透明な境界線
梅雨の合間の晴れた日だった。
私は六本木の端っこにある、居心地のいいカフェの窓際の席を陣取っていた。ノートPCの画面には企画書の草案が広がっているのだが、集中力はとっくに途切れていた。
代わりに私の手元にあるのは、雑誌の切り抜きとハサミと、一冊のスクラップブックだった。
「——今日も可愛いな」
つぶやきながら、週刊誌の小さな記事を切り抜く。載っているのはVTuberの「星乃ゆめ」。所属事務所最大の歌枠配信者で、月に四十時間は歌っている。去年の夏に見つけてからもう一年になる。
スクラップブックをめくると、最初のページから最新のページまで、彼女の小さな変化が記録されていた。衣装が増えた。髪の色がわずかに変わった。ロゴがリニューアルされた。コメントの数が増えていった。そういうことが丁寧に並んでいる。
決して、いわゆる「ガチ恋」ではない、と自分では思っている。彼女のことが好きだ。声が好きだ。歌が好きだ。人間として尊敬している。
ただ、画面の向こうにいる人間のことなど知る由もないし、知る必要もない。私はただのファンだ。
そういう距離感を守りながら、スクラップブックに一枚の切り抜きを貼る。糊の乾く間、指で押さえていると——。
「それ、星乃ゆめちゃんですね」
声が降ってきた。
顔を上げると女性が立っていた。黒いキャップを目深にかぶりマスクをしている。アイスコーヒーの入ったグラスを持っていた。肩甲骨まである長い髪が薄いブラウスから流れている。
「……え、あ、はい」
動揺した。知らない人に、スクラップブックを見られている。
「ここ、座ってもいいですか?」
彼女は返事を待たずに向かいの席に座った。そして、マスクの下で微笑んだのか——目が三日月に細まった。
「私、星乃ゆめの、中の人、です」
・・・
最初は冗談だと思った。
VTuberの「中の人」がこんな風にカフェで声をかけてくるはずがない。それは都市伝説みたいなもので、Twitterのバズったスレッドでしか起きないことだ。
しかし彼女は、スマートフォンの画面を私に向けて見せた。星乃ゆめの公式アカウントのツイート画面。下書き欄に「今カフェでファンの人に声かけられた」と書きかけた文字があった。送信はされていない。
「——本当だったら、すごい」
「すごいですよ。私も驚いてます。あなたがスクラップブック開いてたの、後ろから見えちゃって。それで、なんか、声かけずにいられなくなって」
彼女はキャップを少しあげて顔を見せた。マスクはしたままだったが、目ははっきりと見えた。
二重で少し切れ長。まつ毛も長かった。画面で見る「星乃ゆめ」のLive2Dと似ているようでまるで違った。
違うけれど、同じ光があった。
「こういうの、普段やらないんですけど」
彼女は言った。
「ファンの方と会うの、正直ちょっと怖いんです。でも、あなたのスクラップブック見て、なんだろう、すごい丁寧に集めてて。好きなものを好きって言ってるだけの人だなって。それで、安心しちゃった」
私は立ち上がって、頭を下げた。
「いつもありがとうございます。配信、毎週見てます」
「座ってください。頭あげないで。恥ずかしい」
彼女はマスクの上から口元を押さえた。笑っているのがわかった。
その日から、私たちはそのカフェで何度も会うことになった。
最初は偶然だった。次も偶然だった。三回目はもう偶然と言えなかった。
彼女が「ここに来ることメン限で言っていいですか」と聞いてきたからだ。
「言わないほうがいいと思います」
「じゃあ、二人だけの秘密ですね」
彼女はそう言ってアイスコーヒーのストローを口に含んだ。その仕草が配信中にドリンクを飲む星乃ゆめと重なって私は胸が痛くなった。
会話は不思議なほど自然だった。彼女は本名を言わなかった。私も言わなかった。
彼女は「ゆめさん」で、私は「ファンの人」だった。やがて「ファンの人」は「あなた」になり、「ゆめさん」は「あの、ゆめのことなんですけど」になった。
彼女は配信の裏話を少しだけ私に話してくれた。歌枠で喉を壊しかけたこと。新衣装のデザインを何度も直してもらったこと。ファンからのスパチャを読みながら泣きそうになったこと。
「でもね、画面越しだと、泣いてるの見えないんですよね。だから大丈夫。ちゃんと笑える」
その言葉を聞いた時、私はスクラップブックの存在を思い出した。私が丁寧に切り抜いていたものは、彼女が丁寧に守っていたものの表面だけだった。
「——いつか、直接聞きたいことがあります」
「何ですか?」
「今は言いません」
「なんですかそれ。気になるじゃないですか」
彼女は頬をふくらませた。それが配信で見せる仕草と同じだと、私は気づかないふりをした。
八月の終わり、東京に台風が来た日があった。
彼女からLINEが来た。画面の向こうから雨の音が聞こえた。
「今、カフェの前にいます。閉まってました」
「なんで台風の日に来たんですか」
「あなたが来るかなって思って。来てないけど」
私は傘を持って走る。カフェの軒下で彼女はずぶ濡れになっていた。
傘を忘れたと言ったので、私は傘を差し出した。
コンビニの軒下で雨宿りをしている間、彼女は震えていた。怖い、と言った。台風が怖いのではなく、誰かと雨宿りをしていることが怖いのだとあとで教えてくれた。
「ファンの人とこんなことしていいのかなって」
「やめてほしいなら帰ります」
「帰らないで」
その三文字が、雨の音より大きく聞こえた。
秋になると会う回数は増えた。しかし彼女は一度も「中の人」の名前を教えてくれなかった。私も聞かなかった。境界線だった。
ある日、彼女が言った。
「来月、星乃ゆめの3周年ライブがあるんです」
「知ってます。チケット、もう取りました」
「——私、その日。あなたに会ってる人でいたいんです。画面の中じゃなくて。隣で観てる人でいたい」
「それはファンとしてですか」
「——わかんない」
彼女はアイスコーヒーのストローを噛む。秋になってもうアイスコーヒーは寒いはずなのに、彼女はいつもアイスコーヒーを頼んでいた。
「わかんないけど、あなたが切り抜いてくれてたものが、私が頑張れた理由だったのは本当なんです。だからファンとしてなのか、それ以外なのか、自分でもまだ切り分けられてない」
私はスクラップブックをバッグから取り出す。最後のページは空けてあった。そこに一枚の切り抜きを貼る。
今日の映画の半券。彼女が「これもスクラップブックに入れるんですか」と笑った。
「このスクラップブック、最初は星乃ゆめのものだったんです。でも今は、あなたのものになってます。あなたが誰であっても」
彼女はしばらく黙った。それから、マスクを外した。初めて見た、彼女の口元。少し笑っていた。
「私の名前、言ってもいいですか」
「——聞きたいです」
「でも、言ったら戻れないかもしれませんよ」
「戻らなくていいです」
彼女は名前を言った。私はその名前をスクラップブックの最後のページに鉛筆で書いた。
3周年ライブの日、私は会場の最前列にいた。巨大なスクリーンに映る星乃ゆめが歌っていた。いつもの声。いつもの笑顔。いつもの光。
でも私は知っていた。その声の主が昨日カフェで私とアイスコーヒーを飲んでいたことを。私のスクラップブックに名前を書いてくれたことを。
ライブが終わったあと、ロビーで彼女からメッセージが来た。
「今日、一番近い席にいてくれてましたか」
「いました」
「見えなかったけど、いてくれたんですよね」
「いました」
「——じゃあ、いつものカフェで。待ってます」
私は会場を出た。秋の夜風は冷たかった。でもポケットの中に入れたスクラップブックは温かかった。
あのカフェは今でも同じ場所にある。
私たちは今でもそこで会う。彼女はアイスコーヒーを頼み、私はホットコーヒーを頼む
彼女は「今日の配見てくれる?」と聞く。私は「当たり前だろ」と答える。
スクラップブックはもう二冊目に入っている。最初の一冊は彼女の「星乃ゆめ」としての記録で、二冊目は彼女の名前のある日々の記録だ。
「ねえ、最初に声かけたの、私だったよね」
「うん」
「勇気出したの、私のほうだよね」
「うん」
「なのに、なんであなたがかっこいいの」
「——かっこよくないですよ。ただ切り抜きしてただけです」
「それがかっこいいの」
彼女はマスクの上から私の手を握った。雨がガラスを流れて外の景色を滲ませていた。
境界線は、もう透明だった。




