第九話 その名前は、音として戻った
その名前を聞いたのは、
本当に、偶然だった。
探していたわけじゃない。
期待していたわけでもない。
ただ、
古い書類を整理していただけだ。
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母の遺品は、
ほとんど残っていなかった。
必要なものと、
処分すべきもの。
分ける作業は、
思っていたよりも早く終わる。
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引き出しの奥に、
小さなメモ帳があった。
見覚えは、ない。
でも、
手に取った瞬間、
胸の奥が、かすかに反応した。
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中身は、
ほとんど白紙だった。
日付も、
記録も、
途切れ途切れ。
母の字だ。
数ページめくって、
私は、指を止めた。
名前が、
ひとつだけ、
書かれている。
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それは、
花の名前だった。
でも、
ただの植物名だとは、
思えなかった。
花の名前というより、
誰かを忘れないために
残された印のように見えた。
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読み方を、
私は知らなかった。
それなのに、
文字を見た瞬間、
頭の中で、
音が鳴った。
静かで、
やわらかい音。
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そのとき、
スマホが鳴った。
区役所からだった。
追加の確認事項があるらしい。
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「緊急連絡先として
記載されていた方の件で……」
事務的な声。
淡々とした確認。
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「この方、
——澪さん、ですよね」
その名前が、
はっきりと、
音になった。
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胸の奥で、
何かが、
きれいに収まった。
驚きも、
動揺も、ない。
ただ、
そうだ、
と思った。
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通話を切ったあと、
私は、
しばらくその名前を、
口に出さずにいた。
声にすると、
形が変わってしまいそうで。
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夕方。
私は、
あの場所を通った。
もう、
迷わない。
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彼女は、
そこにいた。
夕暮れの中で、
立ち止まっている。
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私は、
声をかける。
「……あの」
彼女が、
振り返る。
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「あなたの名前、
澪、ですよね」
問いかけじゃなかった。
確認でもない。
ただ、
音を、
そこに置いただけ。
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彼女は、
一瞬だけ、
目を伏せた。
そして、
小さく笑った。
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「……そう呼ばれていました」
現在じゃない。
でも、
否定でもない。
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夕暮れの匂いが、
二人の間を、
静かに通り抜ける。
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私は、
それ以上、
何も言わなかった。
彼女も、
何も足さなかった。
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名前は、
確かに、
ここに戻ってきた。
でも、
それだけで、
十分だった。
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花は、
まだ、
咲いている途中だ。
最終話:勿忘草




