第十一話
1914年2月11日
簡素な木造住宅が密集する住宅街には、足を止めて会話に花咲かせるご婦人やけん玉で上手い下手を競い合う子供達の嬉しそうな声が響く。その横を新聞配達に励む学生が走り抜けて行った。
狭く入り込んだ路地に止まっている大八車や荷馬車を、避けながら新聞を配達している学生を見ていた住人達は、その動きに感心しながらいつも通りの日常を過ごしていた。
ある一人の老婆は軒先で洗濯をしていた。夫が戦死してからは一人で育ててきた娘夫婦と、一緒に暮らしながら数人の孫に囲まれ幸せに暮らしている。今も孫娘の誘いを断りながら少しでも生活を支えようとしていた。
「ばぁば、ばぁば!遊ぼう?」
「もうちょっと待ってね。これで最後ですから」
「んぁー」
頬を饅頭のように膨らませる可愛い孫娘に、微笑ましさを感じながら洗濯物を洗い上げる。水をタップリと含んだのをねじりながら水を絞り落とし、余計な水滴を払いながら庭先の物干し竿に干していく。
「終わりましたよ」
「やぁー、これで遊ぶの!」
そう言って孫娘が取り出したのはお手玉だ。
「教えてー」
「これはねぇ、こう遊ぶんだよ」
お手玉を手に取った老婆は、自分の手足のように空中に飛ばしてみせる。クルクル回りながらお手玉に、キャキャしながら嬉しそうに真似し始める孫娘。何度も失敗して畳の上に落としてしまうが、めげずに挑戦している。
そんな楽しそうに遊ぶ二人に駆け寄るのは、残る孫二人だった。
「婆ちゃん!婆ちゃん!」
「大変だ!大変だ!」
「どうしたの、二人共。落ち着いて話してごらん」
「兵隊来た!馬に乗って!」
「すごく大っきい!沢山!」
息を途切れ途切れにさせながら走ってきた孫二人を落ち着かせ事情を聞こうとした老婆に、二人は拙い言葉で何かを伝えようとした。身振り手振りで自分が見てきたモノを、一生懸命に伝えようとする二人の頭を撫でながら、老婆はそれを確かめるべく立ち上がる。
歩いていく老婆の後ろを追いかける孫たち。後ろからついてくる気配を感じながら玄関口まできた老婆は、人数分の下駄を取り出して並べていった。孫たちは自分の下駄を履くと「もう自分で履けるぞ!」と胸を張った。
玄関の扉を開けた先には、特に変わった様子は見受けられなかった。そのまま路地裏を見ようとした老婆の目の前に、明るい茶色の壁が急に現れた。
「キャッ!?」
思わず後ろに転んでしまった老婆に孫たちが駆け寄る。
「ばぁば!」
「大丈夫?」
「けが、ない?」
心配そうに顔を覗き込んでくる孫たちに大丈夫だよ、と答えていると視線を感じた。感じるままに目線を上に向けると、馬に乗りながらこっちを見下ろしている男がいた。
肩に階級章が付いているカーキ色の服を見て、直ぐに軍人さんだと気がついた。その肌が白く目が青い色をしている大男でなければの話だが。
「が、外人さん?」
問いかける老婆を無言で見つめる男。奇妙なほど静かに時間が過ぎていくが、男が口を開いた。乱暴な言葉を言われると老婆は予想したが、乱暴とは程遠く優しく弱き者を労わる言葉だった。
「ご老人。ケガは無いか?」
老婆が予想外な言葉に目を見開きながら頷いたのを見た男は、玄関先に掛けられた表札を一度見てから謝罪の言葉を口にした。
「先ほどは済まなかった。しかし、今は先を急いでいる身。後ほど必ず詫びを持ってくる」
男はそう言うと手綱を操って馬を走らせる、同じように馬に乗りながらそれに続いていく男達。それは幾つもの集団に分かれていた。集団一つ辺りの人数はそこまで多くない。多くても2~30人だ。それが三つ、四つと続けざまに通り過ぎていくのを見た住人達は口々に騒ぎ始めた。
喧騒に満ちていくのを感じたのか、幼い孫たちは不安を憶え老婆に身を寄せる。老婆は孫たちを安心させようと背中を摩る。そうしていると老婆はある噂を思い出した。
『国軍の父』と呼ばれ日本最大の軍閥を作り上げた元老・山縣有朋と、『狂人』と恐れられ新進気鋭で足を止めない皇族軍人・珠洲ノ宮成彦が対立していると。二人は水面下で静かに睨み合っていたが、山本権兵衛が組閣してからと言うもの。対立は表面化し激化の一途を辿っていた。
そして最近になってある噂話に登り始めた。
珠洲ノ宮殿下が武力によるクーデターを目論んでいるのではないか。
そんな噂に対して知識人と呼ばれる者達は一笑を付した。天皇陛下のお膝元である帝都で、そんな大それたことを出来る筈がない。クーデターなどを起こせば瞬く間に大逆人として裁かれる。それに帝都には、近衛師団を筆頭とした総勢3万を超える陸海軍が存在する。珠洲ノ宮家が如何に陛下のご親戚と言えど、かの家が指揮出来るのは精々2千人のロシア人兵士のみ。万が一、クーデターを起こしたとしても鎧袖一触だ。
その意見に、それなりの常識を持った人々も納得した。だからこそ、万が一の可能性を除外し忘却していた。民衆の関心が山本権兵衛内閣の進退に集中していたのもあるだろう。
背中にライフル銃を腰に拳銃と近接武器を括り付け、軍馬に乗り駆け抜けていくロシア人達を注視していた住民達は、彼らが向かう先にある建物を思い出した。
明治維新の立役者、伊藤博文の懐刀として重用されると数々の軍事的要職を歴任し、日本に近代的な国軍の骨組みを作り上げ、軍閥を作り出し日本の政治を左右するまで強大化させた張本人が、東京に在住する際に泊まる邸宅。
その名前は、椿山荘。
ロシャーナ連隊で唯一騎馬隊を編成することが出来る第八中隊を率いるサザランカ・エムクト大尉。エムクトは軍馬を大々的に扱えることが可能なのは自分の部隊だけで、だからこそ兵站・補給を任されていることを理解していたが、それでも不満はあった。騎兵として戦場を蹂躙することが、彼の天職なのだ。それが必要だからと迫られ、武器弾薬や食料を運ばなければならないのか。
だからこそ、ツァーリから与えられた今回の任務に、重責を感じると同時に特別な思いを抱いた。主人であるエムクトの熱い心を感じ取った愛馬は猛々しく嘶くと更に加速する。
「どけ!どけ!!どけ!!!」
馬を走らせ大声を上げながら突っ込んでくるロシア人達に気づいた民衆達は、慌てて道の端に逃げる。道のど真ん中を駆け抜け最短距離で突き進むエムクト大尉の集団は、ついに目的地に着くことが出来た。
そこには既に本隊の到着を待っていた先遣隊がいた。エムクトが庭園入り口を塞いでいる大きな門の前まで来ると、先遣隊の将校が近寄り報告した。
「エムクト大尉。すみません、門を閉められてしまいました。」
「いや別に良い。目標は中か?」
「はい、潜入している風魔衆から連絡がありました。まだ邸宅内にいるようです」
それを聞きながら馬から降りたエムクトは早速、部下達にある作業に取り掛からせた。同僚のガンドレ・ポキムス大尉が指揮する工兵集団、第六中隊から借りてきたモノを門に貼り付けていく(・・・・・・・)。
「用意良し!!」
「カウント3秒!3・・・2・・・1・・・発破!!」
ドオォォン!!!!
門に人一人が屈んで(かがんで)通れるくらいの大穴が開き、木片が飛ぶと共に爆音が響きわたると、開いた穴から庭園に次々と突入していくロシア人兵士。この木製だとしてもそれなりの厚さを持った門に突入口を開けたのは、成彦の未来知識から再現されたブリーチングチャージと呼ばれる武器だ。流石に大正時代の科学技術では、門まるごと吹き飛ばすことや壁一面を破壊することは不可能だし、個人で携帯可能なほど小型化するのは無理だった。そこで成彦は子飼いの風魔衆とポキムスの工兵隊に共同で、劣化ブリーチングチャージを開発させた。そして完成したのは、約3名で分解・運搬し現地で組み立て作業が行われ、大人一人がギリギリ通れる穴を作るだけの代物で、傍目から見れば成果が全く見えないモノであった。
だが、成彦にはそれで十分であった。開発に携わった全ての配下に十分なの報酬を与えると、今回のクーデターに投入することを決定した。
その結果、エムクト大尉の第八中隊は庭園に侵入を果たして、椿山荘に突き進んでいく。まさか門に穴を開けてくるとは思わなかったのか、慌てふためきながら逃げ惑う使用人達を無視していく。途中で竹箒や高枝切鋏を構えて向かってくる者達に対しては空砲を盛大に鳴らすことで、腰を抜いて崩れ落ちたところを拘束して無力化している。
玄関前までくるとエムクトが先頭となって、扉の鍵を破壊しこじ開けた。待ち構えていたのは、割烹着姿の少女。それを気にせず邸宅へ土足で入ってくるエムクトに、少女は静かに道を譲る。そのまま通り過ぎようとしたエムクトに、そっと少女が呟いた。
「元老様は、一階の和室で茶を飲んでおられます・・・」
エムクトは手を振って感謝の意を表わすと、頭を下げエムクト達の背中を見送る少女。彼女は地方から上京してきて奉公人と言う形で雇われているが、その正体は厳しい訓練を積んだ風魔衆なのだ。彼女にとってこの潜入任務は、これまで耐え忍んできた修行が無駄ではなかったことを証明する卒業試験だ。この邸宅のありとあらゆる情報を収集し続け、成彦へ流していた。そのお蔭でエムクト達は強襲することに成功したし、邸宅内部の情報は筒抜けだった。少女は自分の任務が達成出来たのを確信すると、人知れず離れていった。
軍靴が廊下の床板を鳴らす音が響きわたり、怯えて叫びながら逃げていく使用人達。黙々と歩いていく彼らの手には愛用の武器が握られていた。しかし、先頭のエムクトだけは成彦から渡されたあるモノ(・・・・)があった。それを撃った時の感想は最悪の一言だった。反動はデカいし装弾数が最大でも6発でなにより射程が極端に短い。しかし、威力だけは抜群だった。
歩きながらチューブ型弾倉に一発ずつ図太い弾を込めるエムクトの耳が、ドタバタとこちらに走ってこようとする音を捉えた。部下達も聞こえたようで前に出ようするのを、エムクトは止めた。
通路の先から現れたのは、和服を着て腰に刀や短刀を挿した男達。年齢はバラバラだが共通していることはこちらを油断なく見据えており、いつでも腰の得物を抜けるように手を添えていた。
「すまないがご客人。朝早くから何のごようかね、しかも土足で」
こちらの目的を知っていながらも、そう聞いてくるのは一人の老人。眉間どころか顔まで皺くちゃだが、人好きにさせる雰囲気を放っているのを感じ取ったエムクトは鼻を摘まんだ。その甘ったるい臭いは酷く、脳味噌まで溶かされるような気がした。
「ほう、これに耐えるとは。噂には聞いていたが」
「てめっ!何しやがった!?」
飄々とした態度で感心した様子を見せる老人に、怒鳴り散らす部下を制止させるエムクト。老人に従う男達をよく観察すると、まるでよく躾けられた獣のごとく微動だにせず、その目は薄く濁り切っていた。好戦的な表情で唸り声を上げる者は、もう犬そのものだ。
「何で裏の人間がここにいやがる」
そしてなにより隠し切れない血の臭い。何回も何回も上書きしてついた鼻に感じるこの独特な臭い。
「そう言うご客人も大概じゃよ。よほど嗅ぎ慣れた屑しか分からないじゃて」
これが分かるお前ら全員同類だ、言外に語っている老人に違いないと同意するエムクトに溜め息をつきながら老人は言った。
「すまんが大人しく帰ってくれんかね。こちとら、手塩を掛けて揃えたのを失いたくないじゃが」
「残念だがご老人。我々の主君を知っているなら、ここに我らが来た理由は・・・」
「そこから先は言わないでいい。まったく、久しぶりに羽振りが良くて楽な仕事が来たと思ったら、とんだ貧乏くじじゃ。」
そう言って、舌打ちしながら腕を動かした。すると、老人の後ろにいた男達が出て来る。得物を構えて体の重心を前に傾けたのを見た、エムクトの部下達も手慣れた武器を構えた。
「これも仕事での。恨むのなら主らの主人を恨め」
老人が腕を振り落とすと男達は鎖から解き放たれた猛犬のごとく、姿勢を低くして向かってきた。相当慣れていると見たエムクトは、成彦から与えられた銃を腰だめに構えた。猛然と突進してくる集団の先頭にいたのは、まだ二十歳を過ぎたどうかの青年。エムクトは目を細めたがそれだけであった。
「キィィィエェェェェェ!!」
ズドォン!!!
目の前で奇声を上げながら刀を振り上げた瞬間を狙って、エムクトは撃鉄を引いた。銃口から放たれた12番ゲージの弾丸は、青年の胸に複数の風穴を開け、体をくの字に曲げさせた。至近距離からの衝撃に、その場で仰向けに卒倒した青年に思わず足を止めてしまう男達。それをエムクト達が逃すわけもなく、致命的な隙を晒す男達を叩き潰していく。一人ずつ無残に殺されていく男達を見ても、老人は顔色一つ変えなかった。
最後の男が頭丸ごとミンチと化して崩れ落ちた時には、廊下が酸化した血だまりにより真っ黒に染まった。エムクトが持つ過熱し薄っすらと白煙を上げる小銃モドキを向けられても、老人は相変わらず落ち着いた表情で、耳に指を突っ込んでいた。
「・・・まあ、何ともバカみたいにうるさいのぉ。その鉄砲は」
「悪く思うな。これはツァーリから頂いたモノだからな」
ライフル銃に似た形をしながら性質は真逆の武器。それがエムクトの持っている銃の特徴。近距離での殺傷能力を極限まで高められた銃はショットガンと分類され、日本では散弾銃と呼ばれる。エムクトのショットガンは19世紀で開発された中で完成度が最も高い、〈ウィンチェスターM1897〉で一番新しいタイプのライオットモデル。
「見たこともない種類の銃かて。お陰で儂の手駒が全滅してしまったんじゃ」
「なんなら、今度は爺さんが受けるか?」
「やめとくかの。命が幾つあっても足りそうにない」
そう答える老人は困ったように頬を掻いた。しかし、これ以上の抵抗は無駄な労力を消費するどころか、自分の命すら失うことになるのが目に見えている。まだ奥の手は残っているが、それは最後の生命線だ。
「あぁぁ・・・。負けじゃ、負け」
どう足掻いても勝てないと悟ると、さっさと両手を上げて降参する老人。余りにも潔過ぎてエムクトは銃を構えたまま動かない。
「何もそこまで疑うことなかろう。儂はこのとおり武器は持っておらん」
「・・・」
「それに依頼を失敗したんじゃ。もう裏稼業は続けられんし、続けようとせんよ。年も食い過ぎておるしの」
「・・・運が良かったな。ご老人」
エムクトが〈ウィンチェスターM1897〉の銃口を下に向けると、部下達も得物を戻す。それを見てホッとした老人は、去り際にこう呟いた。
「それでは異国の軍人よ。地獄で会う機会があれば酒を飲んで語り合おうぞ・・・。ああ、それと今度は堅苦しいのは無しで頼むよ」
視界から去っていった老人の気配が急速に薄くなる。最後の最後まで掴み難い老人だったと考えていると、後ろで部下達が必死に腹を抱えているのに気がついた。何となく予想はついた。
「何を笑っている」
「いや・・・何でって・・・」
「エムクトの兄貴が・・・あんな丁寧に・・・。ぶほぉ!!」
「駄目だ!!腹が!腹が可笑しく!うへぇへぇへぇ!!!」
普段の言葉遣いとはまったく違うエムクトに爆笑する部下達を、鉄拳制裁することで黙らせる。暫くして復活した部下達を連れて居間に向かう。護衛で腕が立つのは老人が率いていた連中だけようで、食い止めよう現れたのは小物ばかりだった。次々と物言わぬ肉塊へ変わっていく仲間を見て、その場で吐き出す者もいたが等しく彼らが信じる天国へ旅立っていった。
邪魔する者を全て排除しながら、やっと目的の人物がいる部屋に辿り着いた。部屋を取り囲むように部下達を配置すると、エムクトは障子を蹴破った。
その先にいたのは二人の老人。一人はのっぺらとした顔つきをしており、もう一人髭を蓄えは猜疑心を強い目をしていた。ツァーリが欲するのは二人目の方だ。
突然現れた狼藉者達に罵倒を浴びせようとした老人二人の口に、睡眠成分を持った薬品に浸した布を突っ込む。抵抗しようと暴れていたが段々と鈍くなり動かなくなった。眠って大人しくなったのを確認して担ぎ上げる。
「こっちのご老体はどうします」
「その辺に捨てて置け。余計なモノを抱え込むな!」
余計なモノと言われた人物の名前は田中光顕。内閣書記官長や貴族院議員を務め宮内大臣として明治天皇に奉公した伯爵の地位を持つ華族。エムクトが担ぎ上げている人物とは隣同士で、公人私人の両方で友好的な関係を持っていた。
目標を捕らえたエムクト達は警戒しながら邸宅から出ていくと、妨害を受けることなく庭園の中を歩き来た道を戻っていく。門の穴を潜ると、待っていた愛馬が嘶きながら顔を寄せて来た。可愛らしい仕草に目を細め労わるように撫でてから、担いでいた目標を布で包んでから乗せる。布で包み込むことによりなるべく傷つけないようにしてから、愛馬に乗り込み走らせた。分単位で念入りに計算された予定通りにクーデターが進行しているのを実感したエムクトは、今頃帝都各地で工作破壊活動に勤しんでいる戦友達を思った。
大日本帝国陸軍・独立(外人部隊)連隊『ロシャーナ』は、初動で帝都に点在する各鉄道車両基地並びに東京駅を制圧すると、各中隊に割り当てられた目標に向かって進撃を開始した。
旧コッサク兵士や帰化ポーランド人兵士が多数を占める第八中隊・騎兵隊兼補給部隊が山縣有朋の拘束と移送。
第八中隊に特殊爆薬を提供した第六中隊・工兵隊は小隊ごとに分散し、他中隊が包囲する陸軍省や内務省、国会、霞が関官庁街が外部と交信する為の有線回線を一時的に使用不可能にした。
第二、第九・第十の三個中隊は第八中隊の援護と所定地域の封鎖に。
第七中隊が帝都全域の鉄道網を確保し、敵対勢力が来襲した際の足止め。
連隊随一の火力を保有する第四中隊・砲兵隊が主だった大通りに陣取り、〈二十八式野砲〉で遠目から恐る恐る見てくる民衆達を威圧していた。
荒くれ者共が多いロシア人達の中で、あくまで比較的に大人しい部類に入る連中を搔き集めた第三・第五中隊が皇居を囲むように展開。近衛師団と互いに武器を向けない奇妙で静かな対立をする。
予想だにしなかった事態に帝都全域が静まり返る中、ロシャーナ連隊第一中隊は首相官邸に入り鼠一匹逃がさない厳重な警備体制を敷いていた。
この時期の内閣総理大臣は1929年に専用の官邸が完成するまで、西洋風の木造二階建ての旧太政大臣の官舎を利用していた。今日、そこには多くのロシア人兵士が日本人警官達と取って代わって、即席のバリケードと合わせ〈保式機関砲改〉を建物随所に設置することで要塞化し、いつでも〈三八式小銃〉を撃てるように待機していた。
明治期に建造された西洋風官舎で共通することと言えば、招聘し設計に携わったお雇い外国人の母国から大量の装飾品を持ち込みふんだんに使用することで、その国の文化が限りなく表わしていることであろう。
招かれざる客である珠洲ノ宮成彦が通された一室も、外国色溢れる物で固められていた。明治時代、何人もの強者揃いの外国大使を招き入れ、血を吐くような交渉を繰り返して悔しさを胸の奥深くそこに仕舞い込み、欧米列強と結んでいた不平等条約撤廃や様々な技術援助を勝ち取ってきた舞台。
部屋に通されてから30分くらい時間が経った頃。ようやく成彦が会いたかった人物が現れた。扉を開けたロシア人兵士に立腹とした表情を向けながら入ってきた、その人物を成彦は海軍式敬礼をもって迎え入れた。
成彦から敬礼されるとは思っていなかったのか、一瞬面食らった顔をしたが、何十年にも渡って軍政家として政界を過ごしてきたこの男は、成彦と対面する形で椅子に座った。
最初に口を開いたのは、今回の下手人、珠洲ノ宮成彦本人だった。
「手荒くしてしまい申し訳ありません。権兵衛閣下」
謝罪された第16代内閣総理大臣、山本権兵衛はこう言い放った。
「いったい何が目的だ。子供のイタズラには度が過ぎているぞ!」
叱責された成彦は涼しい顔をして答えた。
「必要なことだからです」
「必要?貴様はそれだけを理由にこんな大それたことを起こしたのか!?」
「はい」
その言葉に絶句し開いた口が塞がらない権兵衛。クーデターを起こした張本人を問いただしてみたら返ってきたのは、余りにも短すぎる理由。日本と言う国が形作られた神話から現代まで。時の朝廷・幕府に対して反逆した者は数知れず。誰もが権力と言う名の美酒を我が物にしようとしてきた。
それが必要だからと言う理由で、帝都に軍を進めた成彦に言葉が出なかった。
「それに今回の事は御上に許可を頂いておりますゆえ」
「なにぃ!?」
成彦が懐から皇室の菊が刻印された封筒を取り出すのを、ひったくるように受け取り中身を開封した。素早く一読した内容は極めて簡潔だった。
『よきに計らえ』
「こんなのが勅命であってたまるか!」
怒りを大爆発させながら紙を叩き返そうとした山本権兵衛に、おぞましい気が襲い掛かった。全身から汗を流しながら気配を辿ると目の前の少年に行きついた。
赤黒いオーラを撒き散らしながら、ヒトをヒトとして見ていない冷酷に染まった目で権兵衛を睨み付けている成彦。その肩に瘴気を撒き散らしながら権兵衛を見据える一匹の蛇。歪んだ笑みを浮かべ獲物を狙う目で見つめてくる蛇に、言いようがない恐怖を憶え慌てて先ほどの言葉を撤回する旨を述べる。
「・・・・・・二度目はありません」
成彦がそう言って収めると、蛇はとても残念そうにしながら消えっていった。胸ポケットから手拭いを取り出して額の汗を拭きながら、疑問を口にした。
「何故、クーデターを起こした?」
「先程答えた筈ですが」
「シラを切る気か。お前が『薩摩』で起こした惨殺事件の隠蔽処理を担当したのは儂だ。狂人と呼ばれながら帝国政府を脅してきた貴様は唯一、陛下の言葉だけには絶対服従だった」
「天皇陛下のお言葉は絶対なのは承知していますが」
「そこが気に入らん!」
拳をテーブルに叩きつけると、鋭い眼差しで成彦を見る。
「貴様は陛下を!皇室を隠れ蓑にしている!帝国を発展させようとする気持ちはよく分かる。しかし!物事には順序がある!貴様はそれを分かっていながら無視している!何故だ!?」
それは山本権兵衛のみならず大日本帝国の全ての高官が一度は考えたことだ。
何がそうさせるのか?彼は何処を目指している?それで帝国は何を得る?
珠洲ノ宮成彦が皇国に齎そうとしているのは何なのか。
「未来を改変しなければなりません」
「・・・未来だとぉ?」
今。この小僧は何と言った。未来?ふざけるな。1896年に王政復古の大号令が下り帝国が開闢してから50年以上が経っている。それを・・・それをまだ30も過ぎていない若造に語らせる。惨めだ。余りにも惨めだ!
「このまま行けば帝国は滅びます。残火を残すこと無く」
「それで?」
「起爆剤は私が用意しなくても火種が既に欧州にあります(・・・・・・・・・・・・)。問題は爆発した後の日本をどうするか、これを最低で三か月以内には計画しなければなりません」
「その物言いではまるで欧州で戦争になるみたいではないか?」
「バルカン半島」
絶対的な自信を込めながらヨーロッパの一地方の地名を言う。
成彦は知っている。100年後も残る深く拭い去る事が出来ない民族対立と、膨大な死者と大きすぎる傷跡を残し、新たな戦争への道を作り出した戦争を。
「今年の6月28日。その日を境に世界は激動の時代を迎えます」
「バカな。欧州列強は確かに対立しているが、戦争に発展するほどではないぞ」
権兵衛は自らの常識に従って反論する。だがそれは、この時代の人間にとっての常識であり過去のモノだ。成彦の常識は未来の常識であり、それが周囲との亀裂を生み反感を招く原因でもあった。過去の常識は現在の常識であり、未来と言う先の見えないモノに忌避感を抱くのも仕方なかった。それを成彦が周囲に自らの思惑を容易に明かさないのも拍車に掛けた。
「今の欧州は王室外交の残滓を啜っているようなものです。ウィーン体制が破綻して以来の平和を享受していますが、それは同時に各国の軍備拡張を促進するだけです」
「平和は次への戦争の準備期間と言いたいのか?」
アメリカの作家、アンブローズ・ギンネット・ビアスの著作『悪魔の辞典』の平和の項。そこにビアス特有の冷徹な個性によって強烈に、平和とは何か?と説かれている。
「七つ海を制するは世界帝国。日の沈まぬ太陽がイギリスならば、空高く羽ばたく黒鳥がドイツです。両国が戦艦経済を展開していますが、それに乗っかって急速に拡大している国が二つほどありますけどね」
飽きない開拓心を宿す新大陸の民主主義王国。200年に及ぶ鎖国から世界へ飛び出し天皇制を掲げる極東の帝国。
そう、大日本帝国とアメリカ合衆国だ。
「話を戻しますが、今の欧州はマッチ一本で爆発しそうな火薬庫を必死に抑え込んでいるのです」
「ならば文屋どもが書き立てる欧州の平和とは何だ。貴様が言う仮初めの平和なのか」
すると成彦は姿勢を崩して背もたれに体を預けながら言った。
「・・・・・・目を逸らしているのです。現実から」
そう切り出した成彦であったが、まるで二度と帰ることが出来なくなった故郷を思う一人の老人のように語り出した。一つ一つ思い出しながら後悔の念と一緒に吐き出していく。己の理想を突き通そうとした為に、現実との折り合いがつかなくなり、命を落とした男の末路から来たものかも知れない。
「普仏戦争以前から戦争に言えることですが、これまでの戦争は長くても二年以内に終結したのが大多数。三年以上続いた戦いなど歴史上の出来事で、それは近代ではありません。古代や中世の時代です。」
「当たり前だ。弓や鎧で戦う時代ではないぞ!」
そう叫びながら否定する権兵衛だが、ある事に思い至った。近代ではない?
「近年起きた戦争で大規模だったのは、普仏戦争とロシアと我が国が東アジアで激突した日露戦争ぐらいです。しかも普仏戦争はドイツの圧勝で終わっています」
「日露戦争は帝国が死力を尽くして勝った戦だ。それが違うと言うのか」
「違います。そもそもロシア帝国陸軍の主力は本来、欧州方面であり編成も欧州の環境に対応したものです。また兵站拠点となりえる大都市の殆どは同じ欧州にあります。日露戦争の場合、世界最大規模のロシア陸軍は、武器弾薬食料の生産拠点から遠く離れた極東で戦う羽目になり、補給もシベリア鉄道しか使えない状況でした」
ウラル山脈以東でロシア帝国・極東方面軍向けの軍需物資を生産する工場をもっていた都市は、エカテリンブルグ・イルクーツク・ウラジオストックが代表的である。しかし、これら三都市は全体的に見ればあくまで補助的な役割だった。サンクトペテルブルク・モスクワ・ニジニ・ノヴゴロドと言った大都市にある工場群から吐き出される大量の武器。ウクライナやベラルーシなどのロシア最大の小麦生産地帯から運ばれる豊富な食料。それがユーラシア大陸最大の軍隊を支える原動力。それらがあるからこそロシア帝国は欧州列強の一角として君臨していた。
「ヨーロッパ本土の構築されていた鉄道網と違い、シベリア鉄道は脆弱なモノでした。まあ、それでも我が国のと比べれば良好なのですが。」
ヨーロッパ方面とアジア方面を繋げているシベリア鉄道だが、幾つかの弱点を抱えていた。一つは、並行して走る筈だった予備路線が日露戦争時には存在しないこと。二つ目は、シベリア特有の湿地帯で走行ルートを制限されたこと。三つ目が、戦時には軍用として利用されるのが分かっていながら複線化されず、単線なままで運用されていたことである。
それに対して日本軍は、ロシアとの戦争を念に置いた輸送計画を立案。三笠を筆頭とする六六艦隊が制海権を確保すると同時に、諸外国から購入していた輸送船や国産の船舶を総動員し、大陸へ帝国陸軍の兵士達と大量の物資を輸送していた。
「ロシア帝国の戦略はヨーロッパが主軸です。これはあくまでも仮定の話ですが、我が軍がロシア・ヨーロッパ方面で戦った場合、無残に敗北すると思いますよ」
日露戦争は、ヨーロッパ・ロシア本国から遠く離れたシベリアで補給が制限されていたロシア帝国軍に、海洋国家として実力を発揮していた日本軍が勝利した。
つまり戦略的には対等な条件ではなかった。自力では明らかにロシア帝国が大日本帝国を圧倒していた。日露戦争で日本が勝つことが出来たのは、正に奇跡としか言いようがなかったから、欧州列強はこの勝利を歓迎しながら最大限の警戒を抱いた。
「列強各国の軍首脳部は短期決戦を目的とした作戦計画を立て、それぞれの政府は軍部の計画に沿って外交や経済を調整します。それが一年以内を目処に戦時体制が解除されることを念頭に置いて。欧州では、一年で戦争を終わることを何と例えているか知っていますか?」
「・・・いや、知らん」
「これは英仏伊独露関係なく兵士達が笑顔を浮かべ家族に言う言葉です。『クリスマスまでには帰ってこれる』各国が徴兵する際も、この言葉を謳い文句にする場合があります」
「クリスマスか・・・確かキリスト教の祭事のことであったか」
「はい。12月25日までには戦争が終わる。これは欧州の一般民衆は無論、政府軍部の高官や王室まで信じていました」
「・・・・・・まるで神話だな」
「確かに」
平成日本もそうだった。憲法9条を掲げ世界の恒久平和を謳い、頑なに信じていた。冷戦構造が崩壊し世界から戦争が遠ざかったと、無邪気に信じ安寧に使っていた時代。急速に軍備を拡張し、周辺地域に勢力を拡大し始めた龍の国。核兵器の製造に邁進し大陸間弾道弾の開発に心血を注ぎ込む、北の独裁国家。国家経済の発展再生と共に旧式化していた海軍力の更新を開始し、強きリーダーに率いられる雪の赤熊。
それでも、心の奥底で平和を信じたい戦うことを禁じられた侍の国。
「戦争の火種は誰もが思いもしないところから転がってきます。切っ掛けは簡単に作れてしまうのです。それこそ一発の銃弾さえあれば」
山本権兵衛は腕を組んで目を閉じ考えた。万が一、成彦の言葉が正しかった場合、欧州全土が戦火に晒される。となれば、世界の目は必然的にヨーロッパに向けられ、注目されることが無くなった日本は、その時どうすれば良い。考えれば考えるほど頭の中で、様々なことが思い浮かび上がってくる。
面白いではないか。身内の不始末に踊らされ築き上げてきたモノを全て失おうとしているこの身に、帝国の命運を左右する重大な事件が起きると聞いて飛びつかずにはいられない筈がない。
「珠洲ノ宮成彦。中佐の身である貴様は帝国に何を齎す」
「一時の繁栄を」
「永遠ではないのだな」
「この世に永遠など存在しません。永久不滅など弱者の夢物語にしかありません。強者は未来ではなく明日を語る者であり、過去を振り返ることが出来るのです」
「弱者はそれが出来ないと?」
「夢見るだけで過去を振り返る余裕が無く、今日生きるだけで精一杯ですから」
違いない。欧州列強に植民地化されたアジア諸国や現在進行形で食い物にされている中国も、今や大国としての影すら無くなってしまった。
日本は運が良かっただけだった。多少の内戦が起こったものの、その後は迅速に国内を統一し、強引な富国強兵政策を実施する事で極東の憲兵として地位を確立出来た。憲兵として振る舞うことを欧州列強に許されたからこそ、帝国主義が跋扈するこの時代で独立国していられるのだ。
「貴様の計画。聞かせて貰おうか」
取り敢えず話を聞かなければ分かるものも分からない。聞く姿勢を見せた山本権兵衛に、珠洲ノ宮成彦は日本の明日を語る。帝国が歩む筈の道(歴史)から外れ、未知の流れに飛び込んでいく。
これから実行すべき富国強兵政策について説明する珠洲ノ宮成彦の知識は、正に後出しジャンケンそのものだった。日本が発展する為に必要な政策を言う成彦に、山本権兵衛は長年の経験から導き出した問題点を淡々と指摘する。敗戦後に一刻も早く復興する必要性に駆られ次々と経済政策を打ち出すことが出来た平成日本に対して、戦前日本は財閥や大地主が利権を固めており国内開発が打ち止め状態であった。だからこそ、多くの野心的思想を抱いた人々が満州に渡り、満州大改造を計画・実行しようとしたのだ。
議論の結論としては、旧来の考え方に囚われている者達に対して相当な準備期間を置いてから強権を持って、一気に地盤を丸ごとひっくり返して改革を断行しなければならないと一致した。
長時間の言葉のぶつかり合いに二人は疲弊し休憩を取った。官邸住み込みの使用人がロシャーナ将兵に監視されながら持ってきた茶に手を伸ばして喉を潤した。すると、神妙な顔をしたゲルビルが入ってくると成彦に耳打ちした。
「エムクトが来ました」
「目標は?」
「連れてきています」
エムクトを通すように言うと、ゲルビルは早歩きで部屋の外に出ていった。
訝しくする権兵衛に無言の微笑みを見せる成彦。少し時間が経つと、唐突にゲルビルが出ていった扉が蹴破られるように勢い良く開き、そこから布で包まれた人型を担いだエムクトが姿を見せた。その後ろから小言を連発するゲルビルやエムクトの部下達もぞろぞろと入ってきた。
「靴の汚れを落としてから入れと言っているだろうが!」
「別にいいじゃんか!こちとら早く爺さんを連れてくるように言われてんだから。少しぐらい見逃せや」
担いでいたのを地面に降ろしてから普段の言葉遣いで反論するエムクトに、うがー!と怒りながら説教するゲルビルであったが、本人は聞く耳持たずの状態。
地面に降ろしたモノが降ろされた衝撃で目覚めたのか、ジタバタと暴れ出した。それを見てエムクトの部下達が視線で聞いてくるのに首を縦に振って答える。乱暴に布を取り払われたその人物は、よほど呼吸が苦しかったのか荒い息遣いをしながら回りを見渡し、成彦を見つけると跳び掛かろうとしたが、その前に取り押さえられた。それでも憤怒に染まった顔を向けて罵声を吐いた。
「珠洲ノ宮の小僧!!これはどういうことだ!?」
「見れば分かるでしょう。山縣有朋公」
ロシア人兵士二人に肩を押さえられ地面に跪いている山縣公を見下ろす成彦。それを横から見守る権兵衛とロシャーナ将兵達。明らかな差がそこにはあった。万全を期して望んで側と高を括って成すがままの側。
こちらを睨んだままの山縣公に、成彦は一切の躊躇なくこう告げた。
「山縣公。貴方には踏み絵に成って頂く」
「踏み絵だと!?」
そう。山縣公が築き上げた軍閥は陸軍だけではなく、内務省を筆頭とする中央省庁に幅を利かせている。それを無作為に粛正するのは余りに惜しい。三流やクズは切って捨てればそれで良いが、まだ使える二流や多くのネームドがいる一流は取り込んでおきたい。使えるものは全て使う。
「貴方はよく知っていると思いますが、私は永田町だけではなく霞が関で帝国に奉公している筈の人達から毛嫌いされていましてね。どうすればお願いを聞いてもらえるか考えたのですが・・・・・・・。派閥の長である貴方を見せしめにした方が手っ取り早いと思いまして」
殺害予告を受けた山縣は顔面を真っ赤にして声を荒上げた。帝国創生期から軍に身を置き、国軍の父と呼ばれるまでになった山縣にとって到底受け入れられない言葉だった。
「貴様!!こんなことをしてただで済むと考えているなら大間違いだぞ!?貴様が可愛がっている露助の兵隊など!近衛が直ぐにでも鎮圧してくれるわ!!」
「それが?」
露骨に馬鹿にされた瞬間、ゲルビル達が僅かに足を動かしたのを見過ごさず止めてから、成彦は言う。それがどうしたと、近衛師団の主が誰であるか忘れていないか?近衛は陸軍参謀本部ではなく、皇居の住まう御上を守る防人なのだと。
「近衛師団は無論、他の師団旅団も誰も来ませんよ。貴方を助けに」
淡々と言われた山縣公であったが、何を言われたのか分かっていない困惑した表情を浮かべていた。
老いたな。数え切れないほどの神算鬼謀で政敵を排除してきた山縣公らしくない、オロオロした動きと表情にそう思った成彦は、ここぞとばかりに畳み掛ける
「山縣公。貴方には国家機密情報漏洩だけではなく、国家転覆罪の疑いがあります」
「なにぃ!?」
「内務省職員と懇意の新聞社を通してドイツ帝国に我が国が不利になる情報を渡すばかりか、自らの都合がいいように宮内庁に過剰な干渉をした疑いあります」
「儂が!!この儂が!!帝国をここまで発展させたこの儂が!そのようなことをする筈がないだろう!?」
「はい。貴方が罪を犯した証拠はありません」
横から傍観していた山本権兵衛だけではなく、糾弾されていた山縣も成彦が呆気なく嘘を認めたことに唖然した。
次の瞬間、珠洲ノ宮成彦が言い放った言葉によって驚愕に変わったが。
「証拠など作ればいいのです」
その余りの酷さに帝国を引っ張ってきた二人の脳が止まりかけたが、余りの暴論に山本権兵衛も流石に口を挟んできた。
「珠洲ノ宮!それはやり過ぎだ!?」
このままではマズイと場の空気を感じ取った権兵衛は、考え付く限りの言葉で成彦を諫めようとするが、狂気の暴君を止めることは出来なかった。
「山縣有朋。貴方は明治維新から今日まで、身を粉にして働いてきたことを一人の臣民として尊敬しています。しかし、貴方の死後に膨張し過ぎた軍閥によって引き起こされる悲劇を防ぐには大元を押さえなければなりません」
何を言っているのだ?この小僧。儂が死んだ後?儂の子飼いたちが起こす悲劇?何を言っておる。儂はそんなの知らん(・・・・・・・)。知らんのだ。何だ、その目。やめろ。憐れむ目で見るな。同情の眼差しを向けるな。同類を見る目で、この儂を見るな!
「帝国は皇国は日本は。変わらなければなりません、どんな手段を使っても。外道に堕ちても、地獄に招かれようとも」
成彦が首を振って合図すると山縣を押さえていたロシア人兵士が、別室に連行していく。別室では自害用の薬か小刀が用意されている。死人に口なしと言うが、山縣公には敢えて自殺してもらうことで、今回の事を有耶無耶にしてもらう。そうすれば首謀者と思われる人物が亡くなったことで、捜査の手を側近や部下に向けられる。その道のプロがいるロシャーナ兵士に拷問にかけさせて口を割らすことは出来るが、これは最初で最後の山縣有朋に対する敬意だった。
名誉ある自害を。
これは、成彦が敬愛する御上からの頼みでもあった。
扉を開けられ廊下に連れ出されそうになった山縣有朋は、成彦がいる方に振り返り声を上げた。それは、己が人生を帝国の為に捧げてきた男の最後の言葉。
「小僧!貴様は修羅だ!!自らの目的の為に如何なる犠牲を厭わない暴君だ!!覚えていろ!貴様は必ず後悔することなる!地獄の底から嘆き声を上げる貴様が、貴様がくるまで待っているぞぉぉぉ!!!!」
パタンとゆっくり閉じられた扉をジッと見つめていた成彦は、肩の荷を下したかのように姿勢を崩し、軍帽で顔を隠し誰にも聞こえないように成彦は呟いた。
「分かっていますよ、そんなこと。私は一回だけ死を逃れた魂です。・・・・・・・次は地獄ですよ」
2月12日、帝都東京から日本全国に衝撃を与える電報が発信された。
元老
山縣有朋
切腹
この知らせに、反軍閥を自称する自由主義者達は歓声を上げたが、直ぐに青ざめた。山縣有朋を失脚に追い込んだ人物がよりにもよって、軍人皇族で知られている珠洲ノ宮成彦だったからだ。それまで軍内部や役人から聞こえてくる噂程度しか分からなかったが、相当狂っている人物だとは聞いていた。それでも山縣有朋よりはマシと考えたが、その判断が間違いだったと後悔することになった。
嘉仁(大正)天皇から受領した全権状を振りかざして成彦は、帝都全域に戒厳令を布告。関東に駐屯地を持つ帝国軍全軍に職務一時停止令を出し不安分子の動きを禁じた。呉や佐世保を根拠地とする帝国海軍主力艦隊は、転生仲間の六角一郎少将が抑えていた。クーデター勃発から一週間経った頃には、六角少将は『河内』級弩級戦艦で編成された第四戦隊と二個駆逐隊を引き連れ東京湾に陣取り、満州独立戦争の時には多大な迷惑を掛けた龍造寺元信大佐が第三師団(名古屋)第二旅団を連れて上京を果たした。
これを以って長である山縣有朋を失い、内部分裂を始めた旧山縣軍閥の粛正を開始。永田町、霞が関官庁街に軍靴の音が響き渡った。汚職や血縁による不正採用の疑いがある者は片っ端から拘束され関係資料は全て接収された。軍官民関係なく逮捕者の列が拘置所の前に並ぶ中、故意に見逃された者もいた。司法大臣の経験があり後の第23代内閣総理大臣を務める清浦圭吾や、張作霖爆殺事件の対応のまずさから昭和天皇の信頼を失い辞職する第26代内閣総理大臣になった田中義一、第二次西園寺内閣総辞職の原因である陸軍大臣の空席状態を作った上原勇作陸軍元帥など。今後の日本に影響を与えた人物や既に影響力を持っている者は、挙って成彦の元へ赴き傘下に入ることを誓約した。
結果、無残に崩壊した山縣軍閥の代わりに誕生したのは、陸軍だけではなく海軍や経済界にも勢力を及ぼす巨大な珠洲ノ宮軍閥。派閥のトップに座った珠洲ノ宮成彦が山本権兵衛内閣を強烈に後押しし始めると比例して、倒閣運動は急速に下火になり最終的には消滅した。民衆を煽っていた野党や新聞社からも逮捕者が出た上に、ある新聞社に至っては経営幹部全員がブタ箱に送られ倒産するところまであった。頭から氷水をぶっかけられた形の世論は沈黙するしかなかった。
二・一二の政変と呼ばれるクーデターに対して、海外の反応は極めて冷静に対処した。イギリスは日本政府や軍部に存在した親独派が排除され、自国シンパが躍進したのを歓迎。フランスは水面下の接触を一気に表に出し珠洲ノ宮家との直接コンタクトを図り。ロシア帝国は最悪シナリオである日独同盟によるロシア挟撃の可能性が無くなったのを神に感謝した。モンロー主義に染まり国内開発に夢中のアメリカは静観。絶賛国内不安のオーストリア=ハンガリー二重帝国とイタリアはそれどころではなく。唯一、ドイツ帝国は控えめの抗議文を駐日大使経由で日本政府宛てに送った。
これまで、ここぞとばかりに内政干渉を行ってきた欧州列強が大人しい中、積極的に歓迎したのが満州王国。独立を支援してくれたのは確かに日本ではあるが、実質的な後見人は成彦であるし、独立戦争の際に直接義勇軍に参加し戦った実績と満鉄における満州人の立場を確約してくれた恩があった。満州王国政府から日本政府に対して、凄まじい熱意を込めた祝電を送ったが、受け取った日本側は困惑し取り分け総理大臣の山本権兵衛は戦慄した。珠洲ノ宮成彦は国内だけではなく海外にまで影響力を持っていたのを初めて知ったからだ。
一番割を喰ったのは官僚達だった。普段通りに働いていたら武装したロシア人達が官庁街を封鎖して家に帰ることが出来なくなり困っていたら、次の日にはクーデター側の兵士が職場になだれ込み切腹した山縣公と懇意だった、または近かった上司達を問答無用で連行していった。上司が座っていた席を早急に埋めなければならず、それぞれの部署から適切と思われる人材を臨時昇進させ遅れを取り戻すのに徹夜を繰り返すことになった。この混乱が収まるのは半年後の六月初頭で、官僚達はようやく訪れた休暇を喜んだ。もっとも二週間と待たずに再び徹夜の地獄に突入するが。
関係省庁がデス・ク・マーチを強いられる中、山本権兵衛内閣は珠洲ノ宮軍閥からの支援を受け国会解散、総選挙を実施。与党の立憲政友会は野党に対して圧勝し過半数の議席を獲得し、地盤をより強固に固めた。
一つの汚職事件からクーデターまでに発展した今回の出来事を、後にある歴史家が二流の演劇コメディ映画と酷評した。海外から見れば滑稽に見えたのだろう。満ち足りた平和を楽しんでいるヨーロッパ人にとって、注意するべきところは対立が深まるバルカン情勢であり、極東での出来事には驚くほど無関心だった。
少しずつ歴史の針が刻一刻と次の戦争に近づいていく。
山縣有朋については様々な憶測があります。
自分が描いた山縣公は飽くまでも帝国で忠実でありながら自らの権力の為に逆らう者を徹底的排除。
そこを成彦に上手く突かれた感じです。
常識的に考えば山縣軍閥が絶頂期の帝都でクーデターをしようと考えませんからね。
批判はあるでしょうが、訂正する事はありませんのでご了承ください。
それと遅れ申し訳ありませんでした!!