声だけでも、完全に女だからな」

「それじゃ、いくら格好を変えても私はどうせ、女の人と間違われ続ける運命ってことじゃないですかあ」エコーはむくれる。「じゃあみんなに可愛いって言ってもらったほうがいいです」

「普通そんな考え方はしないだろう。せめて少しでも男らしくしようと努力する気は無いのか」

「ホープさんみたいに大きくて筋肉もりもりになれってことですか?」

「そんなことは言ってない」

「じゃあどうすればいいんでしょう?」

「知るか」

「もう、何なんですか」

エコーは両手でテーブルをぺたぺたと叩く。

 ――そう、つまり、要するに。

ホープの隣に座っている、一見すると若くて可愛い金髪の美女に見える店主は、実のところ――別に隠してもいないのだが――歴とした男なのである。

ただ、甘ったるく柔らかな声、大きな目、長いまつ毛、クセはあるがきめ細やかで美しい髪、物腰、歩き方、細かな仕草、趣味、喋り方、表情、それからくしゃみや咳に至るまでが、まるっきり女性的であるというだけで。

胸こそふくらんでいないものの、全体的な体つきや肌の質感までもが、全く男のそれに見えないから恐ろしい。少なくともホープの知る範囲では、今まで一目で彼を男と見破った者はいない。

そしてこの男より可愛らしい女もまた、いない。

 エコーは口を尖らせて言う。

「ホープさんだけです」

「何が」

「私に『男らしくしろ』って言うの」

「お前、本気でそのままでもいいと思ってるのか?」

「そりゃ――私だって、男らしくなれるならその方がいいような気もしますけど。でもそんなに無理して変わるのも……。どうしてホープさん、そんなに私の格好が気に入らないんですか?」

「俺は……」

 別に、気に入らない、というわけではない。

よく似合うとは思う。実際似合っているわけだから仕方ない。本人の性格もあるし、今さら男の格好をしろと言ったところで、現実問題無理な話だろう。

 それでもつい口うるさく言ってしまうのは、ホープ自身がこういう時に――つまり、誰もいない店内で、隣あわせの椅子に腰掛けているときなどに、ふとむずがゆいような、妙な気分になることがあるからである。

もちろん、この店主に対して妙な感情を抱いているわけではない。

ホープにそのケはない……はずだ。

 重なったレタスをフォークで突き刺し、口に押し込んで、大して噛まずに飲み込む。

話を変えることにした。

「それにしてもこの町は事件が少ないな」

少ないと言うより、ほとんど無い。あっても迷子か喧嘩くらいである。ホープはここへ来て三年になるが、事件らしい事件には一度も巡り会っていなかった。

 店主はくすりと笑う。

「いいじゃないですかあ、穏やかで。私は穏やかがいいですよお」

 エコーもホープと同じように都会から来た口である。

この男、本来は魔法の研究家らしい。要するに統一破壊時代専門の歴史研究家であるわけで、ここへやって来た本来の目的も、静かなところでゆっくりと腰を落ち着けて研究を進めるためだったという。

この若さにしてその道ではかなりの権威で、都へ行けば威張って暮らせる身分なのだとか……。そういうわけで、町へ来た頃はまだ、どこからともなく大きな金も入ってきていたようだった。

だが何を思ったか――いや、何も考えていない故か、二年前、突然こんな場所でこの『わかば亭』を開業し、完全に趣味の料理を本職にしてしまった。

料理はやたらと美味いからホープとしては助かっているが、明らかにエコー自身の収入は減少した。本人はこれで良いのだろうか。多分良いのだろうから謎である。

 ホープは全てを食べ終え、取り出した煙草をくわえて火を付けた。テーブルの上に横たわった、自らのサーベルを見つめる。

「もちろん平和が一番だ。事件があるより無い方がいい。それに違いはないんだがな」

紫煙と窓からの陽ざしが溶け合う。

「正直言うと、退屈で死にそうだ。時々、自分が国から金を貰っていることに納得がいかなくなる。何もしていないのにいいのか、とな。妙な話だが」

「んーと……暇ってことですね?」

「そうだな」

「暇、きらいですか?」

「何?」

そんなことを訊かれたのは初めてだ。

 エコーは、また足をぶらぶらさせる。

「私は好きです、暇な時間。編み物出来るし、本も読めます。ぼーっとしてるのも楽しいです」

「幸せ者だな」

「はい、ありがとうございます」

満面の笑みが日を浴びて光る。――褒めたわけではないのに。

 ホープが煙草を吸い、エコーが横顔を見つめる。安い紙巻き煙草が燃え尽き、携帯用の灰皿に押し込まれるまで、無意味な時間は続いた。

 ホープはコンパクト型の灰皿を胸にしまうと、店内に人影がないのを確認し、少々ひそめた声でエコーに問いかけた。

「なあ、エコー、彼女のことなんだが」

「アイスブルーですか?」

なぜか鋭い。

ホープは肯く。

「彼女は、そう……どんな性格なんだ?」

「性格」

「ああ。今ひとつ分からなくてな。いや、今ひとつというか――まず、何者なんだ、あのアイスブルーという獣人は。同居人のお前なら知っているだろう」

「はい、良い子です。無口だけどよく働いてくれます。あと、しっぽやたてがみがふさふさして、ときどき触らせてもらうと気持ちいいです。でも頻繁には触らせてくれません。ときどきなんです。私はいつも触らせてもらいたいんですけど、……もしかして恥ずかしいのかなあ……。確かに、私にふさふさのしっぽがあって、それをホープさんが毎日触りに来たら、やっぱりちょっと恥ずかしいかも知れませんねえ。ましてやアイスブルーは女の子だし……でもね、私、決していやらしい気持ちはないんですよ。純粋にふさふさだから……ああ、でもやっぱり本人がどう感じるかが問題であって……。はあ……どうしましょう」

「いや、そういうことを訊いているんじゃないんだ。むしろそんなことは腹が立つほどどうでもいい」

「じゃあなにを訊きたいんですか?」

 「うむ」

彼女について何を訊きたいのかと訊かれると困る。なにせ何も知らないのである。警察学校時代、『何が分からないのか自分でも分からないほど学習内容が分からない』と言っていつも教官を困らせていた劣等生の同輩がいたが、あの友人の心境が今になって良く分かる。彼は今頃どうしているだろう。……いや、そんなことも今は全く問題ではない。

 「どう思ってます?」

小首をかしげるような姿勢でホープの顔を覗き込み、問い返したのはエコーだった。

「アイスブルーのこと。ホープさん、どう思ってますか?」

「俺か?」

ホープは考え込む。

「どうと言われてもな」

「もしかして、きらいですか?」

「別に嫌う理由もないが、そうだったら、何なんだ? 俺がアイスブルーを嫌っていたら」

「泣きます」

「泣く?」

「はい。アイスブルーがかわいそうです。アイスブルーはいい子になったのに、ホープさんにきらわれて……きらわれるのは、かわいそうですよ」

「おいおい、何となく言ってみただけだ。別にアイスブルーのことは嫌いじゃない。いきなり涙目になることは無いだろう」

「すみません……」

「ああ――いや、こっちこそ悪かった」

不注意であった。

エコーはこういう女――ではなかった、男だ。悲しいことを想像してしまうとすぐに泣く。まるで子供である。それもとびきり単純な子供だ。とてもホープと同い年だなどとは思えない。

 しかし、それにしても気になることがある。

「おいエコー」

「はい?」

エプロンの裾で涙を拭き拭き、エコーはホープの方を振り返る。

「なんでしょう」

「さっきアイスブルーが『いい子になった』と言ったな」

「言いましたよ」

「じゃあ以前は違ったのか?」

「……たぶん」

「多分?」

「自分で言ってました。それに、初めて会ったとき、追われてましたから」

「誰に」

「何でしたっけ、王立特務何とか軍の人たち……大勢に追いかけられてました」

「おいおいおい、冗談はよせ」

「冗談なんか言いませんよう……」

「ちょっと待て、王立特務機動軍?」

この国で最も強い力を持った者たち。一人の機動力が訓練された一般自衛軍数十人のそれと同等か、場合によってはそれ以上だという――

「そんな連中に追われるなんて、一体何者なんだ、彼女は?」

「私もよく知らないですけど、アイスブルーはアイスブルーです……」

エコーは口をとがらせ、

「無口でしっぽのふさふさした、私のともだちです……」

すねたような口調でそう呟いた。

 ドアが乱暴に開いたのは次の瞬間だった。

 飛び込むように入ってきたのはエピックである。

「ほ、ホープ先輩!」

ホープ以上に若いこの警官は、ここまで走る間に邪魔だったのか、本来腰にあるはずのサーベルを肩にかついだ状態だった。

ぜえぜえと息を切らし、汗だくで店内を見回す。まだこちらに焦点が合っていない。

「せ、せ、せんぱ、ひ、……た、大変な、ことが」

 「あっエピックさん。いらっしゃいませ、何にいたしましょ――ふわあっ?」

立ち上がって間抜けに接客しようとする店主の後頭部をぱちんとひっぱたいたのは、同じく椅子から立ち上がったホープだった。

「お前はちょっと黙ってろ」

「い、いたいですよぅ? なんでぶったんですか?」

頭をおさえて痛みを訴える。確かに、空気を読めない天然者のエコーにしてみればいわれのない暴力であろう。

 だが非難の目を無視し、ホープはエピックに訊く。

「何があった」

 エピックは自分の両膝に手をつき、ホープの顔を見上げて言った。

「し……死んでます、二人……ダヴィドフ家の、老夫婦……」

「あの二人が?」

「バルカ爺さんは頭を打ってて、婦人……キャメル婦人の方は、ズタズタです……っ!」

 ただごとではない、それは分かるが、細かい話が見えない。

ホープは肩当てを身につけ、サーベルを手に握った。

「とにかく現場へ行こう。場所は?」

「あの、だ、ダヴィドフ家です」

「家の中か」

「はい……」

力無く肯く。顔は青い。

 ホープは「分かった」と肯く。

「エピック、お前はここで休んでいろ。俺は現場に行ってくる」

 エコーがその袖を引く。

「ほ、ホープさん!」

「何だ」

「わ、私も行きます……」

「馬鹿野郎、野次馬なんぞ」

「違うんです。あの子が行けって……私が必要だろうからって」

「誰が?」

「あ、アイスブルーです」

「ふざけるな。いつ言った? 第一ここに彼女は」

 ――いや……いた。

いつからだ。階段の下に、青い獣が、うずくまるように座っている。

心なしか、姿が揺らいでいる、か?

人の形に近い二本足の、しかし毛皮に覆われた狼の肉体。普通の狼より線は細いが、紛れもない獣の顔。

その目がホープを見ている。理知の眼。狼ではなく、人の……? いや、そんなものではない。あんな眼をしていたか。

何者だ、あの狼。

 エコーは続ける。

「今のアイスブルーの声、聞こえなかったんですか? 静かな声だったけど、でも」

「……分かった、お前も来い」

何かに押し流されるように言いながらエピックを見る。さっきまでホープが座っていた椅子に、彼は座っていた。

下を向いている。

この後輩がどんな光景を目にしたのか。

これからホープもそれを見に行くのか。

「アイスブルー……」

なぜかその名を呼ぶのをためらいながら。

「こいつを見ていてやってくれ」

そう頼んだ。

 階段の下、床。

前に垂れ下がった、長く白いたてがみの間から、青い狼の顔がのぞいている。

突き出た長い鼻が、ひくりと動いた。

それだけだった。

狼の顔に表情はあるのか。あったとしても、ホープには分からない。

 ホープは店を出た。

 エコーは、小走りでそれに続いた。




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