悪い日
ベッドの端に座ったまま、結城は壁に掛かった時計をぼんやりと見つめていた。針はもう「そろそろ起きろ」と言っている位置をとっくに過ぎている。
「……何もしてないのに、なんでこんなに疲れてるんだよ」
小さくつぶやきながら、重い体を引きずるように立ち上がる。身支度を済ませ、味のしない朝食を適当に口に放り込み、家を出た。
学校までの道はいつも通りだった。騒がしさも、期待もない。ただ流れるだけの朝。
今日も、何事もなく終わるはずだった。
授業は淡々と進んだ。教師の声、黒板に書かれる文字、ノートに走るペン。結城は必要なときだけ聞き、指名されたら答え、すぐに意識を机に戻す。
特別なことは、何もない。
……昼休みまでは。
チャイムが鳴った瞬間、結城は立ち上がろうとした。
「結城〜」
背後から制服の襟を掴まれる。
「ちょっ——」
振り返ると、そこには由利、ミナ、そして真子が立っていた。三人とも、妙に息の合った笑顔を浮かべている。
「一緒にお昼、食べよ?」と由利。
「いや、俺は——」
「拒否権なしだよ〜」とミナ。
次の瞬間には、結城は教室の外に引きずり出されていた。周囲の生徒たちがちらちらと視線を送る中、結城は抵抗を諦める。
食堂の隅の席に座り、結城はトレーを見下ろしたまま黙っていた。一方、三人は楽しそうに会話を続けている。
「ねえ、放課後さ」と真子が口を開く。「私の家で勉強しない?」
結城の手が止まる。
「しない」
「まだ話は終わってないよ」
「いや、もう終わってる」
「家、広いし。教材も揃ってる」
「真子の家、久しぶりだよね」と由利。「中学以来じゃない?」
「行きたい!」とミナ。
結城はゆっくり顔を上げた。
「俺、男なんだけど」
三人は一瞬顔を見合わせ——
にっこり笑った。
「だからいいんじゃない」
「よくない」
結局、放課後も彼の意思は尊重されなかった。
学校を出てしばらく歩いた先に現れたのは、大きな門と手入れされた庭を持つ豪邸だった。
結城は足を止める。
「……でか」
「普通だけど」と真子。
内心では完全に圧倒されていたが、結城は表情を変えなかった。無表情スキルは伊達じゃない。
中に入ると、使用人が丁寧に頭を下げた。
「お帰りなさいませ、真子お嬢様」
そして結城を見る。
「……?」
「クラスメイト」と真子が短く説明する。
どこかざわついた空気のまま、彼らは勉強部屋へ案内された。広く、静かで、本棚が壁一面に並んでいる。
最初は普通に勉強していた。
最初は。
時間が経つにつれ、距離が近い。視線が多い。冗談にしては妙に意味深。
「結城、理解早いね」と由利が肩を寄せる。
「わからなかったら、私がゆっくり教えるよ」とミナ。
真子は何も言わないが、視線だけは外さない。
結城は顔を上げた。
「……なんでそんな変な感じなんだ?」
三人が固まる。
「へ?」
「変じゃないよ?」
「気のせいじゃない?」
明らかに動揺していた。
「冗談だよ、ただの」と由利。
「友達同士のね」とミナ。
結城は頷いた。
「……ああ、そういうことか」
なぜか空気は余計にぎこちなくなった。
しばらくして、結城はトイレに向かった。戻る途中、角を曲がった瞬間——
「きゃっ!」
女性とぶつかりそうになった。
「誰!?」
大声に、使用人と三人が駆け寄ってくる。
「あ、結城だよ」と真子。
女性は安堵し、次の瞬間には満面の笑みになった。
「あなたが真子の友達?」
「は、はい」
「私、母です」
結城は背筋を伸ばした。
両肩を掴まれ、目を輝かせる。
「信じられないわ……真子に彼氏ができるなんて!」
「ち、違います!」
「昔から男の子に冷たかったから……仲良くしてあげてね」
「本当に友達です!」
表情が一瞬で落ちた。
「……そう」
そのとき、ミナがぽつりと。
「照れてるだけだと思います」
結城の人生が、静かに終わった瞬間だった。
その後、甘いお菓子が出され、勉強は再開された。
休憩中、結城は小声で言った。
「なんでああ言ったんだ」
「可哀想だったから」
「……俺が可哀想なんだけど」
夕方、結城は屋敷の小さな書庫を見つけた。目を輝かせ、本を数冊手に取る。
「借りていい?」
「どうぞ」と真子。
日が沈み、彼らは家を後にした。
結城は思う。
今日は普通の日のはずだった。
でも、確実に何かがズレ始めている。
——そして、これはまだ始まりに過ぎない。




