第五話 何もなかったとは言い切れない
病院に行こうと思ったのは、
強い不安があったからじゃない。
ただ、
一度、言葉にして聞いてみたかった。
何もなかったと、
本当に言い切れるのかどうかを。
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診察室は、
思っていたよりも静かだった。
白い壁。
低い声。
淡々とした質問。
名前。
年齢。
仕事。
どれも、
問題なく答えられる。
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「お母さまが亡くなられたのは、
いつ頃でしたか」
その問いで、
少しだけ、間が空いた。
「……正確には、
覚えていません」
医師は、
驚いた様子もなく、
小さく頷いた。
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「その前後の記憶が、
曖昧だと感じることはありますか」
「あります」
即答だった。
夕暮れ。
匂い。
名前のない誰か。
でも、
それ以上は言わなかった。
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「強い喪失体験のあと、
一時的に記憶が抜け落ちることは、
珍しくありません」
穏やかな声だった。
「それを“なかったこと”として
生活できてしまう人もいます」
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私は、
その言葉を、
頭の中で転がす。
なかったことにする。
それは、
逃げだったのだろうか。
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「……じゃあ」
喉が、
少しだけ乾く。
「その間に、
何かがあった可能性も?」
医師は、
一拍だけ、考えた。
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「“なかった”と
言い切ることもできません」
その言葉は、
思っていたよりも、
重かった。
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診察は、
それ以上踏み込まなかった。
診断名も、
治療も、
今すぐ必要ではないと言われた。
私は、
普通に生活できている。
それは、
確かな事実だった。
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病院を出ると、
外は、夕暮れだった。
風が吹いて、
あの匂いが、
一瞬だけ、鼻をかすめる。
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私は、
立ち止まらなかった。
前に進むと、
決めている。
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でも。
何もなかった人生より、
何かを失った人生のほうが、
少しだけましに思えた。
その考えが、
もう、
言い訳ではなくなっていることに、
私は気づいていた。
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家に帰ると、
ポストに一通の封筒が届いていた。
差出人は、
見覚えのない名前。
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でも、
中身を確認する前から、
胸の奥が、
わずかに反応する。
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封筒は、
まだ、開けない。
今日は、
ここまででいい。
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確かに、
何かはあった。
それだけは、
もう、
否定できなかった。
第六話:名前より先に、意味があった




