第三話 思い出せない時間の話
役所から届いた封筒は、
思っていたよりも薄かった。
母に関する手続きは、
ほとんど終わっているらしい。
相続も、
保険も、
連絡すべき親族も、いない。
唯一の肉親だったという事実は、
書類の上では、
驚くほど簡単に片づけられていた。
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封筒の中に、
一枚だけ、見慣れないコピーが混じっていた。
医療機関の名前。
日付。
母が亡くなった、
少しあとの時期。
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私は、
その名前を知らなかった。
少なくとも、
記憶の中にはない。
それなのに、
文字を追った瞬間、
胸の奥が、わずかに反応した。
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この期間。
私の記憶が、
曖昧になっている時期と、
重なっている。
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調べようとして、
やめた。
理由は、
怖いからじゃない。
今の生活を、
壊したくなかった。
前に進むと、
決めたのは、
他でもない、私自身だ。
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コピーを元に戻し、
封筒を閉じる。
その動作が、
思っていたよりも、
慎重になった。
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その夜、
久しぶりに夢を見た。
内容は、
ほとんど思い出せない。
ただ、
誰かに名前を呼ばれていた気がする。
声は、
遠くて、
輪郭がない。
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目が覚めたとき、
胸の奥に、
小さな余韻だけが残っていた。
懐かしさとも、
不安とも、
少し違う感覚。
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翌日。
仕事は、
いつも通りだった。
書類を確認し、
メールを返し、
同僚と、他愛のない会話をする。
私は、
壊れていない。
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それでも、
ふとした瞬間、
昨日の封筒のことを思い出す。
思い出そうとすると、
頭の中が、
静かになる。
映像も、
音も、
感情も、
きれいに消えていく。
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まるで、
最初から、
何もなかったかのように。
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でも。
夕暮れの匂いだけは、
嘘をつかない。
そう思ってしまった自分に、
私は、少しだけ驚いた。
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帰り道。
空は、
もう赤くなり始めている。
私は、
歩きながら、
小さく息を吐いた。
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思い出せない時間があることと、
何もなかったことは、
同じじゃない。
その考えが、
胸の奥に、
静かに残ったまま、
消えなかった。
第四話:すれ違ったという事実




