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勿忘草  作者: 悠羽
9/11

第九話 その名前は、音として戻った

その名前を聞いたのは、

 本当に、偶然だった。


 探していたわけじゃない。

 期待していたわけでもない。


 ただ、

 古い書類を整理していただけだ。



 母の遺品は、

 ほとんど残っていなかった。


 必要なものと、

 処分すべきもの。


 分ける作業は、

 思っていたよりも早く終わる。



 引き出しの奥に、

 小さなメモ帳があった。


 見覚えは、ない。


 でも、

 手に取った瞬間、

 胸の奥が、かすかに反応した。



 中身は、

 ほとんど白紙だった。


 日付も、

 記録も、

 途切れ途切れ。


 母の字だ。


数ページめくって、

 私は、指を止めた。


 名前が、

 ひとつだけ、

 書かれている。



 それは、

 花の名前だった。


 でも、

 ただの植物名だとは、

 思えなかった。


 花の名前というより、

 誰かを忘れないために

 残された印のように見えた。



 読み方を、

 私は知らなかった。


 それなのに、

 文字を見た瞬間、

 頭の中で、

 音が鳴った。


 静かで、

 やわらかい音。



 そのとき、

 スマホが鳴った。

 区役所からだった。


 追加の確認事項があるらしい。



「緊急連絡先として

 記載されていた方の件で……」


 事務的な声。


 淡々とした確認。



「この方、

 ——みおさん、ですよね」


 その名前が、

 はっきりと、

 音になった。



 胸の奥で、

 何かが、

 きれいに収まった。


 驚きも、

 動揺も、ない。


 ただ、

 そうだ、

 と思った。



 通話を切ったあと、

 私は、

 しばらくその名前を、

 口に出さずにいた。


 声にすると、

 形が変わってしまいそうで。



 夕方。


 私は、

 あの場所を通った。


 もう、

 迷わない。



 彼女は、

 そこにいた。


 夕暮れの中で、

 立ち止まっている。



 私は、

 声をかける。


「……あの」


 彼女が、

 振り返る。



「あなたの名前、

 澪、ですよね」


 問いかけじゃなかった。


 確認でもない。


 ただ、

 音を、

 そこに置いただけ。



 彼女は、

 一瞬だけ、

 目を伏せた。


 そして、

 小さく笑った。



「……そう呼ばれていました」


 現在じゃない。

 でも、

 否定でもない。



 夕暮れの匂いが、

 二人の間を、

 静かに通り抜ける。



 私は、

 それ以上、

 何も言わなかった。


 彼女も、

 何も足さなかった。



 名前は、

 確かに、

 ここに戻ってきた。


 でも、

 それだけで、

 十分だった。



 花は、

 まだ、

 咲いている途中だ。


最終話:勿忘草

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