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日本皇国、日章旗を胸に  作者: 海空陸一体
形成期(明治~大正初期)
5/19

第三話 日露開戦

成彦     1887年  誕生


       1892年  記憶を取り戻す


       1901年  打鉄の制作依頼を出す。


       1903年  日本狼を保護

       同年   海軍大学校に入学。

 1904年 2月8日 大日本帝國海軍、旅順軍港を奇襲攻撃。第一、二、三駆逐隊は、雷撃を敢行す。

   戦果 戦艦2、防護巡洋艦1を大破。浸水過多により、旅順港内に座礁した。

   <戦艦・ツェサレーヴィチ、レトヴィザン 防護巡洋艦パラーダ>

  

 2月9日 瓜生外吉少将が率いる第四戦隊、仁川沖にて防護巡洋艦1、砲艦1を捕捉、戦闘に入る。

   ※両艦を洋上にて降伏させる。

   戦果 防護巡洋艦1、砲艦1 鹵獲す。

   <防護巡洋艦・ヴァリャーグ 砲艦コレーエツ>


 1904年 2月10日 大日本帝國は、ロシア帝國に宣戦布告。日露開戦す。

 ※同日 ウラジオストク軍港を強襲攻撃。

 同港にて通商破壊の準備に邁進していた、ウラジオストク巡洋艦隊は機雷封鎖も合わせ行動不能に。

   戦果 装甲巡洋艦3、防護巡洋艦1、その他4が大破もしくは中破。

   <装甲巡洋艦・ロシア、グロモボーイ、リューリク 防護巡洋艦・ボガトィーリ その他>

 これにより日本軍、日本海の制海権を獲得。


 4月30日 鴨緑江会戦にて、大日本帝國陸軍は、※新兵器を投入する。

<三十年式小銃改(三八式小銃に準じた性能、又はやや劣る。不具合発生率の減少を目的に改造)>

<二十八式野砲(九〇式野砲を目標に開発された。性能は時代差もあり下がっているが、ロシア帝国陸軍のM1900 76mm野砲及び、M1902 76mm師団砲を凌駕していた。)>

 日本軍はこれら二つの新兵器により、終始ロシア軍を圧倒していた。

 日本軍、鴨緑江会戦に勝利する。

 ※戦死者、日本軍約500名、ロシア軍約4,200名。

 日本は史実より500名少なく、ロシアは3,000名近く増え、1個旅団を失う結果になった。


 5月2日 連合艦隊は旅順軍港を包囲。旅順艦隊の封じ込めにかかる。

 ※閉塞作戦は実行されず。

 この時、史実では撃沈された、戦艦<八島・初瀬>は生存している。

 

 5月25日 南山の戦い。

 南山はある程度要塞化されていたため、日本は初めて、死者2,000名超えた。この報告に大本営は誤報かどうか前線に確認したと言う。

 ※戦死者、日本軍約2,400名、ロシア軍約1,900名。

 この損害に、大本営は旅順要塞攻略を実施した場合の損害は、この比ではないと予測。

 大本営は、戦前に明治天皇の鶴の一声で編成された、大本営直轄の※特別師団の導入を決意する。


 6月15日 得利寺の戦い。

 7月24日 大石橋の戦い。

 両戦闘を戦死者1,000名以内でロシア軍を打ち破り、旅順及び満洲への道を切り開いた、日本軍は軍を2分割する。

 一つは、大山 巌 元帥陸軍大将指揮下の満洲攻略軍<第一、二、四軍から成る>

 二つ目は、乃木希典大将率いる旅順攻略軍<第三軍、単独で編成>

 この時、旅順攻略ため特別師団が第三軍に同行。


 8月9日 大本営直轄の※陸海軍合同師団<日本戦史上初めての共同部隊>である、

 第一攻城砲兵団は海軍が全国各地から強引にもってきた<二十八糎要塞砲>24門、

 陸軍の<※二十八糎野戦超重砲(二十八糎要塞砲を陸軍が小改造したもの)>12門、

 合計36門で旅順軍港内を砲撃、同時に海軍はカネー32cm単装砲を改造し大仰角を可能にした、

 <※松島型モニター艦>またの名を三景艦を三隻全艦<松島、厳島、橋立>で砲撃。

 ロシア旅順艦隊はこの砲撃で<戦艦・レトヴィザン、ツェサレーヴィチ>が再び被弾したことを受け、緊急出港、ウラジオストクへ逃亡を計った。


 8月10日 黄海海戦において、連合艦隊はロシア艦隊旗艦<ツェサレーヴィチ>を集中砲撃これを大破に追い込み艦隊司令官ステパン・マカロフ中将が戦死。

 次席指揮官ヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将は旅順軍港に撤退を決意。

 旗艦<ツェサレーヴィチ>を置き去りに旅順に引き返した。

 連合艦隊は追撃せず、<ツェサレーヴィチ>が鹵獲出来ないが分かると、引き上げた。

この時〈初瀬〉がロシア艦隊の反撃により、第二砲塔が大破する。

日本海軍は初めての長距離砲撃戦であった本海戦を、教訓に長距離戦における攻撃力・防御力強化に邁進する。

〈ツェサレーヴィチ〉は大破になりながら、中国・ドイツ委任統治領青島に退避した。 ツェサレーヴィチの被弾の凄まじさは、世界各国の海軍に多大な影響を与えることになる。


この時、ヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将は不思議に思った。

 なぜ、日本艦隊は追撃しなかったのか?

 

 8月11日 ロシア艦隊が旅順軍港に入港しようした、

      その時

      日本軍、第一攻城砲兵団が牙を向けた。

 それまで、旅順要塞のロシア軍を牽制していた、<二十八糎砲>全砲門を入港中のロシア艦隊に向けて砲撃を開始した。

 この時、旅順要塞指揮官コンスタンチン・スミルノフ中将は叫んだ。

 「太平洋艦隊に連絡しろ!!これは罠だ!!!」

 しかしながら、ヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将は入港中止を拒んだ。何せ彼らは命からがら逃げてきたのだ、再び出るの自殺行為だった。

 悲劇だった。旅順軍港の出入り口で防護巡洋艦<アスコリド>が最初に被弾、座礁した。

 それに巻き込まれる様に防護巡洋艦<ノヴィーク>が<アスコリド>に衝突。同じく座礁した。

 これを見た、最後尾を進む戦艦<セワストーポリ>はすぐさま逆進一杯をかけた。

 <セワストーポリ>がいる場所は、出入り口で最も狭い所であった。

 しかし、遅すぎた。36門、数の暴力だった。

 一発の二十八糎砲弾が直撃。<セワストーポリ>の主砲弾薬庫だった。

      <セワストーポリ>轟沈。

 <セワストーポリ>の真っ二つに成った、船体が出入り口を封鎖してしまった。

 この瞬間、日本陸海軍の戦略目標、旅順要塞及びロシア太平洋艦隊の事実上の無力化に成功。

 旅順要塞は以降、第一攻城砲兵団の長距離砲撃を持って、無力化することになった。

※ 戦果 戦艦1 防護巡洋艦2 撃沈

<戦艦・セワストーポリ 防護巡洋艦・アスコリド、ノヴィーク>

ツェサレーヴィチは青島にて抑留され戦力外。    

その他の艦艇群<戦艦4 防護巡洋艦2 駆逐艦16>は、旅順軍港から行動不能。


 この報告を受け、満洲攻略軍は進撃を開始。一路、遼陽を目指した。


 8月28日 遼陽会戦に置いて大山 巌 元帥陸軍大将は、奇策を実施した。

 二十八式野砲の支援の元、手持ち兵力、約13万の兵力全てを使い夜襲を敢行した。

 ロシア軍は真夜中のため、必要最小限の人員しか起きていなかった。

 結果。

 ※戦死者、日本軍約11,000人、ロシア軍42,000人が戦死。

 日本軍一個師団相当、ロシア軍3~4個師団相当壊滅。

 この戦いに勝利した満洲攻略軍は、余裕を持った旅順攻略軍より増援を受けた。

 

 10月10日 沙河会戦で帝國陸軍は第一攻城砲兵団から引き抜かれた二十八糎砲を中心に防御戦を展開、塹壕陣地を形成していた。

 ※戦死者、日本軍4,000人、ロシア軍6,000人

 同日 大日本帝國陸軍は、予備役兵、新兵からなる、独立第一、二両旅団、8,000人を持って、

※樺太攻略、樺太全土を支配下に置いた。


 11月20日

 両軍、冬季ため行動不可能に、双方再編成に入る。


 1905年 1月25日 黒溝台会戦においてロシア軍が総兵力10万による大攻勢を実施。

 満洲攻略軍は現場の『ロシア軍の攻勢近し』の情報を黙殺。

 これに明治天皇が激怒。乃木希典大将率いる旅順攻略軍に救援の勅令をだした。

 前年、11月3日に旅順攻略を早期完了した。戦死者3,000人

 旅順攻略軍は行動を開始。

 ロシア軍の攻撃を横腹から、第一攻城砲兵団による粉砕射撃に加え突撃を敢行、ロシア軍を敗走に追い込んだ。

 ※戦死者、日本7,700人、ロシア軍15,000人。

 

 3月1日 奉天会戦は両軍合わせ65万の大兵力が18日間に亘って激闘を繰り広げた。

 日本軍は新旧問わず、日本各地から根こそぎもってきた、全ての銃火器を投入する。

 更に徹底的な塹壕戦を展開。

 各塹壕には最新の※<保式機関砲改(三十年式小銃改と同じ改造)>及び、

 ※<三十二式軽機関銃(十一年式軽機関銃の早期生産、欠点改良型)>、

 旧式のガットリング機関砲までも大量に配置した。

 夜襲も積極的に実行された、結果....

 日本軍、約30万の内※戦死者9,900人。

 ロシア軍、約35万人中、※戦死者13,000人 捕虜は6万を超えた。

 

 ここに、陸上戦は終結する。そして....



5月27日 日本海海戦

     ロシア・バルチック艦隊来航

     東郷平八郎大将率いる、日本・連合艦隊は仮装巡洋艦<信濃丸>の『敵艦見ユ』の連絡を受け、連合艦隊全艦出撃。

     大本営に一通の電報を打った。連合艦隊の伝説の、輝かしい始まりであった。

『敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』

 この時、成彦は海軍最小年少尉候補生として、装甲巡洋艦日進に乗艦していた。

 対馬沖にて連合艦隊、バルチック艦隊を視認す。

 連合艦隊旗艦<三笠>のZ旗を掲揚。

『皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ』

 連合艦隊旗艦戦艦<三笠>以下、<富士、八島、敷島、朝日、初瀬> 第一戦隊六隻は、ロシア艦隊に接近した。

 第二戦隊旗艦装甲巡洋艦<日進>以下、<浅間、常磐、八雲、吾妻、出雲、磐手、春日>八隻が同航する。

 そして、東郷平八郎の右腕が、左に降り下ろされた。

 三笠、敵前大回頭を開始。第一戦隊各艦、同一地点で回頭。

 これに第二戦隊が続く。

 後の東郷ターンである。

 回頭終了まで敵弾を打つ込まれた数知れず。

 そして、回頭を終了し全艦が砲口をバルチック艦隊に向けた。

「全艦、撃ち方、始め。」

「撃ち方始め!!」

「テェーーー!」

 連合艦隊、砲撃を開始。

 バルチック艦隊旗艦戦艦<クニャージ・スヴォーロフ>及び副旗艦戦艦<オスリャービャ>に砲撃が集中した。

 そして....

 バルチック艦隊は日本海に置いて、33,340キロの大航海に幕を閉じた。

   戦果 戦艦5 海防戦艦1 防護巡洋艦2 その他多数 撃沈

<戦艦・クニャージ・スヴォーロフ、インペラートル・アレクサンドル3世 、ボロジノ、ナヴァリン、インペラートル・ニコライ1世>

<海防戦艦・アドミラル・ウシャーコフ、防護巡洋艦・アヴローラ、スヴェトラーナ>

      戦艦3 海防戦艦2 防護巡洋艦1 鹵獲

<戦艦・オリョール、オスリャービャ 、シソイ・ヴェリキー>

<海防戦艦・ゲネラル・アドミラル・アプラクシン、アドミラル・セニャーヴィン 防護巡洋艦・オレーク>

   逃走艦は六隻のみ。

 


 ロシア帝政政府、講和を決断。ニコライ2世を説得する。

 日本、ロシア両政府は、1905年9月5日、ポーツマス条約を締結する。

 



 日露戦争は、終結の時を迎えた。


 









やっと戦争が出てきた。書くの疲れる(-_-;)

※印は史実とは違うところやオリジナル兵器など。

読むのに役立てください。

成彦は飛び級で入学及び、さらに飛び級で日本海海戦で卒業間近と言う設定です。

皇族だから出来る荒業です。

てか、感想くれ!誤字報告でもいいから!

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