第二話 夕暮れは、もう平気だと思っていた
夕暮れは、
もう平気だと思っていた。
仕事帰り、
空の色が変わる時間帯も、
以前ほど胸をざわつかせなくなっている。
前は、
あの色を見るたびに、
理由の分からない焦りや、
取り残された感じがあった。
今は、ない。
……そう、思っていた。
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改札を抜け、
人の流れに身を任せる。
足取りは、軽い。
立ち止まる理由もない。
生活は、ちゃんと続いている。
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ふと、
風向きが変わった。
夕暮れの匂いが、
一瞬だけ、鼻をかすめる。
懐かしい、と感じる前に、
胸の奥が反応していた。
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私は、歩きながら考える。
これは、
ただの条件反射だ。
匂いと記憶が、
たまたま結びついているだけ。
誰にでも、
ひとつやふたつ、
そういうものはある。
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それでも、
視線が、自然と前を探してしまう。
人混みの中に、
理由のない“探しもの”が混じる。
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あの場所が近づく。
駅前の、
少しだけ人の流れが緩むところ。
以前から、
何度も通っている道。
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私は、
立ち止まらなかった。
平気だと思っている証拠みたいに、
そのまま歩こうとした。
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そのとき、
視界の端に、
後ろ姿が映った。
特別な服装でも、
目立つ髪型でもない。
ただ、
そこに立っている人。
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胸の奥が、
小さく、揺れた。
——違う。
すぐに、そう思う。
彼女じゃない。
似ているわけでもない。
私は、もう前に進んでいる。
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それでも、
足が、ほんの一瞬だけ、遅れた。
女性は、
立ち止まって、
何かを探すように周囲を見回す。
その仕草が、
なぜか、
記憶の奥を掠めた。
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思い出したわけじゃない。
ただ、
知っている感じがした。
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次の瞬間、
女性は歩き出し、
人の流れに紛れて消えた。
私は、
追いかけなかった。
声をかける理由も、
必要も、ない。
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帰り道。
夕暮れは、
いつの間にか夜に変わっていた。
匂いも、
もう感じない。
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それなのに、
胸の奥に、
小さな問いだけが残る。
本当に、
平気だったのだろうか。
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私は、
前に進むと決めている。
でも、
前に進むことと、
何もなかったことにするのは、
同じじゃない。
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その違いを、
夕暮れは、
今日も、静かに置いていった。
第三話:思い出せない時間の話




