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勿忘草  作者: 悠羽
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第一話 空白は、最初からそこにあった

本作『勿忘草』は、

 短編「夕暮れの匂いだけが本物だった」の

 続編として書かれました。


 ただし、

 前作を読んでいなくても、

 この物語は読めるようにしています。


 前作で描いたのは、

 「何もなかったかもしれない恋」でした。


 今作で描いているのは、

 それでも、

 確かに残ってしまったものの話です。


 記憶は、ときどき曖昧で、

 感情は、名前を失います。


 それでも、

 失われた時間が、

 最初から存在しなかったことには

 ならないのだとしたら。


 この物語は、

 その問いに、

 静かに向き合うための続きです。

母が、私にとって唯一の肉親だった。


 その事実を、

 私は特別なことだと思わないようにしてきた。

 同情も、説明も、必要ないと信じていた。


 母が亡くなった日のことを、

 私はほとんど覚えていない。


 泣いたのか、

 誰かに抱きしめられていたのか、

 そのどちらでもなかったのか。


 ただ、

 世界の音が一段遠くなった感覚だけが、

 今も身体の奥に残っている。


 その後しばらくの記憶が、

 抜け落ちていることを、

 私は知らなかった。


 空白は、

 最初からそこにあったような顔をして、

 何事もなかったふりをしていた。



 今の生活は、悪くない。


 仕事は続いているし、

 毎朝、同じ時間に起きて、

 帰る場所もある。


 前よりも、

 確実に、うまくやれていると思う。


 少なくとも、

 立ち止まったままではいない。


 前に進むことは、

 もう決めていた。



 だから私は、

 彼女のことを妄想だと思い込むことにした。


 誰かを好きだった気がする。

 でも、名前も顔も思い出せない。


 残っているのは、

 夕暮れの匂いと、

 胸の奥に沈んだ感情だけ。


 そんなもの、

 現実じゃないと決めつけるほうが、

 ずっと楽だった。


 何もなかった人生より、

 何かを失った人生のほうが、

 少しだけましに思えた。


 たぶん私は、

 その静けさに耐えられなかったのだと思う。



 夕暮れは、

 もう平気だと思っていた。


 仕事帰りの空の色も、

 帰り道に漂う匂いも、

 特別な意味を持たなくなったはずだった。


 ——そう、思っていた。


 あの場所を訪れるたび、

 決まって、彼女の姿が浮かぶ。


 顔は、相変わらず曖昧だ。

 輪郭だけが、光の中に残っている。


 立ち止まって、

 振り返って、

 何か言いかけている。


 声は聞こえない。


 それなのに、

 伝わってくる。


 忘れないで。


 そう言われている気がした。



 彼女は、理想だった。


 友人の恋の話。

 映画のワンシーン。

 誰かの幸せの断片。


 それらを集めて、

 無意識のうちに作り上げた存在。


 薄々、

 最初から気づいてはいた。


 彼女が、

 現実の誰でもないことを。


 ——そう、

 思い込もうとしていただけで。



 前に進むことと、

 忘れることは、

 同じじゃない。


 その事実を、

 夕暮れは、静かに突きつけてくる。


 空白の過去は、

 本当に、何もなかったのだろうか。


 本物だったのは、

 匂いだけだったのか。


 それとも、

 私が知らないだけで、

 確かに存在していた時間が、

 そこにあったのか。


 その答えを、

 私はまだ、探していない。


 ——でも、

 もう見ないふりはできなくなっていた。


第二話:夕暮れは、もう平気だと思っていた

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