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捨てられ聖女は光の川の渡し場でパン屋を開く〜「役立たず」と追放されたけど、死者のもてなし係は私が独占するのでお構いなく♪〜

作者: uta
掲載日:2026/08/01

「お前のような不吉な力、聖女の名にふさわしくない」


大神官オルドリックの声が、神殿の高い天井にわんわんと響きました。


(ああ、そういう扱いね)


私は跪いたまま、心のどこか冷めた場所でそう思っていました。水無瀬灯、二十九歳。もとい、この世界に生まれ変わってからは『捨てられ聖女』とでも呼ばれるのでしょうか。


「わたくし、ずっと怖かったんです。お義姉さまの目が、死んだ人を見ているみたいで」


義妹のセラフィナが、金の髪を揺らしながら大神官の隣で目元を押さえました。涙は……出ていませんね。演技がお上手なこと。


「魂が視える、などと不気味なことを申すのだ。神殿の名誉のため、身を引くのが賢明でしょう」


オルドリックが恰幅のよい体を揺すって、慇懃無礼に言い放ちます。


私は静かに顔を上げました。


「わかりました。出て行きます」


「っ……ずいぶん素直ですのね」


セラフィナが拍子抜けした顔をしました。喚くとでも思っていたのでしょう。


でも、無駄なんですよ。人に「不吉だ」「役立たずだ」と言われることには、前世で慣れていますから。過労で倒れるまでパンを焼き続けた、あの橋のたもとのパン屋で。


「ただ、ひとつだけ」


私は立ち上がりながら、二人を見ました。


「私を捨てたこと、そのうち後悔しますよ」


静かに、けれどはっきりと。


セラフィナの完璧な微笑が、一瞬だけ凍りついたのを、私は見逃しませんでした。


──それが、生きていた私の、最後の言葉になるとは思ってもみなかったのですが。



    ◆



神殿を出て、あてもなく街道を歩きました。


体が、重い。


(あれ……なんだか、前世の最後に似てるな)


視界が滲みます。厨房で膝をついた、あの日の感覚。誰にも看取られず、パン生地に突っ伏したまま意識が途切れた、あの──


気づけば、私は倒れていました。そして。


目を開けると、そこは知らない場所でした。


さらさらと、光の川が流れています。金でも銀でもない、優しい乳白色の水面。対岸は霞んでいて、見えません。そして、川べりには小さな船着き場。


(……ここ、どこ?)


「おや。若いのが来たな」


しわがれた声。振り返ると、白い長い髭のおじいさんが、腰をさすりながら小舟の櫂を握っていました。


「ここは、光の川の渡し場。死んだ者の魂が、次の世界へ渡るための船着き場じゃよ」


「死んだ……」


私は自分の手を見ました。透けてはいない。でも、妙に軽い。


(二回目かぁ、私の人生……いえ、死?)


変な感慨に浸っていると、視界の端でわらわらと動くものが見えました。


人、人、人。いえ、魂、魂、魂。


船着き場には、ずらりと長い行列ができていました。みんな不安そうにうつむいて、中には泣いている子どももいます。おじいさんの小舟は一艘きり。腰は曲がり、櫂を持つ手は震えている。


「すまんなあ……ワシもこの腰では、もう一日に数人しか運べんのじゃ。この行列も、いつさばけるやら」


おじいさんが、申し訳なさそうに列に頭を下げました。


荒れ果てた渡し場。待ちくたびれた魂たち。引退寸前の船頭。


私は、そのすべてをぐるりと見渡して──


(……あ、これ)


粉まみれのエプロンの紐を、きゅっと結び直しました。


(これ、私の出番だ)



    ◆



「カロン爺さん。この渡し場、台所はあります?」


「は……? だ、台所?」


おじいさん──カロン爺は目を丸くしました。


「かまどでも、火が起こせる場所でもいいんです。それと、小麦粉。あればバターと塩と、少しの砂糖」


「あ、ああ……船着き場の小屋に、古いかまどならあるが……嬢ちゃん、いったい何を」


「パンを焼くんです」


私はにっこり笑いました。


「あの人たち、みんなお腹が空いて、心細いんですよ。並んで待つだけって、つらいでしょう? だったら、温かいものを食べて、ちょっと話でもしながら待てばいい」


前世で、私はずっとそうしてきました。橋のたもとの小さな店で、疲れた顔の常連さんに、焼きたてを差し出して。


「ここが、あの世だろうと、なんだろうと──やることは同じです」


そのときでした。


バサッ、と黒い影が飛び出してきて、私のエプロンに勢いよくじゃれつきました。


「わっ!? ちょ、待って、押さないで」


大きな、つやつやの毛並みの黒い犬。私にぐいぐい頭を擦りつけ、尻尾をぶんぶん振り回しています。


「くぅん」


しかもなぜか、その鳴き声が三重に重なって聞こえました。


「こ、こら、ケルベー! お客人に失礼じゃろうが!」


カロン爺が慌てますが、黒犬はまったく聞きません。私の匂いをくんくん嗅いで、うっとりと目を細め、しまいには嬉しさのあまりか、ぽろぽろと涙まで流し始めました。


「……この子、泣いてます?」


「涙もろいんじゃよ、こいつは。じゃが……はて、おかしいのう」


カロン爺が、白い眉をひそめました。


「ケルベーは神獣でな。滅多に人に懐かん。なのに、嬢ちゃんには初対面で、まるで──『本物の匂いを、嗅ぎ当てたみたいじゃ』」


カロン爺は何かを言いかけて、口をつぐみました。


その意味を私が知るのは、もう少し後のことです。


「さ」


私は黒犬の頭をわしわし撫でて、立ち上がりました。


「かまど、貸してくださいね。──焼きたて、始めましょう」



    ◆



香ばしい匂いが、渡し場に広がっていきました。


古いかまどは意外とよく働いてくれて、ふっくらと丸いパンが次々に焼き上がります。バターの溶ける匂い、小麦の甘い香り。


「さ、次の方どうぞ! 焼きたてありますよ」


私が声をかけると、列の先頭にいた老婆の魂が、おずおずと前に出ました。


「……いいのかい、こんな婆に」


「もちろん。熱いので気をつけてくださいね」


手渡すと、老婆はひとくち齧って──ぽろりと涙をこぼしました。


「ああ……この味だ。あたしが、孫に焼いてやってた……」


「素敵なお孫さんですね。お話、聞かせてもらえます?」


私は隣に腰かけて、耳を傾けました。老婆はぽつぽつと語りました。貧しくても笑いの絶えなかった家のこと。心残りだった、最後に言えなかった「ありがとう」のこと。


ひとしきり話し終えると、老婆の輪郭が、やわらかな光に包まれていきました。


「不思議だねえ……胸のつかえが、すうっと消えていくよ」


「よかった。じゃあ、いってらっしゃい。向こうで、いいことありますように」


老婆は、今度は晴れやかに笑って、カロン爺の小舟に乗り込みました。すう、と魂が光になって、対岸へ渡っていきます。


未練を、ひとつも残さずに。


「……嬢ちゃん」


カロン爺が、櫂を握ったまま、呆然と私を見ていました。


「あの婆さん、三日も渡れずにいたんじゃ。心残りが強すぎて、船に乗れんかった。それが、たった今……」


「パンを食べて、話しただけですよ?」


「それが、できんのじゃよ、誰にも! 魂を視て、心をほぐし、未練を溶かして送り出す──それはな、失われた古の技じゃ。『渡しフェリーマスター』のギフト。何百年も、現れなかった……!」


ふぉっふぉっ、と、カロン爺の目に涙が滲みました。


「嬢ちゃんは大したもんじゃ。いや……あんたこそが、本物じゃ」


私は、ぱちくりと瞬きました。


(不吉な力、じゃなかったんだ)


神殿で「役立たず」と切り捨てられた、この目。死んだ人が視えてしまう、この力。


(これが、本物の聖女の力……)


じんわりと、胸の奥が温かくなりました。でも、私はすぐに、いつもの調子でエプロンを叩きます。


「まあ、なんでもいいです。困ってる人がいて、私にできることがある。それだけで十分ですから」


「さ」


かまどから、次のパンが焼き上がる香りがしました。


「次の方どうぞ!」



    ◆



──その頃、地上の神殿では。


「なぜですの!? なぜ浄化できませんの!?」


セラフィナの甲高い声が、大聖堂に響き渡っていました。


祭壇の前には、うっすらと黒い靄をまとった亡者が数体、うつろな目でさまよっています。彼女が聖なる光を叩きつけるたび、亡者たちは苦しげに身をよじり、けれど──消えません。むしろ、増えていく。


「まったく、忌々しい! なぜ大人しく消えませんの!」


「セラフィナ様、落ち着きを」


大神官オルドリックが、額に脂汗を浮かべて取りなします。


「もう三体……いえ、街には十を超える亡霊が出たと報告が。これでは民が」


「わたくしのせいだと言いたいの!?」


セラフィナがきっと振り返りました。その美しい顔が、醜く歪んでいます。


「わたくしは正しいのよ。正しいことをしているの。悪いのは──そう、あの役立たずのお義姉さまがいなくなったせいだわ! きっと、あの女が不吉な呪いを置いていったのよ!」


「……左様、でございますな」


オルドリックは調子を合わせながら、内心では別のことを考えていました。


(おかしい。灯を追放してから、明らかに事態が悪化している……あの娘の力を、我々は見誤ったのか?)


魂を浄化する──つまり、消滅させる。それがセラフィナのやり方でした。導くのではなく、力ずくで消し去る。


ですが、消されたはずの魂が、より強い怨みを帯びて還ってくる。まるで、あるべき場所へ渡れなかった者たちが、逆流してくるように。


(いや、認めるわけにはいかん。認めれば、灯を追放した私の判断が、致命的な誤りだったことになる)


その不安を、オルドリックは慌てて打ち消しました。


「案ずることはありません、セラフィナ様。所詮は、あの不吉な女の残した呪い。じきに収まりましょう」


「そうよね。わたくしは、正しいのだから」


二人は微笑み合いました。


──王都の空に、また一体、黒い靄が立ちのぼったことにも気づかずに。



    ◆



渡し場は、すっかり生まれ変わりました。


行列は嘘のようにさばけ、待つ間はパンの香りとおしゃべりで満ちています。ケルベーは相変わらず私のエプロンにじゃれつき、カロン爺は腰をさすりながらも、どこか楽しそうに櫂を漕いでいます。


ですが、ある日を境に、様子が変わりました。


「カロン爺さん、また列が伸びてます。それも、すごい勢いで」


「うむ……嬢ちゃん、これは尋常じゃないぞ」


新しく来る魂たちは、みんな一様に怯えていました。


「聖女さまの光に、無理やり消されかけた」

「街には黒い靄が溢れて、家に帰れない仲間がいる」

「渡れないまま、彷徨っている魂が、たくさん……」


私は、焼きたてを配りながら、事情を集めていきました。


(セラフィナ……あなた、何をしてるの)


地上で、破綻が始まっている。魂を導くべき者が、魂を壊している。渡し場が本来受け止めるはずの魂が、行き場を失って地上に溢れ、亡霊と化している。


そのとき、光の川が、ざわりと波立ちました。


対岸から、白い光をまとった舟が一艘、こちらへ渡ってきます。乗っているのは、荘厳な衣をまとった、顔の見えない使者。


「──『渡し守』よ」


声が、頭に直接響きました。


「地上の均衡が崩れかけている。魂の流れを司る渡し場が、長く空位であったがゆえに。そなたが本来の座に就いた今、地上の乱れを鎮められるのは、そなただけだ」


「……つまり、私がなんとかしないと、地上が亡霊だらけになると?」


「そのとおり。地上へ戻り、渡し場と地上を繋ぎ直すことを、そなたに願う」


私は、少し考えました。


あの神殿。私を「不吉だ」と切り捨てた場所。戻る義理なんて、正直、これっぽっちもありません。


でも。


目の前で怯えている、消されかけた魂たち。あの老婆のように、本当は温かく送り出されるべきだった人たち。


(私がやらなきゃ、この子たちが渡れない)


私は、エプロンの紐を結び直しました。


「わかりました。行きます。──ただし」


私はにっこり笑いました。


「かまどは、持っていきますよ。焼きたてがないと、始まらないので」


「くぅん(三重奏)!」


ケルベーが、任せろとばかりに胸を張りました。



    ◆



王都は、想像以上にひどい有様でした。


黒い靄が街路を漂い、人々は家に閉じこもり、あちこちで亡霊が呻いています。その中心──大聖堂で、私は久しぶりに、あの二人と再会しました。


「お義姉さま!? なぜ、あなたがここに!」


セラフィナが、青ざめた顔で叫びました。


祭壇の周りは、彼女が消しきれなかった亡者でびっしり埋め尽くされています。オルドリックは隅で、真っ青になって震えていました。


「なぜって。地上が亡霊だらけになって、困ってる人がいるからですよ」


私は、背負ってきた小さなかまどを、どすんと大聖堂の床に据えました。


「な、なんですの、その汚らしいものは! 神聖な大聖堂に!」


「パンを焼くんです。いつもどおり」


私は火を入れ、生地をこねはじめました。すぐに、香ばしい匂いが大聖堂に広がっていきます。


すると。


呻いていた亡者たちが、ふ、と動きを止めました。黒い靄が、少しずつ薄れていきます。彼らはうつろな目のまま、匂いに引き寄せられるように、私の前へ集まってきました。


「さ、次の方どうぞ。焼きたてありますよ」


私は焼きたてを配り、一人ひとりの話を聞きました。


消される恐怖で凝り固まった魂が、ぽつりぽつりと語り出します。生前の心残り。言えなかった言葉。そのたびに、黒い靄がほどけ、魂がやわらかな光に変わっていきました。


「な……何を、しているの」


セラフィナが、呆然と呟きました。


「消えていく……あんなに、わたくしの光でも消えなかったのに……パンを、食べさせただけで……」


「消してるんじゃありません。送り出してるんです」


私は、手を止めずに言いました。


「あなたがやっていたのは、無理やり存在を握りつぶすこと。だから魂は怨みを残して、逆流して、亡霊になった。──導くのと、壊すのは、違うんですよ」


次々と、亡者たちが光になって、天へ昇っていきます。数刻もしないうちに、大聖堂を埋め尽くしていた黒い靄は、跡形もなく消えていました。


窓の外を見ると、王都を覆っていた靄も、晴れていくのが見えました。


静寂の中、セラフィナがへなへなと膝をつきました。


「そんな……そんな、じゃあ、本物の聖女は……」


「セ、セラフィナ様が、聖女でなかったなど……!」


オルドリックが、慌てて距離を取ろうとします。責任を、義妹に押しつけようという魂胆が丸見えでした。


「わ、私は騙されていたのです! この娘が、聖女を騙って神殿を!」


「大神官さま」


私は、ゆっくりと振り返りました。


感情的に喚いたりはしません。ただ、静かに。


「ひとつ、お尋ねしてもいいですか」


私は、微笑みました。


「本物の聖女を『不吉な力だ』と追放したのは──どこのどなたでしたっけ?」


オルドリックの顔から、血の気が引いていきました。


大聖堂には、事態を聞きつけた王家の使者や、神官たちが集まっていました。誰もが、今しがた見たのです。誰が国を救い、誰が国を滅ぼしかけたのかを。


「わ、私は……その、あれは、神殿の秩序を守るためで……」


「『魂が視える、などと不気味なことを申すのだ』」


私は、あの日の彼の言葉を、そっくりそのまま返しました。


「『神殿の名誉のため、身を引くのが賢明でしょう』──そう仰ったのは、あなたです。だから私は、身を引いた。おかげで渡し場に辿り着けたので、そこは感謝していますけど」


「ちが……!」


「わたくしは正しいのに……わたくしは、正しいのに……!」


セラフィナは、床に崩れたまま、譫言のように繰り返していました。けれど、もう誰も、彼女の言葉に耳を貸しませんでした。


その日のうちに、大神官オルドリックは全ての権を剥奪され、セラフィナは偽りの聖女として神殿を追われました。──かつて、私にしたように。


失ってから、気づいたのでしょう。本物が、誰だったのかを。


でも、遅いんですよ。


だから言ったじゃないですか。


(私を捨てたこと、そのうち後悔しますよ、って)



    ◆



国は、私に「戻ってきてほしい」と乞いました。


大聖堂の頂点に、本物の聖女として。あらゆる名誉と地位を与える、と。


私は、丁重にお断りしました。


「ありがたいお話ですけど。私、あの世のパン屋のほうが性に合ってるので♪」


かしこまった宮殿の空気より、光の川のせせらぎと、焼きたての匂いのほうが、私にはずっと居心地がいいのです。


ただし、と私は付け加えました。


「渡し場と地上を繋ぐ道は、開けておきます。魂が困ったら、いつでも私が焼きたてを用意しますから。──もう、無理やり消したりしないでくださいね」


こうして私は、光の川の渡し場に戻りました。


ケルベーがじゃれつき、カロン爺が「おかえり、嬢ちゃん」と櫂を掲げて迎えてくれます。


「さ、次の方どうぞ! 焼きたてありますよ」


いつもどおりの、渡し場の一日。


──そのはずでした。


ケルベーが、突然、ぴたりと動きを止めました。


毛を逆立て、行列の最後尾を、じっと見つめています。


そこに、ひとりの男が立っていました。


銀灰色の髪。鋭い、竜のような眼。鍛え上げられた長身に、首筋には黒い鱗がわずかに覗いています。魂たちが思わず道を空けるほどの、圧倒的な威圧感。


なのに──その男は、大人しく、列の最後尾に並んでいるのです。


焼きたてパンの香りに、鼻をひくつかせながら。そわそわと。


「……あの」


私は、なぜか胸がざわつくのを感じながら、声をかけました。


「そんなに気になるなら、先に召し上がります?」


男は、はっと我に返ったように私を見て──そして、その竜眼を大きく見開きました。


「……あかり」


かすれた声で、男が言いました。


私は、どきりとしました。この世界の言葉ではない、前世の、私の名前。


「なんで、私の名前を」


「間に合わなかった」


男は、ぶっきらぼうに、けれど絞り出すように言いました。


「あのとき、お前が倒れたとき。俺は……間に合わなかった」


記憶が、じわりと蘇ります。橋のたもとのパン屋。よく通ってきた、無口で不器用な、大きな背中のお客さん。いつも同じパンを買って、ろくに喋らず帰っていった、あの人。


最後の日、私が倒れる少し前に、何か言いたそうにしていた、あの──


「あなた……もしかして」


「悪い」


竜人の騎士は、視線をそらし、けれど頬をわずかに赤らめて、


「──ずっと、渡れなかった。お前にもう一度、会うまでは」


ケルベーが、くぅん、と三重奏で鳴きました。まるで、その言葉を肯定するように。


生死の境を、彷徨い続けていたのだといいます。何度も渡し場の前に立ちながら、対岸へ渡ることを、頑なに拒み続けて。ただ一つ、私にもう一度会うために。


かまどの中で、次のパンが、ふっくらと膨らんでいきます。


私は、しばらく言葉を失って──それから、ふっと笑いました。


「……もう。だったら、早く言ってくれればよかったのに」


涙が、ひとつぶ、頬を伝いました。


「さ」


それでも、私は焼きたてのパンを、その大きな手のひらに乗せます。いつものように。


「焼きたて、ありますよ。──おかえりなさい」


男は、その温かいパンを、大切そうに両手で包みました。竜の眼が、じわりと潤みます。国宝級の武勇を誇るという最強の騎士が、パンひとつで、子どものように泣きそうな顔をしていました。


(なんですか、それ。可愛いじゃないですか)


私は、笑いをこらえながら、心の中でこっそり呟きました。


これは、追放された役立たず聖女が、あの世の渡し場でパンを焼きながら、いつのまにか国家の命運を握ってしまった物語。


そして、失ってから気づいた不器用な竜人と、もう一度出会う物語の──ほんの始まりです。


さ。


次の方、どうぞ。焼きたて、ありますよ♪

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