第三話
半年の月日が流れて季節は冬になった。あれからリエルのいう悲劇とやらは一向に来る気配がなかった。
この半年の間、リエルが人間界の色々な物を見たいと言うから二人で海に行ったり、花火をしたり、紅葉を見たりして日々を満喫していた。
リエルは悪魔であり、見た目は小学生くらいだが、様々な事を二人で経験していくうちに修治は確実に彼女の笑顔に惹かれていた。ロリータ・コンプレックスの気はなかったが、それだけ彼女の純粋さは魅力であった。
今日は二人でこたつに入っている。ミカンを剥きながら修治はずっと気になっていた事をリエルに尋ねた。
「なぁ、悲劇っていつ来るんだ?もう半年は経つと思うけど……。」
修治が剥いたミカンをリエルが小さな手で奪い取りひょいと一房口に放り込む。こくりと飲み込み口を開いた。
「そのうち来ますよ。ただ……」
「ただ?」
「その……もうちょっとだけ……一緒にいたいかなって……。」
リエルは真っ赤な顔でそう言うと、すぐにこたつの中に潜ってしまった。修治は彼女の言葉の余韻に浸っていた。
ゴツンッ。
こたつの中から響いた鈍い音。
それに次いでリエルのくぐもった声も響いた。
「痛い……。」
今日はよく冷える日だ。修治は石油ストーブの燃料を換えている。リエルは何かの気配を察知している。
「……これは?」
「ん?リエルちゃん、どうしたの?」
「あ、いえ。何でも……ありません。」
その時、部屋にインターホンの音が鳴り響いた。
「誰だこの寒いのに……。はーい。」
修治が扉を開くと、そこに立っていたのは一人の小さな女の子だった。
「あれ?リエルちゃん……違う……?君は一体誰?」
そう、見た目はリエルと大差なかった。多少背と顔が違うくらいだ。ただ違うのは、その目から放たれる気迫と言うのだろうか、とてもじゃないがリエルとは比べ物にならないくらいに萎縮させられてしまう鋭い目だ。
「リエル……いるのだろう。出せ。」
その子の口から放たれたのはリエルとは正反対の凛とした声。心から凍りづけになるような声。
「あ、あぁ……リエルちゃん!お客さんだよ!」
修治がリエルを呼ぶと彼女はこたつから出てぱたぱたと駆けて来た。
「はーい……あ、貴方は……!」
リエルは玄関に立つ少女を見ると怯えて修治の影に隠れた。
リエルの知り合いであるということで修治は彼女を部屋にあげて話を聞くことにした。
「君、名前は?」
「私はレイリアだ。」
レイリアと名乗った少女は驚くほど無愛想である。無愛想であることで威圧感が増している。
「レイリアちゃん……。何か飲む?カルフィスとか……。」
「気安くちゃん等つけるな下等生物が!」
まさに悪魔とでもいうべき存在だ。修治は言い知れぬ不安に駆られた。
「さて、本題に入る。この男、修治の悲劇執行期間は既に半年が過ぎた。リエル、これは重大な命令違反だぞ。」
レイリアの厳しい口調にただ黙って俯くリエル。もしやここで「悲劇」が執行されるのだろうか。修治は心臓に鷲づかみにされたような痛みを感じる。完全に恐怖に漬けられていた。
「そこで魔界から命令が下った。リエルよ、選択しろ。」
リエルはごくりと唾を飲み込むと真剣な表情で聞き入った。
レイリアは冷たい言葉で修治の耳を刺した。
「今すぐこの男を悲劇に遭わせるか、魔界で罰を受けるか、だ。選べ。」
リエルは黙ってしまった。修治が彼女の立場でもきっとそうするだろう。修治はまだ離れたくないと心の底から思っていた。リエルもきっとそう思ってくれていると信じている。
だがレイリアはそんな事など一切汲もうとはしない。
「リエルよ、答えぬか。ならば私がこの人間を殺す。お前は罰を受けろ。」
レイリアのこの言葉にも黙ったままのリエル。だが、言葉には出さずとも彼女なりの勇気を振り絞った。 小さな体で修治の前に立ちはだかった。その小さな体は小刻みに震えていた。これがリエルの選択だった。
修治もリエルも何も言葉が出なかった。レイリアが修治に向けて一歩踏み出す。
「邪魔だ。リエル。」
そう言ってレイリアが手を振りかざすとリエルの体が宙を舞い、ボロ人形のように壁に打ち付けられて動かなくなった。修治は急いでリエルの下に駆けつける。目立った外傷は見当たらないが、気を失ってしまったようだ。
レイリアを見ると、彼女の右手付近の空間が歪み大きな鎌が現れた。
レイリアはその鎌を取り、修治に向かって振りかぶった。
――あ、死ぬな。
「さぁ人間よ。担当悪魔からの悲劇が下されない場合私達処刑悪魔からの死を受け入れるのが掟……。死ぬがよい。」
レイリアは振りかぶった鎌を振り下ろす。
またも修治の記憶が走馬灯のように巡る。
この感覚は前にも味わった事がある。そう、過去にトラックが突っ込んできたあの時と同じ感覚だ。
――もう少しだけ……少しだけでいいからリエルちゃんと一緒にいたかった……。もっと話がしたかった。もっとあの笑顔が見たかった。
修治は今となっては彼女の事を信じてるが、始めはちゃんと向き合っていなかった事を謝りたかった。
それに何より、修治は彼女の事が好きだったが、その事を一言も伝えていなかった。今となってはそれを伝える術もない。
もう時は戻らない。涙も流れない。
目の前に立ちはだかる死を受け入れるしかない。
だがその時、動かなくなっていたはずのリエルが修治の前に立った。レイリアの鎌は一向に下ろされない。
「また……時間止めちゃいました……。」
リエルがまた時間を止めた事で、またも死の瞬間を免れた。だが修治にはリエルの考えが全くわからなかった。
これから逃げるわけにもいかないだろう。ましてや戦う事も出来ない。絶対的窮地には変わりない。
ただ、わかったのはそこに彼女がいるという幸せだけだった。
そして動かない時の中、リエルが口を開いた。
「私……迷惑かもしれないですが……。」
その時だった。レイリアの鎌が……いや、時が再び動き始めたのだ。そしてレイリアの鎌はぐんと加速して……。
鎌はリエルの体を肩から腰にかけて袈裟掛けに分断した。
リエルの上半身はぼとりと机の横に転がった。そして下半身は力を失いその場に倒れた。
「ふん……リエルのような新人の魔力を私の魔力で抑えられないとでも思ったか……。愚かな。」
数秒の間を置いて修治の下半身からも力が抜け、その場にへたれ込んでしまう。だが修治は精一杯の力を振り絞り、リエルの上半身の下へと這い寄った。
そして彼女の上半身を抱き上げて、泣いた。
そうしていると俺の泣き声の他に、もう一つ虫の鳴くような声が聞こえた。
リエルだった。この斬撃で即死しないのは彼女が悪魔だからだろうか。
「わ……たし……」
「リエルちゃん……しゃべっちゃ駄目だ……。」
彼女がもう助からない事はわかっていた。だが修治は少しでも彼女の「生」を感じていたかった。
「迷惑かも……しれませんが……ずっと……好きでした……。」
ただ、ただ嬉しかった。こんな形にはなってしまったが、彼女の想いを知る事が出来て凄く幸せだった。嬉しさの余り、また涙が込み上げて鳴咽して、何も言えなかった。
そして、そのままふと闇に溶けるようにリエルは……消えた。彼女の下半身があった場所には一匹のゴキブリがいた。普段なら気持ち悪いと思うはずなのに、何故か愛しささえ感じられた。そのゴキブリが懐かしい天使のような悪魔の微笑みをしているように感じた。
くしゃり。
小さな音を立ててゴキブリはレイリアに踏みにじられた。
「人間よ。死よりも悲劇に値するようだな……。クク……あははははははは!人間よ!悲劇に身を浸し絶望にまみれ……己の死を待て!」
そう言うとレイリアは一瞬の内にカーテンを纏うごとく闇に消えた。
訪れた静寂。孤独。そして悲劇。
凄く不思議な出会いをして、恋をした。
凄く悲しい別れをして、泣いた。
リエルを守れなかった事が悔しかった。
リエルが死んでしまって悲しかった。
ただ、何よりも悔しかったのは……
「結局……結局俺は俺の気持ちも伝えてなかったし……何の言葉もかけてやれなかった……。」
悲劇はまだこれから起こるのかもしれない。
そしてリエルがいなくなってから半年が経った。そう、ちょうど出会ってから一年前後である。
修治が2年間勤めていたコンビニのバイトもずっと無断欠勤している。一切の連絡を断っているのでもうとっくにクビになっているだろう。
ただただ、何もする気が起きなかった。
ただ朝目が覚めて、いつもリエルが寝る時に抱いていたふかふかのタオルを抱いてぼーっとして、空腹を感じたら何かを食べて、暗くなったら眠りについて。
何もしない生活故に親からの仕送りで十分に生活出来た。パソコンも携帯もテレビもエアコンもいらない。まさに本当の廃人だった。
そしてあの日以来カルピスが減る事はなかった。