第八話 言葉を交わしても、名乗らない
その日は、
夕暮れが少し遅かった。
昼と夜の境目が、
なかなか決まらないみたいに、
空の色が長く留まっている。
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私は、
あの場所を通った。
もう、避けてはいない。
でも、探してもいない。
ここを通るのは、
ただの生活の延長だ。
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人の流れが、
ふと緩む。
その隙間に、
彼女はいた。
立ち止まって、
空を見上げている。
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一瞬、
声をかけるか迷った。
知り合いじゃない。
でも、知らないとも言い切れない。
その曖昧さが、
私の足を止めた。
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「……すみません」
先に声を出したのは、
彼女だった。
驚いたのは、
私のほうだ。
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「この辺、
夕方になると、
匂いが変わりますよね」
そう言って、
彼女は少しだけ笑った。
初めて聞く声のはずなのに、
胸の奥が、
ゆっくりと落ち着いていく。
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「……分かります」
それだけで、
言葉は足りてしまった。
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二人並んで、
少しだけ歩く。
話題は、
本当にどうでもいいこと。
この道が近道だとか、
最近、日が長くなったとか。
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名前も、
過去も、
出てこない。
それでも、
沈黙は気まずくなかった。
無理に埋めなくていい間。
以前から、
こうだった気がする。
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角に差しかかる。
ここで、
別れる。
そう分かっているのに、
足が、
ほんの少しだけ、
重くなる。
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「また、
ここで会うかもしれませんね」
彼女は、
冗談みたいに言った。
でも、
どこか確信が混じっている。
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「……そうですね」
私は、
頷いた。
それ以上は、
踏み込まない。
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別れて、
数歩歩いてから、
同時に振り返った。
目が合う。
一瞬だけ。
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彼女は、
何か言いかけて、
やめた。
私も、
同じだった。
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結局、
名前は聞かなかった。
でも、
それでよかった。
今は、
それでいい。
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帰り道。
夕暮れの匂いが、
確かにあった。
私は思う。
忘れていたわけじゃない。
捨てたわけでもない。
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ただ、
言葉にする準備が、
まだ、
できていなかっただけだ。
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彼女も、
同じだといい。
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名前は、
もう少し、
ここに置いておく。
第九話:その名前は、音として戻った




