第五話
朝が来た。時計の針は八時を指していた。二人は一睡もせずに寄り添っていた。ひとしきり愛し合った後、ずっと二人でくだらない話に花を咲かせていた。
話に一区切りがついたところで、雄二の腹の虫がぐぅと鳴いた。レイリアはくすくすと笑い、雄二は照れを隠すように咳払いをした。
「そろそろ朝ごはん食べようか。レイリアもお腹空いたでしょ。」
「そうだな……。あ、一つ言っておくぞ。」
「ん?何?」
レイリアは立ち上がって窓の外の青空を見て大きく体を伸ばした。そして一呼吸置いてから言った。
「昨夜の事……もしもの事があればちゃんと責任取るんだぞ?」
「え?もしもの事?ちょっ……どういう事!?」
雄二は目をまん丸にして驚いた。うろたえるその姿を見てレイリアはくすりと笑う。
「冗談だよ……ふふ……お前との子供なら私も大歓迎だがな。さて、私はシャワーを浴びてくる。朝飯頼んだぞ。」
「俺もレイリアとの子供なら嬉しいな……。ゆっくり浴びといで。」
最後の言葉を笑顔のレイリアは背中で聞き風呂場に向かった。雄二はパジャマから部屋着に着替え、台所へと向かった。
シャワーを浴びながらレイリアはまた考え込んでいた。
自分は一体これからどうしたらいいのか。出来る事なら本当に雄二とずっと一緒にいたかった。だが魔界がそれを許すはずがない。勝手な行動の結果、お互いの身に予想される悲劇より重い悲劇が圧し掛かるかもしれない。どうしたらお互いがお互いの望む未来に進めるのか……。
レイリアは昨夜感じた彼の温もりを精一杯思い出して、決断した。
昨日までめそめそと泣いていた時の目とは違う、迷いのない目をして、シャワーを止めて洗面所に出る。身体を拭いて服を着る。そして彼女は服のポケットに収められたケースの中から、一つの青いカプセルを取り出した。
そのまま左手でそれを握り、レイリアはリビングへ歩んだ。
朝食はチャーハンだった。
レイリアは席に着くと先ほどのカプセルを机の下に放り投げ、足で踏み潰した。
「いただきます。ん……うまいな。」
いつもとは違う朝。自分の言いたい事が迷いなく口から出て行く。
「どうしたレイリア?いつもうまいなんて言ってくれなかったのに。」
「うまいものは…うまいぞ…」
新鮮な気分で、むずがゆい気がした。レイリアは雄二が作ってくれたチャーハンを味わって食べた。少し塩味が強い気がするが、不思議と食が進む。
「ありがとう。でもちょっとしょっぱくないかな?」
そう言って笑う彼が、目の前にいるから。
朝食を終えるのはレイリアの方が後だった。食べ終わった食器をシンクに置き、リビングのソファに座っている彼のもとへ。そしてレイリアの方から彼に唇を重ねた。
「レイリア、まだ食べたばかりだからチャーハンの味がするよ。」
そう言って笑う彼の顔を見てレイリアの心は更に安らいだ。
「馬鹿……。」
そう言って笑い、彼の隣に座り腕に抱き着いてこう言った。
「今日は……ずっとこうしていたい……。」
レイリアの頭を撫でる大きな手。レイリアはその感触を忘れぬようにそっと目を閉じた。
彼女が朝食の前に捻り潰したカプセル。
その中には液化青酸が詰められていた。常温で気化し、動物に対し致死性の高い青酸ガスになる。
これがレイリアの選んだ道だった。
あれからどれだけの時間が経っただろう。レイリアは目を開く。辺りは真っ暗だった。これが死なのだろうか。人間から悪魔になる際、一度死んだレイリアだがその時の感覚など覚えていなかった。
初めて見る闇。初めて感じる温度。
レイリアは怖かった。
二人で幸せに死ぬつもりだったのに、今は独り。
「何処だ……何処にいるんだ、雄二?私を独りにしないでくれ……。」
恐怖のあまりその場に座り込むレイリア。自分が座っている所が『何』かさえもわからず、余計に怖くなる。
その時、急に眼前に一人の少女が現れた。まだ周りは真っ暗闇だが、不思議とその姿だけははっきりと見えた。
「これは生前の……まだ人間だった頃の私……?」
その少女はゆっくりとレイリアに近づき、耳元で囁いた。
「くすくす……貴女馬鹿ね……。」
「な、何っ!?」
背筋が凍る程に耳を綺麗に震わせる声。レイリアはその少女を引き離そうと思ったが、腕も指も足も、全く身体が動かなかった。
金縛りのような感覚。全身から流れる冷や汗。少女は言葉を続け、レイリアの発汗を促した。
「貴女、こんな事しちゃうくせに魔界では有望なの?恥ずかしくないのかなぁ?」
「何の話だ!た、確かに今回はこういう流れになってしまったが……私は今までの仕事は先輩よりも確実に熟した!何が悪いんだ!」
少女は深く溜息をつくとレイリアから数歩離れた。
「だから馬鹿なのよ。貴女は一つ大きな間違いを犯してる。それはね……。」
嫌だ。聞きたくない。レイリアはその言葉で自分の全てが否定される気がして怖かった。ただ一言『怖い』としか言いようがないくらいに怖かった。何ににも例えられない、本当の恐怖。だが今の自分には耳を塞ぐ事すら出来ない。意識はあるのに、身体は動かないのに全身に無数の針を刺されるような感覚。既に自分がまだ汗をかいているのかすらわからない。
「貴女はね……。」
レイリアはそこで目が覚めた。窓の外は夕刻の紅い空。リビングのテレビの上に置かれたデジタル時計は、十六時を映している。
「夢……?何故私生きて……?」
レイリアが違和感を感じ隣を見ると、そこには青ざめた、雄二の姿があった。
「お、おい!目を覚ませ!私が生きてるんだ!お前も生きてるだろ!?」
レイリアは雄二の体を揺さぶり、彼の反応を待つ。しかし彼が返事をする事はなかった。
「そんな……まさか……!」
レイリアは食卓へ駆け寄ると机の下に落ちたカプセルを見て愕然とした。
「まさか……そんなはずは……。」
レイリアが手にしたのは青いカプセル。実はその中身は塩素系ガスだった。塩素系ガスは洗剤同士を混ぜると発生する危険な気体として有名である。生身の人間が吸うと致死性はないが吸気量によっては呼吸困難で死亡する事は十分にありうる。しかし元々は毒性の弱い気体であるため、人間とは体の造りが違うレイリアに対しては半日の昏睡程度の効果しか催さなかったのである。
実際に液化青酸が容れられているカプセルは『緑色』のカプセルだった。
「まさか……こんなちょっとしたミスを……?」
夢で見た間違いとはこの事だったのだろう。夢にまで出てくるだけあって自分でも気付いていたのかもしれない。だがそれでもこのカプセルを潰したのは精神が正常でなかったためか、それとも無意識の内の保身か、それを知る術はなかった。
レイリアはこれ以上言葉を吐けなかった。ただただ涙を流すだけで、些細なミスにも関わらず取り返す事の出来ない、何も出来ない自分が嫌で嫌で仕方なかった。
その時だった。
「レイ……リア……。」
レイリアは驚いて声のした方を振り向く。
先ほどは反応の無かったの男の声。愛した男の声。もう一度だけ聞きたくて胸を痛めたあの声。
まだ彼は生きている。レイリアは涙を拭いて駆け寄った。
レイリアは彼が息を吹き返していたのを確認してひどく安心した。だがこれで一件落着ではないというのはわかっていた。
「ごめん……私のミスで……ぐすっ」
頬を伝う涙を、彼のまだ辛うじて温かい手が拭う。
「泣くなよ……。レイリア……謝る事なんか……。」
彼のその言葉でレイリアは心に決めた。もうこの人の前では泣かないと。最後に一度、袖で目を擦り涙と決別した。
「私……いやだ……。私も連れていってくれ……。」
彼の大きな手がふわりとレイリアの頭に被さる。
「レイリア……これも君の仕事なら仕方ないよ……。でも君は生きていてほしい……。君まで死ぬ事はないよ……。」
「あぁ……わかった……。生きる。生きるから死なないでくれよ!」
雄二の手がレイリアの頭から離れ、彼女の手を握った。しかしその手にはもう、体温が感じられなかった。
「レイリアの手……温かいよ……。こうして死ねるだけでも幸せ者だ……。」
レイリアは彼の手をぎゅっと握り締めて胸に抱いた。
「死ぬなと言っているだろ……。離れたくないよ……。」
「実はね……もう目が見えないんだ。だんだんと耳も遠くなってる。着実と終わりがきてるってわかるんだ……。だから最期に……愛してるよ。」
掠れ切った彼の声。レイリアの耳には小さくしか届かない。
「諦めるな!生きる希望を持ってくれ!何とか生き延びて……私と逃げよう!」
何とか生き延びて。出来るものならそうしたかった。しかしそれが既に不可能なのはレイリアにも十分にわかっていた。
「レイリア……?まだ……近くにいるかい……?」
「な、何を言っている!こうして手を握っているじゃないか!」
レイリアは更に力を込めて雄二の手を抱きしめた。しかしもう彼にはそれを感じる力すら残っていなかった。彼の目から涙が零れ落ちる。
「レイリア……いやだ……。一人にしないで……くれよ……。ずっと……一緒にいたいのに……。何処に……いるんだよ……。」
レイリアは何も言わなかった。ただただ、彼に自分の温もりが伝わればと力一杯に彼の手を抱きしめた。
「……死にたくないよ。」
そう言うと彼は鳴咽して喉を鳴らしながら血を吐いて、息絶えた。
レイリアは絶対に涙を流そうとはしなかった。
愛した男への、最低限の礼儀。
もう動かない彼に、最期にそっと、静かに唇を重ねた。