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勿忘草  作者: 悠羽
8/11

第八話 言葉を交わしても、名乗らない

その日は、

 夕暮れが少し遅かった。


 昼と夜の境目が、

 なかなか決まらないみたいに、

 空の色が長く留まっている。



 私は、

 あの場所を通った。


 もう、避けてはいない。

 でも、探してもいない。


 ここを通るのは、

 ただの生活の延長だ。



 人の流れが、

 ふと緩む。


 その隙間に、

 彼女はいた。


 立ち止まって、

 空を見上げている。



 一瞬、

 声をかけるか迷った。


 知り合いじゃない。

 でも、知らないとも言い切れない。


 その曖昧さが、

 私の足を止めた。



「……すみません」


 先に声を出したのは、

 彼女だった。


 驚いたのは、

 私のほうだ。



「この辺、

 夕方になると、

 匂いが変わりますよね」


 そう言って、

 彼女は少しだけ笑った。


 初めて聞く声のはずなのに、

 胸の奥が、

 ゆっくりと落ち着いていく。



「……分かります」


 それだけで、

 言葉は足りてしまった。



 二人並んで、

 少しだけ歩く。


 話題は、

 本当にどうでもいいこと。


 この道が近道だとか、

 最近、日が長くなったとか。



 名前も、

 過去も、

 出てこない。


 それでも、

 沈黙は気まずくなかった。


 無理に埋めなくていい間。


 以前から、

 こうだった気がする。



 角に差しかかる。


 ここで、

 別れる。


 そう分かっているのに、

 足が、

 ほんの少しだけ、

 重くなる。



「また、

 ここで会うかもしれませんね」


 彼女は、

 冗談みたいに言った。


 でも、

 どこか確信が混じっている。



「……そうですね」


 私は、

 頷いた。


 それ以上は、

 踏み込まない。



 別れて、

 数歩歩いてから、

 同時に振り返った。


 目が合う。


 一瞬だけ。



 彼女は、

 何か言いかけて、

 やめた。


 私も、

 同じだった。



 結局、

 名前は聞かなかった。


 でも、

 それでよかった。


 今は、

 それでいい。



 帰り道。


 夕暮れの匂いが、

 確かにあった。


 私は思う。


 忘れていたわけじゃない。

 捨てたわけでもない。



 ただ、

 言葉にする準備が、

 まだ、

 できていなかっただけだ。



 彼女も、

 同じだといい。



 名前は、

 もう少し、

 ここに置いておく。


第九話:その名前は、音として戻った

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